栗まんじゅうとの違い
「ソッキー!」
扉を開け放ち教室に走り込んでくるエピクロス。扉をメリッソスがそっと閉めるのを尻目に、そのままの勢いで教室の中央に集まっている友人たちのところに突っ込んでいった。
受け止めたのは髪の長い美少女だった。細く透き通るような手が嫋やかにエピクロスの頭に回される。一挙手一投足がすべて可憐を体現するこの少女こそ、プラトンである。本人の知らないファンクラブがそこかしこに存在しているが、それに気づいていないのは彼女が現実を直視するより空想に遊ぶのが好きな少女だからである。
プラトンは慈愛の女神のような柔和な笑顔で、抱きついてきたエピクロスの頭を撫でた。
「走ると危ないよ、エピクロスちゃん」
「ありがとプラちん」
顔を上げて礼を言うエピクロス。そして首をひねってソクラテスを見つめる。
「……また伝言だよ、ソッキー」
「何よ? エッピー」
ソクラテスは机に頬杖をついたまま答えた。聞きとがめるエピクロス。
「エッピー? ……なんか、びみょー」
ソクラテスはがっかりした顔をした。
「なんでソッキーはよくてエッピーはダメなの?」
「なんか間が抜けてるし」
エピクロスの返答に、アリスが本から目を離さないまま言う。
「ソッキーも間抜けさでは引けをとりませんけどね」
プラトンは机上に出しっぱなしだった教科書を片付けながら、人差し指を頬にあてて考える仕草をした。
「やっぱソシュールでないとダメなのじゃない?」
ソクラテスはため息をついた。
「今度頼んどくわ。エッピーの新作あだ名」
そう言うと、頬杖を解いて顔をエピクロスのほうに向ける。
「ところで伝言は何?」
「またドルト君から呼び出し」
「ドルト君?」
プラトンが眉をひそめる。あ、しまったという顔をするエピクロス。アリスがエピクロスの頭を軽く叩いた。昨日いなかったプラトンはこの話をまだ知らない。
「だ……誰なの? そのドルト君って」
やや顔を曇らせて聞くプラトンに、ソクラテスは首をコキコキ鳴らしながら答える。
「昨日あたしに告白してきた男」
バカ、と小声でつぶやくアリス。
「…………え」
ドサリ、という音がした。ソクラテスはプラトンを見やる。抱えていた教科書を取り落としたプラトンは、青ざめた顔で手を胸に当てていた。
「……こ……こくはく? 告白って……愛の?」
様子のおかしいプラトンを不思議に思うものの、ソクラテスは頷いた。
「そう。罪や素性のではなく、愛の」
「で……ソクラテスちゃんはど……どうしたの?」
「プラトンどうしたのあんた、落ちた教科書も拾わないで」
ソクラテスがそう言うが、プラトンは立ったままだ。代わりに教科書を拾い上げるアリス。
「え? どうもしないよ? ねぇ、で、どうしたのソクラテスちゃんは。こ、こくはくされてどうしたの?」
「殴ったけど」
「殴ったんかい」
拾い上げた教科書を机の上でトントンと揃えながらツッコむアリストテレス。思わず崩れてしまった口調にゴホンと咳払いをする。
「……どうして殴るんですか。フるにしてももっとやり方があるでしょうに」
「あでも、フッたんだ。良かった」
途端に笑顔になったプラトンは、アリスから教科書を受け取った。
「良かった?」
不思議がるエピクロス。
「……な……なんでもないよ」
顔が真っ赤になるプラトン。その様子を不思議そうに見るエピクロスの頭をコツンとアリスが叩いた。
「察してあげなさいエピクロス」
「あ……そゆことー?」
アリスとプラトンの顔を交互に見、それからソクラテスの顔をちらりと見るエピクロス。
「ち、違うよ。なんか誤解してるよエピクロスちゃん」
「別にいいと思うよー、それがプラちんにとって自然なら。幸せの形は人それぞれだしー」
「違うよ私はただ、まだ私たちにはそういうことは早いんじゃないかって。だから軽率にそんな誘いに乗ったりしなくて良かったなぁってただそれだけの意味で」
「プラちん、顔まっか」
「違うんだってば。これは赤くなってるように見えるけどほんとは違うの、イデアは……」
「さっきから何の話してるの?」
そう割って入ったソクラテスに三人はなんでもないと言いながら両手をぶんぶんと振る。
「でもソクラテスちゃん……アリスの言うとおりだと思うの。同じフるにしても、もっと優しい言い方してあげても良かったと思う」
そう、プラトンが言ったのに対し、ソクラテスは笑って言った。
「誰がフったなんて言ったのよ」
固まるプラトン。目を見開くエピクロス。こけそうになるアリス。
「嘘っ! OKしたの?」
「してないよ。殴ったって言ったじゃん」
「ど……どゆこと?」
「保留ということですか? ソクラテスらしくもない」
色めき立つ三人に、ふぅと一息つくソクラテス。プラトンを見つめる。
「私はただね、あいつが今一つ自分の気持ちをわかってないみたいだったから、聞いたわけ。好きって何かって」
「……好きは好きじゃないの? 何って言われても」
その返答に、ソクラテスは眉をひそめる。
「あのねぇ。じゃああんた、私のこと好き?」
「……え。え。え。そ、そんなこと突然言われても……」
プラトンが再び顔を真っ赤にしてもじもじし始めてしまったのを見て、ソクラテスはアリストテレスに矛先を変えた。
「じゃアリスは?」
