女冥利につきるぅ
「どうー? 大丈夫? ドルト君ー」
煉瓦敷きの小道の途中に倒れている青年を見つけて、エピクロスは声をかける。
今日は、昨日とは違う方向に飛ばされていた。草っぱらだった昨日と違い痛かっただろうなとエピクロスは思ったが、青年のほうはすでに意識があるようだった。
「あ……エピクロスさん、おはようございます」
「何言ってんのー。寝てた? そんな時間経ってないよ」
近づいてしゃがむ。
「それにしても、飛距離伸びてるねー」
「ええ、飛行時間から考えて、前回より倍以上遠くに飛ばされているんじゃないかと思います。よくわかりましたね、僕がここだと」
「うん。飛ぶの見えたから」
「そうですか……」
エピクロスは周りを見渡した。ここは校舎のある学園の中心部から奥の森やら山やらへと続く小道のうちの一つだ。通る生徒はほとんどいない。無数に伸びているそれぞれの道がどこに続いているのか、エピクロスは知らない。
「今日はアダムさんは一緒ではないのですか?」
エピクロス一人でいるのを見て、青年が尋ねる。
「ん? アダムはもう飽きたって。よろしくって言ってた」
アダム・スミスは熱しやすく冷めやすい少女なのだ。
「そうですか……」
「で、どうだったー?」
「ええ、今回もまた、僕は知らないことを知ることができました」
体を起こそうとするドルト。
「あ、無理しなくていいよ。昨日よりダメージ大きいでしょ?」
「よっこいしょ。いえ、不思議なことにそんなにダメージは無いんです。あの光る拳に殴られると、痛みもありますがそれ以上に心地よさに包まれます」
それを聞いてエピクロスはまあと笑った。
「えー。なんか違うものに目覚めてない?」
「違うもの?」
「あ、ううん何でも。で、今回は何を知ることができたのー?」
「今回はまず……。僕はソクラテスさんに、好きだということの意味について、こう説明したのです。僕はあなたのためならすべてを犠牲にできる、と」
「わーお。女冥利につきるぅ」
口に手を当てるエピクロス。
「ところが彼女はそうでもなかったようでした。僕は言葉をつくして説明したのです。あなたの為なら何を失ってもかまわない、僕の人生のすべてを捧げられると。しかし彼女は、ならその恋心さえも失ってもいいの? などと笑いながら尋ねました」
「屁理屈だなぁ」
「僕はちゃんと答えました。この恋心は失い得ない、その時は死ぬ時だ、と」
「わ、かっこいいー」
両頬に手を当てるエピクロス。
「さらに彼女は聞いてきました。でも私が同じ気持ちを持っているとは限らないでしょ? と。僕は迷わず答えました。振り向かせてみせますと」
「いやーん」
自分の体を抱いて身をよじるエピクロス。あまり色気はない。
「すると彼女はそこで真剣な口調になりました。じゃあ君はどうして欲しいの? と尋ねたのです。だから僕は言ったんです。つきあってくれ、と」
「おー。いいねいいねー。責めるねドルト君」
「すると彼女は言いました」
うんうん、と頷いていたエピクロスだが、そこでしばし沈黙したドルトを見て、おずおずと口にした。
「もしかして……つきあうって何とか聞かれた?」
だが予想は外れた。青年は首を横に振った。
「…………いえ、違います」
「あれ……」
「その質問ならば僕は答えを持っていたのです。彼女とたくさん話したい、一緒にいろんな場所へ行きたい、といったような。細かいことを聞かれたらそれはもう、具体的なプランをいくつも考えていたのです。考えていたのですが」
「違ったかー」
頷くドルト。
「なんて聞かれたの?」
「なぜか、と聞かれました」
「なぜか? ……なぜつきあいたいのか、ってこと?」
「そういうことでしょう。僕は答えにつまりました。好きだから。そう言うしかなかったんですが、それはもう言ってしまったし、だから答えようがない。そして……」
「殴り飛ばされた?」
頷くドルト。
「好きだと言いましたし、その想いの深さも表現したつもりです。しかしそれだけでは、つきあう理由になっていない、ということなのでしょうね」
「そうなのかなー。理由なんて普通、それで十分だと思うけどなー」
「普通に考えればそうなのでしょう……」
青年はそこで、はっとした表情をした。
「そうか……」
「ん? どうしたの?」
「ありがとうエピクロスさん。そうか、やっとわかりました。普通に考えれば……。つまり僕はまた、自分の頭で考えていなかった訳です」
「え? どういうこと?」
「僕はただ、好きになった男女はつきあうものだという固定観念に従っていたに過ぎない。自分がどうしたかったのか、きちんと考えていなかった」
うんうんと頷くドルトに、首をひねるエピクロス。
「えっと……じゃあつきあいたい訳じゃなかったってこと?」
「いや……彼女と話がしたい、というのは確かです。ただ遊園地や映画館へ出かけるというプランは借り物の発想でした。だいたい僕、そう遠くへ行けませんし」
「じゃあどうするのー?」
「また一晩、じっくり考えてみます。彼女とつきあいたい理由を」
「そっかー」
エピクロスは、ぽんぽんとドルトの肩を叩いた。
「がんばってね。応援してる」
「ありがとう、エピクロスさん。がんばります」
「次の呼び出しはいつ? また明日で大丈夫ー?」
「はい、再三のお願いで申し訳ないですが」
「いいってことよー」
少女は小さな胸をどんと叩いたのだった。
*
アリスが呆れたように言った。
「また呼び出しですか? 諦めの悪い……いえ、想いの深い人ですね」
翌日の古代クラスの教室。まだ来ていないソクラテスを、友人たちと話しながらエピクロスは待っているのだった。
プラトンはそれを聞いて心配そうに言った。
「あの、その人には悪いけど、もう諦めてもらったほうが良いんじゃないかなぁ……。身がもたないよ」
身がもたないのはもちろんドルトのほうである。
「まあ、本当にもたなくなったらやめるでしょう。それにしてもタフな方ですね。今回はどこまで飛ばされていたんですか?」
「んとねー。大木の広場から……日時計の丘の少し先あたりまでかな。でもピンピンしてたよー」
「いったい、どんな体してるんですか」
ほぼ、五百メートル近い距離である。
「で……どうするんですか? また呼び出しがあったのでしょう? 言うわけですか、ソクラテスに」
「うん。彼がリトライしたいと言ってるんだから、やらせてあげるべきだと思うんだー」
「……むぅ……。ソクラテスちゃんもその気がないなら断らなくちゃダメです」
プラトンがうつむいて言う。
「ま、裏を返せばその気がないこともない……ということじゃないですか?」
ニヤリとするアリス。慌てるプラトン。
「そ、そんな……! ソクラテスちゃんに限って、あり得ないもん」
「わかりませんよ。彼女、意外に頼りない男性に弱いですからね」
「な、なんてことを言うのアリスは!」
手をあげてぶつ真似をするプラトンをかわしてアリスは立ち上がり、エピクロスを見た。
「私、ちょっと興味がわいてきました。エピクロス、呼び出しは大木の広場でしたっけ? 影からこっそりそのドルトさんを見ておこうと思います」
教室の外へと歩き出すアリスをプラトンが咎める。
「えー、覗くの? アリス趣味悪いよぅ」
「話までは立ち聞きするつもりはありませんよ。どれだけ屈強な男性なのか、ちょっとビジュアルの確認です。プラトンも行きませんか?」
「わ、私はいいよう」