鉄拳の少女
「ソクラテスちゃん、いるー?」
元気な声を出しながら教室に走って入ってきたエピクロスが開けっ放しにした廊下側の扉を、側に座っていた女生徒メリッソスが閉めた。
古代クラスの教室は閑散としていた。放課後だが、そもそもいつも閑散としている。このクラスだけに限らない。この学園では自習が基本で、めいめいが思い思いの場所で勉強をしているか、あるいは勉強などしていないかどちらかだった。大半の時間は特に教室にいなければならないこともない。教室はもっぱら集会場といった意味合いが強い場所である。
「ソッキーならあそこですよ」
教壇の近くにいた少女がエピクロスを見てそう言い、窓際で手すりにもたれている女生徒を指さした。
「ソッキーって? アリス」
聞きなれない言葉にエピクロスは首を傾げる。
「あだ名ですよ。ソクラテスの」
アリスと呼ばれた少女は読んでいた分厚い本をバタムと音を立てて閉じた。アリストテレス、愛称アリス。沈着冷静で理知的な彼女は幅広い知識と分厚い良識を備え、学園の個性あふれる生徒たちの暴走と混沌から平和な日常を守るために奮闘するツッコミ役である。
「あだ名なんていつつけたの? ソクラテスちゃん嫌がりそうなのに」
「ソシュールが来ていたのです」
ああ、とエピクロスは頷いた。現代クラスのソシュールという女の子は、人にあだ名をつける癖と才能を持っている。彼女のつけるあだ名は不思議に定着してしまうのだが、その奇抜さからつけられた本人にとっては必ずしも嬉しいことではなかった。いつだったか、つっこみ大百科、という微妙なあだ名で三ヶ月呼ばれ続けたことでアリストテレスがノイローゼ気味になっていたのが記憶に新しい。
「でも、ソッキーはわりと無難だね、ソシュールちゃんにしては」
「最初は、一人アカデミー賞、が有力だったのですが」
「一人アカデミー賞?」
なにそれ、と問うエピクロスに、アリスは人差し指で何もない空中を差しながら答えた。
「美女と野獣が一つの体に同居してしまっている、という意味だそうです」
「……なるほどー」
言いながらエピクロスは窓際で外を見ているソクラテスを見た。確かに黙っていれば美少女である。
「でも、そっちじゃなくてソッキーになったのはなんでー?」
「体を張って阻止したからです」
「体を張って……?」
意味がわからないエピクロスに、アリスは顔を曇らせた。
「言葉通り、体を張ったのです。……ソクラテスはソシュールの体を張りとばしました」
「うわぁ……ソシュールちゃんかわいそう」
「大丈夫です。中庭の噴水に向かって落ちていく途中で、じゃあソッキーで! と叫んだのがこうして定着したので、彼女の勝ちです」
何が大丈夫なのか、どう勝ちなのか、あと定着したと言うわりに既にアリスはソクラテスと呼んでしまっているが、エピクロスはあまり深く考えないことにした。
アリスと二人、噂の怪力少女のところへ歩いて行く。
「や。ソッキー」
そう声をかけたエピクロスにぱっと振り返った姿勢のいい少女は、しかし怪訝な顔をした。睨んでいる訳ではないのだが、その大きく力強い目で正面から見られると誰もが緊張せずにはいられない。ありあまるエネルギーが空中にほとばしって他者を圧倒している。
「ソッキーって……何よ?」
そう返され、エピクロスは横にいる友人を見る。
「あだ名なんだよね?」
確認するようにアリスを見上げるエピクロスに、アリスは頷く。
「あだ名ね。じゃあ、あだ名っていったい何なの?」
ソクラテスに質問を投げかけられ、エピクロスはアリスに小声で聞いた。
「ね、もしかして、ソッキーもあんまり気に入ってない?」
「いえ、そんなことは……。さっきまでは怒った様子はなかったですし」
ぼそぼそ話す二人に、ソクラテスは矛先を変えた。
「ねえアリス。あだ名って何なの?」
アリスは、私? というように自分を指さす。
あ、とアリスは呻いた。長い付き合いから、どうもこの友人が今、咎めている訳ではなく純粋に質問をしているのだと気がついた。そしてそのほうが厄介であることも。
「もしかしてまた……始まっちゃったんですか」
ソクラテスのスイッチが入ってしまったのなら応ずるしかない。アリスはため息をついてから、答えた。
