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風に吹かれて

 大地が吹き飛ぶような暴風に、しかしソクラテスは腕で顔を守っただけで後退りもしなかった。空中に浮かぶことが不思議なほどの、航空機さながらの大きさの黒い塊は、再び一陣の暴風を大地に叩きつけて飛翔した。その瞳孔の小さい目玉で自分に対峙する少女を睨めつけた。

 それも秒を待たぬ一瞬のこと。突如、巨大な質量がソクラテス目掛けて突進する。滑空。いや墜落と言うべきか。脚の爪が大地を切り裂いて、人の背丈を越す塹壕を作る。

「さすがにでかくなっただけのことはあるなあ!」

 数歩で巨鳥の攻撃範囲を脱出し、背後にまわるソクラテス。彼女が蹴った地面もまたその衝撃で耕されてゆく。

「でも動きは遅いままね!」

 三階建ての建物くらいの高さはある巨鳥の背に一跳びで飛び乗る。そのまま岩肌のような背を走り首までたどり着く。

「ちょっと痛いけど我慢! 一撃で楽にしてあげるからね!」

 だがその光撃を当てようとする刹那、ぐるりと怪鳥は首を回転させた。

「か、可動範囲広っ! フクロウか!」

 目があってしまったソクラテスはその嘴が開くのを見て、脊髄反射で飛び退く。そのまま背から転げ落ちる。常人なら無事ではすまない高さだが大地に受身を取った彼女はすぐに体勢を立てなおした。

 その時彼女が見たものは、怪鳥が背中側、さっきまでソクラテスのいたあたりに向かって吐き出した炎、その残滓だった。空中で黒煙に変わっていくのを見ながら、ソクラテスは不用意に頭部へ近づくことの危険さを理解した。

「……何でもありね」

 だが怪鳥は既に次の動きを開始している。閉じた嘴を今度は槍として使い、ソクラテスのいる大地に突き刺す。いや突き刺すなどという生やさしいものではない。えぐれた地面は雨が降ればちょっとした池になるだろう。大地を跳んで避けるソクラテスは、鳥はその嘴という最大の武器を搭載した頭部を高速で動かすために、人間を遥かに超える密度の筋肉を有していることを知る。大地に突き刺さった重厚な脚の爪が、作用反作用の法則に従い頭を起こす動作の反動だけで半ば大地に埋まるほど。よく見れば逆に打ち下ろす際の反動で大地から浮き上がるのを尾羽根を使い防いでいる。よくできたものね、とソクラテスはフットワークを活かして逃げ回りながら冷静に観察していた。

「なら脚から攻めようかな!」

 鉄柱さながらに大地に二本突き立っている脚に突進する。巨大な質量を支える足は遠目には細いように見えても人間が抱えることのできないほどの太さだった。突進の勢いに脚力を乗せて蹴りを当てる。しかし単純な破壊力ならその拳撃を上回るであろうその蹴撃は、巨鳥の体勢を崩すことさえできなかった。低く鈍い金属音が響いただけだ。

「かったぁ……。なんて脚してんのよこいつ…………うわっ!」

 脚と脚の間に入り込んだ敵を狙い巨鳥の首が足下を狙って伸びてくる。慌てて駆け出し、距離を取るソクラテス。

「ふぅ……巨大なくせに俊敏なこと」

 つぶやきながらソクラテスは、次の手を模索するべく身構え、思考をめぐらした。

 と、攻撃がやんだ。巨鳥が羽を閉じ、一点をじっと見ている。

 その目が、自分に焦点をあわせている訳ではないと気づく。不審に思うが、ソクラテスはしかし臨戦態勢にあって視線を外すことはしなかった。

「……! ドルト?」

 だが怪鳥の前で地面に倒れ伏していた人間の形をした分身、ドルトが再び立ち上がったことに眉をひそめる。同時に怪鳥から殺気が失われるのを感じ、緊張を解く。

「な、何よ。どうしたってのよ……いきなり」

 だがドルトもまた、ソクラテスを見ていなかった。その目線が自分の背後に向いていることに気づき、ソクラテスもようやく振り向く。

「なっ! エピクロス!」

 そこには、見知った顔の小柄な少女が強風に煽られながら歩いていた。

「エッピーって呼ばないのー?」

 いつも通りに笑顔を向けてくるその小柄なクラスメートに、ソクラテスは叫んで近寄った。

「……ばか! 何しに来たの!? 危険よ!」

「わかってるよー。でも二人とも友達だもん。ほっとけないよ」

 のんびりとした口調で、エピクロスはそのままドルトのほうへ近づいていく。

「ドルトくーん。なんでそんな悲しそうな顔してるの?」

「僕は……間違えたんです。エピクロスさん、ごめんなさい。僕は逃げていただけです。自分の中の凶暴なあいつから目を背けて一人で逃げ出そうとした。……でも、そんなことは無意味だった。結局あれこそが、僕なんです。この人間の姿をしたドルトは偽物です」