「そりゃまあ……嫌いじゃありませんけど」
「じゃあ好きなの?」
「一応好きと言えるのでしょうか。でも友達のことをいちいち好きだとは言わないですし」
「じゃあ嫌いなの?」
「違います。じゃあいいです、好きですよ。友情ってことです」
「じゃあ、アリスは栗まんじゅう好き?」
「は? ……く、栗まんじゅうですか?」
脈絡の無いお菓子の登場に話の流れを見失うアリス。
「そう。好き?」
「好きといえば好きですが……」
「栗まんじゅうと、私、どっちも好き、なのよね? それは同じ感情? 栗まんじゅうの代わりに私がおやつに出てきたらどう思う? 私を食べてって。ねえ、プラトン、どう思う?」
「え……た、た、食べてって? え、な、そんな……こ、困っちゃうよう……」
想像して顔面が蒸発寸前になるプラトン。
「そうでしょ? 困るでしょ。ねぇアリス?」
「たしかにそれは非常に……困るでしょうね」
迷惑そうに眉をひそめるアリス。
うんうんと頷くソクラテス。
「同じ好きでもこうも違うわけよ」
「んー、今の「困る」も二人でだいぶ違う気がす……もが」
エピクロスの口をプラトンが慌ててふさいだ。
「好きって言葉は意味が広いの。ねえエッピー。ドルトの好きとアリスの好きは同じ?」
「んー……ぜんぜん違うと思うー」
「そう。好きと一言で言ったって、その意味するところは人によってぜんぜん違う。だから私は尋ねたわけ。好きとは何かって。どういう意味かって」
しかしアリスは首を傾げた。
「でもソクラテス。あなたはドルトさんの言う「好き」が私の言うのとは意味が違うと、つまり……男として好きだ、という意味だと理解できているんでしょう? それくらい、あなたがわからない筈がないと思いますが」
そう言うアリスを見るソクラテスは、少し楽しそうだった。
「じゃあアリス、男として、ってどういうこと?」
「ソクラテス! 私ははぐらかすなと言ってるんです」
「落ち着きなさいよアリス。もしも男が皆、同じ思考回路を持っていて、同じ気持ちを抱いて、全く同じように人を好きになるのなら話は簡単だけど。でもそんな訳がないよね?」
ソクラテスは立ち上がってアリスに指をつきつけた。
「男として? そんな接頭辞、本当は何の意味も持っていないのよ!」
アリスは呆れた顔で答える。
「ソクラテスは恋というものを知らないのですか?」
「知らないわね!」
言い放つソクラテス。アリスは目をつり上げた。
「嘘をつかないで下さい。別にあなたの好みにあわなかったのならフるのは自由です。でも、ごまかすなんてあなたらしくありません」
「じゃあアリスは、恋とはどういうものだか知っているわけね? 説明して? 恋って何?」
そして拳を握りしめてにっこりと笑うソクラテス。
「ちょ……その拳は何ですか。……こ、恋は……異性に対して抱く、特別な好意のことです」
「異性限定? 同性には恋しないの?」
「訂正します。異性に限りません。とにかく、普通の好意とは明らかに違う、特別な感情です」
「どう特別なの?」
「えっと……まあその、凄く強い、好きって気持ちです。その人のことで頭がいっぱいになってしまうくらいの」
言いながら照れたのかしどろもどろになるアリス。
「それは恐怖によっても同じ状態になる」
短く鋭くソクラテス。
「あ、ソッキー……同じことドルト君にも言ったでしょー」
エピクロスの言葉にソクラテスは頷いただけだった。アリスはしかし引き下がらなかった。
「好意と言いました。恐怖とは明らかに違います。例えば一緒にいたいなどの欲求が伴います。恐怖とは違います」
「一緒にいたい? じゃあ一緒にいる間中殴られ続けたらどう? サンドバッグみたいに」
シュッシュッと空中を殴る真似をするソクラテス。その風圧で窓の外を飛んでいた鳥が落ちたのを目撃してしまったメリッソスが慌てて壁際に下がった。
「そ、それはさすがに望まないと思いますが……」
アリスは呆れたように言う。
「んー、喜ぶ人もいるかも」
エピクロスが言った一言に、ソクラテスは人差し指を立てた。
「そう、少数派かもしれないけど、喜ぶ人もいる。それも恋、アリスの言うのも恋。一体、どっちが恋なの? 本当の恋はどっち?」
「……それは……」
もごもごと口ごもるアリス。
「……まあそのつまり、恋と一口に言っても人それぞれと言いますか、そうした違いはあるということです」
「おっけー。違いがあるのね? じゃあ……」
ソクラテスはそう言って笑う。
「……ドルト君の恋はどういうもの?」
アリスは諦めたように肩を落として言った。
「ええ……もういいです、はい、本人に聞いてみるしかありませんよ」
「はい、そういうこと」
ソクラテスは拳を握りしめた。アリスは慌てる。
「ってちょっと待って下さい。わかりましたから。降参です。納得しましたから。なんで殴ろうとしてるんですか」
「殴っとかなくて大丈夫?」
「だ、大丈夫です大丈夫です」
「そう……」
少し残念そうなソクラテス。
「さて……」
ソクラテスは笑っているエピクロスに振り向いた。
「また、昨日の大木のとこでいいのね?」
「い、行くのソクラテスちゃん!」
プラトンの声にソクラテスは後ろ手をひらひらと振った。
「大丈夫よ、プラトン。心配しないの」