「あだ名とは……親しみを込めて呼ぶ、本名以外の名前のことです」
「本名って何よ?」
「え、本名は……本当の名前です。……ああ、いや、待ってください。ちょっと、その握りしめた拳を下ろして。ええとええと、戸籍などの公的機関に登録された名前を本名と言います」
返答を間違えると即座に物理的な手段で黙らされることをよく知っているアリスは、頭の中の百科事典を引きながら答えた。
「公的機関つまり国ね? じゃあ国家が無かったら本名は存在しない? 原始時代には本名は存在しなかった?」
この武闘派の友人は厳しい論客でもある。ソクラテスに容赦という言葉はない。
「原始時代の人って喋れたのー?」
横からエピクロスが口を出すが、アリスは大丈夫、と手をエピクロスの頭においた。
「国家の無かった時代には村か集落か……人が群れる限りその共同体が公的機関です。そこで認められたものが本名です」
ソクラテスは小柄な少女にちらりと目をやって微笑んだ。
「エピクロスは面白いこと言うね。もし言葉が生まれたのがその共同体の形成より前だったら?」
「名前は人が複数いて互いを区別する時に初めて必要になるものです。共同体ができる前なら名前なんか必要ありません」
その返答ににっこりとソクラテスは笑った。アリスはほっとする。今日はどうやらこれでおしまいらしい……。
しかしそれは甘い考えだった。
「じゃあ共同体って何?」
「……え、まだ続くんですか? ……あ、すいませんその手を引っ込めて下さい。えっと、一緒に暮らしていて利害を共にする人間の集団をそう言います」
「うん。じゃあさ、この学園は共同体?」
「え? ……えーと、待って下さい。そうですね一緒に生活してますし、同じ学ぶという目的でいるわけで……まあ共同体と言っていいと思いますが」
「なら、ここにいる私達はどう? 小規模な共同体と言えるわよね?」
「……まあ、その、そうなんですが……」
「とすれば私達の間で認められた呼称は、本名と言えるんじゃないの?」
「……う……」
チェックメイト。ソクラテスがにっこりと微笑んだ。
「ね? それだとほら、ソッキーも本名ってことになっちゃうよ?」
うわ、殴られる。そうアリスは思った。目の前の友人の拳が光を放っている。
学園最強も噂されるソクラテスだが、魔法が使える訳でも強力な武器を使う訳でもない。ただ腕力なのだ。格闘術と呼ぶには程遠い、ただその拳の一撃の強力さでもって知られ、しかしゆえに最強なのだ。
ただ不思議に人気者でもあった。殴られた者の多くは「何かに気付かされた」と口にする。それはアリスも何度か経験していた。殴られた衝撃で自分の頭の中に凝り固まっていた固定観念が崩れ、その隙間から新しい風が吹いてくるような爽やかな気分。それは学びに喜びを感じるアリスにとって歓迎すべき側面でもあった。
しかし。だからといって痛いのにはかわりがない。殴られて喜べる段階にはまだ到達していない彼女としては、できるだけこの破天荒な友人のパンチで窓ガラスを突き破りながら校舎の外に飛び出していく回数を減らしたいのも事実だった。
「それは違うよね? じゃあ本名って結局、何なの?」
「えーと、そ、それはですね……」
しどろもどろになるアリス。観念して目をつぶり、衝撃に備える。
「んーと、でもさー」
とそこに間延びした声が割り込んだ。
「何? エピクロス」
「ソクラテスよりソッキーのほうが可愛いと思うー」
ソクラテスは、しばしエピクロスのほうを向いて、黙った。
「……」
つられてアリスもエピクロスを見ている。
「……」
沈黙したままの二人をじっと見返すエピクロスはいつものように微笑んでいた。
「そ、それはそうかもしれないけど……。そーゆー話じゃなくてね……」
照れたのか、小声でつぶやくソクラテスの拳から光が失われ、だらりと下がる。
「それに、呼びやすいしー。だからソッキーでよくない?」
「えーと……。ま、いいか」
ソクラテスが頭をかいた。
助かったとばかりに、アリスは目でエピクロスに感謝を告げる。
「うん」
エピクロスはにこりと微笑んで、二人の間に入った。
「ところでソッキー、でんごーん」