好きって何?
「ちょっと、誰もいないじゃない」
先ほどアダムとエピクロスが迷い込んだ広場は、まっすぐ来れば校舎からそう離れてはいなかった。二人が知らなかっただけで未踏の地でもなかったらしく、学園のところどころに立てられた古い地図表示には広場の名前がしっかり載っていた。大木の広場。分りやすい名前だった。
一人やってきたソクラテスは広場に到着すると、広い草原を見渡しながら早足で歩き、大木の麓まで到着する。
「ここ……でいいのよね」
「……あ、あの」
つぶやいて木を見上げたソクラテスに声をかけながら、木の影から長身の男が顔を出した。先ほどの青年、ドルトである。
ソクラテスは突然出現した男をじっと見つめた。数秒、無言で観察していた。ただ、どこか焦点があっていない。視線はつき抜けているように、ドルトには思われた。
「あんた? 私を呼んでたってのは」
声をかけられた。
「た、たぶんそうです。初めまして。ドルトって言います」
緊張丸出しの青年に、ソクラテスは腰に手を当てて答えた。
「私はソクラテスよ。よろしく」
ドルトはどもりながら、はい、よろしくお願いしますと答える。そのまま何も言えなくなったため、数秒の沈黙が流れた。なぜかソクラテスはしきりに傍の大木を見上げていたが、ふいに視線を青年に戻して言った。
「で……何?」
「あ、あの……」
「……」
「……えーと、その」
「……」
「なんというか……」
「……」
「……うまく、言えるかわかりませ」
「よしわかった!」
「え」
目を丸くするドルト。
「わかってくれたんですか?」
まだ何も言ってないのに、と言おうとしたが、ソクラテスに手のひらを向けられ制される。
「言いたいことが決まったらまた呼び出してね! とりあえず今回は殴っとくから!」
「と、とりあえずで殴らないでください。……あ、すぐ手が出るってこれか……。いえ、あの、ちょっと待ってください! 今言います、今言いますから……」
「ぱすっと言いなさいよ、ぱすっと!」
妙な擬音で促すソクラテス。
「は、はい!」
「じゃあどうぞ」
「ぼ、僕はですね……その、あなたが……」
「……君は私が?」
「す、好きなんです!」
……。
一陣の風が二人の間を通り抜けた。ソクラテスは、その風に流された髪をおさえることもせず、黙ってただ見返している。
ドルトは耐え切れずに目を伏せた。しかしすぐに勇気を振り絞るように首を振り、ソクラテスを見つめる。
「好き? 好きって……何?」
それが、彼女の返答だった。
「え?」
勇気を出しきってしまい、半ば放心しかけているドルトとは対照的に、ソクラテスはいつも通りだった。畳み掛ける。
「好きって何なの? どういうことなの?」
「……ど、どういうって……その、あなたを愛してしまったということです」
「愛するって何?」
「何って言われても……。えっと、つまりあなたのことを考えるとドキドキするんです」
「私について思考すると心拍数が上がる。それが好きってことなの?」
「そ、そうだと思ってるんですが……」
「じゃあ、あんたは怪鳥ガズールをどう思う?」
「ガ、ガズール?」
突然聞きなれない言葉が出てきたために、青年の思考が空転する。
「知らない? この学園を十年前に襲った、第一級の危険指定生物よ」
青年はそれを聞いてあ、と口を開く。
「あ……あれか。し、知っています。ロック鳥、ですよね。ロック鳥というモンスターじゃないかって話ですよね。突然この学園に出現した、巨大な鳥の化物。ゾウを持ち上げるほどの巨体と怪力で、凶暴な……」
早口になる青年をソクラテスは遮る。
「そうよ。知ってるなら話は早い。あんた、あれをどう思う?」
「どうって……そんなのきょ、恐怖です。恐怖しかありませんよ」
青年はなぜそんなことを聞かれるのかわからないまま答える。
「おっけー。じゃあガズールに襲われることを想像してみて。……ほら、心拍数が上がらない?」
「あ、上がりますが」
もっとも、今彼の心拍数が上がっているのは告白した傍から意味不明な問答に付き合わされていることにも起因している。
「そうでしょ。上がるでしょ。……つまり君はガズールのことを好きな訳ね」
急転直下。強引矢の如しだった。
「は。いや待ってください、それは違います。動悸が激しくなるのは恐怖からです。好きだからじゃない」
「なるほど! なら私に対して持っている気持ちも恐怖かもね!」
反論虚しく、笑顔、強気、暴論と三拍子揃ったソクラテスを止められない。
「……ちょ、ちょっと待ってください混乱してきた。その二つは違うドキドキです。一緒にしないでください」
「何が違うの?」
青年はまともに反論するのを諦めた。
「ち、違いますよ! ガズールに対して持っている気持ちとあなたに対する気持ちは別です」
「だから、どう違うの?」
「う、うまく言えません。でもそんなことは考えなくてもわかってます!」
「考えなくてもわかってる?」
目を細めるソクラテス。
「そう。わかって……。え、ちょっと、なんで拳を握りしめてるんです?」
ソクラテスは腕まくりをし、その手は固く握りしめられボックスを作っていた。
「答えられないのね?」
「いやそんなこと言われても!」
「答えられないってことは、知らないってことね」
