青年との出会い
ここで話を脱線させると、アダムはお化け屋敷が大の苦手である。怖いのではない。苦手なのだ。じわじわ来る不気味さは平気だが、いきなり飛び出して驚かせるびっくり箱タイプに弱かった。
そして話を戻すと、今顔を戻したアダムの正面にはわずか三十センチの至近距離に知らない男の顔があった。このことは客観的に見て、びっくり箱タイプと同じ効果をもたらしたと言えるだろう。
「わ!!!!」
かくしてアダムは大声をあげた。
そしてくるりと180度向きを変え、男が次の声を発する間もなく素晴らしいスタートダッシュを決めた。普段の彼女からは考えられないスピードで一気に百メートルを走り切り、あっという間に森に消えた。
「え……ちょっと、ま……」
待って、と声をかけようとするも、相手は既に視界から姿を消している。落胆する青年。
「どーしたのー、アダムー」
一方、アダムの大声を聞いたエピクロスの心配する声が上から聞こえてきた。青年は樹上のがさがさ鳴る葉音に向けて弁解を試みる。
「すみません、いきなり声をかけたせいで脅かせてしまったみたいです。彼女、走って行ってしまいました」
枝葉を抜けするすると降りてきた少女は、ふわりと男の傍に着地した。
「お兄さん誰?」
「ぼ、僕は怪しいものじゃないです。名前はドルトと言います」
ドルトと名乗ったその青年は、黒に限りなく近い青色の服に身を包んでいた。持ち前の人当たりの良さから学園内ではまあまあ顔が広いほうであるエピクロスだったが、初めて見る顔だと思った。どこのクラスか……服装に関して自由すぎるこの学園では格好からは区別できない。
「アダムは?」
エピクロスはまず友人の身を案じた。
「さっきの子ですか? 逃げて行ってしまいました。あっちの方角です」
男が指さした方向を見るエピクロス。
「……あ。なんだ、校舎がある」
二人がいる草原の中央からは、開けた視界のおかげで木々の向こうに校舎が頭を出しているのが見えていた。
「なんだー案外近かったんだー。森の中ぐるぐるしてたかな。ん、よかった。アダムもあたしも校舎に帰れる」
無邪気に笑う少女は、青年が固まっているのを見ると、お辞儀をした。
「はじめまして。あたし、古代クラスのエピクロス。お兄さん……ドルト君? は何してるの?」
「い、いえ特に何も……」
「ここ、お気に入りの場所なの?」
「え、ええまあ……居心地はいいですね」
緊張気味に見えた青年の口調が、少女のまとう空気に当てられてか落ち着いたものになっていく。
「そーだねー。ねー、時々あたしもここ来てもいい?」
「はい」
「じゃあこれ、お近づきのしるし」
少女はにっこりと笑って青年におにぎりを差し出した。
「これは……何ですか?」
青年は差し出されたものを見つめる。エピクロスは笑った。
「何って……。あはは、知らないの? そんな訳ないか」
少女がもう一つ取り出したそれを口にしたのを見て、青年はおそるおそるといった体で口に入れた。
「美味しい……おにぎりとは何ですか?」
「あはは」
ソクラテスちゃんみたい、とエピクロスは呟いた。
青年が顔を上げる。
「……あの」
「んー?」
頬におにぎりを入れたままエピクロスは答えた。
「あ、ああ……僕はその……どう言ったらいいでしょうか」
いきなり照れてはにかむ青年。
「んー? どうしたの? 言いたいように言えばいいよー」
エピクロスは朗らかに笑った。人ってこんなに自然に笑えるものなのか、と青年は驚いた。
「ええとつまり……、その、僕は人を探してるんです」
「誰をー? 生徒さん?」
「え、ええ。えーとその、実は……」
青年が黒い短髪をくしゃくしゃとかき回し始めたのでエピクロスは首を傾げて待った。
「僕には気になってる人がいるんです」
「好きな人がいるの? だあれ?」
「あなた、古代クラスと言いましたよね、たぶんあなたのお知り合いの……」
「古代クラス? うちのクラスの誰か? あ、わかった、プラトンちゃんでしょー」
「プラトン?」
「あの子可愛いもんねー。でもあの子はハードル高いよー。男女問わずものすごい人気なのよ」
「は、はあ……」
「でもプラトンちゃんみたいな気が弱い子は、逆にリードしてくれる男の人が合うかなぁ。ドルト君、押しが弱そうだからなー、もっとがんばんなよー」
エピクロスはくすくすと笑う。
「いや、えーと違くってですね……」
「とりあえずもっと太ったほうがいいと思うよー。ほら、もいっこ、食べな?」
エピクロスはどこに持っていたのか、再びおにぎりを取り出してドルトに差し出した。困ったように少女を見る青年。
「美味しいよ?」
にこりと微笑むとエピクロスは自分の分のおにぎりをさらにもう一つ取り出し、ドルトが立っている横に飛び出した木の根に腰掛けた。ありがとういただきますと言ってドルトも隣に腰掛ける。
「僕が好きなのは、違うんです。プラトンさんという人でなくて。僕が好きなのは……ソクラテスさんなんです」
「ソクラテス? え、そっち?」
「そ、そんなに意外ですか?」
「うーん……。や、ソクラテスちゃんも人気者ではあるけど……どっちかというと女の子から人気があるタイプ。あんまり男受けするタイプじゃないなー」
そうなんですかとドルトは言った。
「見た目は美少女なんだけどねー。何より、言い合いになると最後には手を出しちゃうからさー」
「え、手を出す? まさか……殴るってことですか?」
「そうだよー。知らない? ソクラテスちゃん強いんだよ。学園最強説もあるんだから」
「さ、最強……ですか。知らなかった」
「全然知らないんだねー」
青年は深く頷いた。
「そうなんです。僕は実を言うとこの学園に来たばかりで……学園のことも生徒の皆さんのことも全然知らないんです」
「ふーん……転校生なんだー。ま、知らなきゃいけないことなんてそんなに無いし、すぐ覚えるよー。あたしも教えてあげるし」
ありがとうございます、とドルトは頭を下げた。よろしくね、とエピクロスは微笑む。
「あ、でも誤解しないでね。ソクラテスちゃん、ちゃんと理性的だよ。なんだかんだ言って意味もなく人を殴る訳じゃないし」
「そうなのですか」
「あたしは殴られたことないからわかんないけど、殴られた人は誰もソクラテスちゃんを責めたりしないもん。人によっては目が覚めたとか言って逆に仲良くなっちゃったりするし」
「……どうも想像が及びません」
苦笑するドルトに、そっか、とエピクロスは笑った。
「でー。どうしたい? ソクラテスちゃんに告白したい?」
「そ、そういうことなんです。僕は彼女とお近づきになりたいのです」
「ふんふん」
おにぎりを食べ終わった彼は、エピクロスのほうを向いた。
「あの、エピクロスさん。あなたに頼みがあります。それとなく彼女を呼び出して欲しいんです」
「呼び出すってどこにー?」
「ここに。僕はいつでもここにいますから」
「教室に行けば会えるよ?」
「いえ、ちょっと……皆さんがいるところでは」
「ふーん、まあ、いいよー。任せといて。ドルト君が見事ソクラテスちゃんをものにするか、ソクラテスちゃんが見事ドルト君をもの言わぬ屍にするか。あたし、応援してあげる」
「え……今何て」
「いいからいいから。ちょっと行ってくる。待っといて」
「え、い、今ですか?」
だが制止の声は既に聞こえていない。小柄な少女は軽々とした足取りで草原を走り、校舎に向かって行ってしまった。