 うつむくドルトから数歩の距離で足を止め、エピクロスはさえぎるように言った。

「ドルト君、おにぎり、美味しかった?」

 その少女の問いが場違いだったので、青年はとっさに答えを返せないでいた。

「……なんだって?」

「おにぎり。食べたでしょ? あたしと一緒に」

「……何の話を」

「美味しかった?」

 相変わらずのんびりした語調だったがそこになぜか有無を言わせぬものを感じて、ドルトは答えていた。

「……美味しかったです」

 エピクロスは微笑んだ。

「……良かった」

 そしてエピクロスは言ったのだった。

「なら無意味だったなんて言わないで。おにぎり、美味しかったでしょ? あたしドルト君と会って話せて、楽しかったよ? それも無意味だった?」

「…………いや……」

「それにさ、ソッキーにもやっと会えたんでしょ? ずっと会いたかったんだよね? 会ってお礼を言いたかったんでしょ?」

「……そうですが……」

「言えたじゃん」

「……」

「ほら、無意味なんかじゃないよ。大丈夫。間違えてないよ」

「でも……僕は本当の僕じゃない偽物で……」

「偽物だったらどうしてダメなの? 難しく考えすぎだよ。人の姿でしたいことがあったんでしょ? ソッキーと話がしたかったんでしょ? だからそうしただけ。あの鳥さんが本物で君は偽物だとしても、だから何だって言うの?」

「……」

「ドルト君、間違ってるか間違ってないかなんて、あたし達には永久に絶対にわからないんだよ。だったら幸せかどうかだけ考えればいいじゃない」

 必死に訴えかける少女は、笑顔がどこか泣きそうに見えた。

「でも、僕は……わからなくちゃいけないことを……わかってなかったんだ」

 ドルトはうなだれた。

「わかってなかったら、ダメなの!? わからないことは悪いことなの!?」

 エピクロスが声を荒らげた。

「……え?」

 ドルトは顔をあげる。少女は……笑っていなかった。

「わからないことがあったら、幸せになれないの?」

 少女はうつむいた。

「……」

「ねえ! ソッキー……答えて」

 問いは青年でなく、エピクロスの背後に立つ、何よりも真理を追い求める少女に向けられた。

 ソクラテスは静かに口を開いた。

「……知らないことは良いことでも悪いことでもない。幸せとは関係ない。知らないことがあったって、幸せになれるよ」

「……ありがとう」

 エピクロスは短くつぶやいて、顔を上げた。

「ドルト君、君がソッキーから貰ったものはさ、知性だけじゃないでしょ?」

「え?」

 眼の前で微笑む少女に、ドルトは尋ねた。

「何をもらったって……言うんだ」

「もう」

 微笑えんだエピクロスは、たたっとドルトに走り寄った。

 その瞬間。

 怪鳥がいなないて、翼を広げた。獲物を襲う体勢に入る。

 ソクラテスが反応する。走り出す。ドルトとエピクロスの横をすり抜ける。

 巨鳥が羽ばたいて、その巨体を一瞬浮かせる。暴風が、草をないだ。

 エピクロスは……膝をついているドルトの背に手を回し抱きしめる。

 怪鳥が大地へとその身を踊らせる。

 ソクラテスは走りながら拳に光をまとわせ、大地を蹴った。

 ドルトの耳元に口を寄せるエピクロス。

 迫る嘴をぎりぎりでかわし巨鳥の眉間を正面にとらえるソクラテス。

 囁いた。

「愛、だよ」


 *


 一週間ほど、大木の広場は立入禁止になった。結局怪鳥が現れたというのは学園の公式の発表には無く、表向きは地震で地割れが起こっただけ、ということになったらしい。大木の広場へと続く道は封鎖されていたが、その気になればどこからでも森を抜けられる。ただ、魔術か何かでめくらましがされたのか、広場で何が行われていたのかは大部分の生徒には謎のままにされていた。