「な、何を……」
にっこりと笑うソクラテス。
「大丈夫。思い知らせてあげる」
ソクラテスの拳が太陽かと見間違うばかりにまぶしく輝いたのをドルトは見ることになり、それが最後の光景だった。
*
「わっ。虫がいるわ。勘弁してよね」
「この辺だと思うんだけどなー」
「ソクラテスもいきなり殴りとばすなんてどうかしてるわ」
「いきなりじゃないよー。ちゃんとお話してたじゃん」
「見えたの? あんた目がいいのね」
話しながら草むらをかきわけているのはアダム・スミスとエピクロスだった。
ソクラテスが呼び出しに応じて出かけた後、エピクロスはなんとなく校舎から大木の広場を眺めていたが、ソクラテスと話していた青年が突然空へと吹っ飛んでいくのが見えたので、心配になって着地点のあたりに探しに来たのだった。
「お、いたいた。いたよ、アダムー」
エピクロスがアダムに声をかけ、丈の高い草をよけて見せた。小枝と枯れ草に塗れ、深い青の服が覗いている。
「ちょ、ちょっと、大丈夫なの? 死んでない?」
「びみょー」
エピクロスは倒れている青年に近づくと、怯えているアダムを手招きした。
「アダム、はい、貸してそれ」
「どれ?」
「見えざる手ー」
「あ、ああ、はい」
アダムは持っていた木の棒をエピクロスに渡した。受け取り、気を失っている青年を棒で突っつくエピクロス。
「う……」
何度かつつかれる内に、青年は目を覚ました。
「お、生きてた。どうー? 気分はー」
「はい……こ、ここは?」
「この世だよー」
「あ、えと、大木の広場から北東約二百メートルの地点よ……。は、はあい、さっきはどうも失礼したわね」
エピクロスの後ろでアダムが補足しながら、手をグーパーした。
「で……どう? ソッキーは?」
いたずらっぽく笑うエピクロス。
「ソッキー……?」
「ソクラテスちゃん。ドルト君の好きな女の子よ」
エピクロスは口に手を当てて笑う。
「ええ……僕が抱いていた彼女の印象とは大きく違いました」
「あはは。どう違ってた?」
「僕が思っていたよりもずっと強気だし……その……」
「暴力的?」
「い……いえ」
「別に言いつけたりしないよー。思った通り言いなよ」
「いえ、暴力だとまでは……。ただ、まさか殴られるとは思わなかったので、驚きはしました」
それを聞いて、アダムが笑いながら言った。
「そりゃあ、古代クラスのソクラテスと言えば学園最強とか言われてる武闘派だもの。彼女とつきあいたいなら、それくらい覚悟しなくっちゃ」
「はぁ……そうなのですか」
「でも殴られたからって悲観することはないと思うよ。ソクラテスのパンチには色んな意味があるから。ただの照れ隠しとか愛情表現の時もあるけど……論敵を殴るときは、相手をただ黙らせようとしてる訳じゃない。あれは知らぬことを知らぬとわからせるため……ということらしいよ」
「らしい?」
上半身を起こすドルト。慌ててエピクロスが背を支える。アダムは言葉を続ける。
「私はあんまり関わり無いから。ただプラちゃん――ああ、プラトンのことね――が力説してたのを聞いただけ。あの子は……ちょっとソクラテスに心酔気味だから、贔屓目あるかもだけどね」
それを聞いて考えこむドルト。
「知らぬことを知らぬとわからせる……ですか。なるほど、それは少しわかるような気がします」
へえ、と二人。
「僕は、彼女に好きだと言いました。それに対しての彼女の返事は、好きって何、でした」
「わー。無茶だねー」
「何って言われてもねぇ」
うなずくドルト。
「僕はそれにうまく答えられませんでした。恋とはただそういうものだと思っていた。言葉で言い表すことなんてできないものだと。だから僕は、うまく言えないと素直に言ったんです。そうしたら殴られた」
ぷっとアダムは吹き出した。
「さすがソクラテス。そんな難問にも答えを要求して、けして妥協しない。徹底してるね」
「でも殴られて数秒間、空を飛びながら、途切れゆく意識の中で僕は思ったんです」
「……貴重な体験をしたわね」
青年は、何かを噛み締めるようにゆっくりとしかし強い口調で語った。
「僕は彼女の問いにきちんと向き合っただろうか。答えの出ない問いだというのは僕自身が考えて出した結論だろうか。否、です。僕は恋とはそういうものだと思いこんでいたにすぎない。固定観念でした。彼女の拳は僕にそれを思い知らせてくれました」
パチパチとエピクロスは拍手をした。
一方アダムは呆れたような口調で言った。
「私は……ソクラテスが照れ隠しにいちゃもんつけた上で殴り飛ばしてごまかしたようにも思えるけどなぁ」
「で、どうするー? ドルト君」
微笑んで尋ねるエピクロスに、青年はええ、とうなずいた。
「僕は、次はきちんと彼女の問いに対する自分なりの答えをつきつけようと思います!」
「お、まだチャレンジするんだ? 偉い!」
「ありがとう、エピクロスさん。それじゃまたメッセンジャーを頼まれてもらえますか?」
「うん、いいよいいよー。明日でいい?」
「ええ。今晩一晩じっくり考えてみます」
そう言うと、ドルト青年は腰をさすりながら森へ消えて行った。
「……彼、どこ住んでる訳?」
アダムが尋ねたが、エピクロスはさあ? と首を傾げるだけだった。