 そして。

 封鎖が解かれたばかりの、校舎から奥の森へと続く煉瓦敷きの小道には、二人の女生徒の姿があった。

「よー、アリスでしょあんた」

 振り返る女生徒は分厚い本を手にしている。

「誰ですか? あなたは」

「アダム・スミスよ。近代クラス」

 クラスが違う二人の格好にはだいぶ差がある。この学園ではありふれた光景だ。

「ああ、エピクロスの友達ですね」

「あんたも広場に?」

「ええ、まあ」

 アダム・スミスと並び歩くように、アリスは止めた歩みを再開した。

「結局……あの騒ぎはどう収まったわけ?」

「怪鳥はふたたび、ソクラテスにKOされたということです」

「倒した訳?」

「死にはしませんでした。また封印されたそうです。もともとの封印を施した先輩にわざわざ連絡をとって呼び出して、もう一回同じ封印をかけてもらったそうです」

「へぇ、だからあの大木、まだある訳か」

「ええ、大木の広場は健在です」

「でも大丈夫なの? また解けちゃったりしないの?」

「怪鳥はだいぶ弱体化したそうで、今度は大丈夫だろうという話です。ただ前回も五百年は平気だと請け負われていたらしいので、当てにはならないかもしれませんが」

「ふーん……。しっかし、よくごまかせたものね。私も見ちゃったしさ、結構な数の生徒があの鳥、目撃したって話じゃない。公式には地震ってことになったみたいだけど」

「アナクサゴラス先生はあれでなかなかやり手なのです。八方手を尽くして問題が公になるのを見事に防ぎました」

 二人は道なりに森を進んでいく。

「ドルト君……て言ったっけ。彼は?」

「あなたも彼を知ってるんですか?」

「ま、成り行きでね」

「彼は学園の生徒ではありませんから、公式見解には何も。アナクサゴラス先生は、彼は森で迷ったまま帰って来ない、と説明しています」

「そういうことするからあの森に変な噂が立っちゃうのよね……」

「……」

「ねえ。……彼、あの怪鳥の分身だったんでしょ?」

「え? ……知っていたんですか?」

「ま……ね。あの子に聞いたのよ。……あの子、元気?」

「あの子とは?」

「おにぎり姫」

 アリスは答えなかった。アダムもそれ以上聞くことはしない。二人は黙々と歩いていく。

 やがて木立の奥が開けてきた。そこはつい先日まで一面きれいな芝生で覆われていた筈だったが、今はあちこち土が剥き出しで、過日の戦いの激しさを物語っていた。

 しかし中央には既に大穴は無い。以前のものよりもその大きさを増したように見える封印樹が鎮座している。

「あ、なんだ、いるじゃない」

 言ってアダムは前方を指さす。

 広場の中央、大木の麓には二人の少女がいた。

「おーい、おにぎり姫ー」

 声をかけると片方が反応し、たたっと走ってくる。

「あらむー」

「こら。もの食べながら走ると喉につまるぞ」

 走ってきた少女をアダムは抱き止めた。そのまま三人連れだって大木のそばにたたずんでいるもう一人の女生徒の元に集う。

「あなたも来ていたのですか、ソクラテス」

「アリス。何しに?」

「特に何も」

 アリストテレスは微笑んだ。ソクラテスは一瞬虚を突かれたように黙ったが、やがて微笑んだ。

「あの、ソクラテス。一つ聞いてもいいですか?」

 何よ、とソクラテスは返す。

「結局、あなたはドルト君のことをどう思っていたのですか?」

 ソクラテスは少し考えてから、答えた。

「……弟みたいなものかな」

「ふーん」

 そう短く言ったのは、エピクロスだった。

「何よ」

「あのさ、ソッキー」

 エピクロスの口調が、わずかに固くなっていた。

「ドルト君は……知らないままでいた方が良かったと考えたことはない?」

「知らないまま? 何を?」

「自分がガズールだってこと」

 エピクロスの口調は穏やかだったが、アリスもアダムも口を挟めなかった。

 ソクラテスが答えるのをじっと見つめて待っている。

「それは……私を責めてるの?」

 ソクラテスのその返答に、エピクロスは首を縦にも横にも振らなかった。ソクラテスは続ける。

「私がああやって問いつめたりしなければ、彼は自分が何者か思い出すこともなく、幸せに暮らせたかもしれないと、そう言いたいの? それはあり得ない。彼が思い出そうと思い出すまいと、ガズールは封印から目覚め……」

「あたしはさ。知らないままでいる方がいいことも、あると思うのかって聞いてるの」

 アリスは息を飲んだ。目の前にいるのが自分の知っているエピクロスと同一人物なのかと思う。

 笑みを絶やしていたからだ。ソクラテスを……睨んでいた。そんな彼女を、アリスは見たことがなかった。

 無言の時が長く続くかに思えたが、すぐに打ち破られた。

「思わない」

 ソクラテスは断言した。

「なんで?」

 エピクロスはまだその表情を凍らせたままだ。

「知らないほうがいいかどうか、それを決められるのは、知っている者だけだから。そして他者がそれを決めるのは、暴力よ」

 まばたきもせず、二人はお互いの目を見つめ続ける。

 だがアリスやアダムが緊張に耐えきれなくなる前に、エピクロスが表情を弛めた。

「そうだよねー。あたしもそう思う」

「あんたの言いたいことは……わかる。あいつにはもう少し……ゆっくり思い出させるべきだったかもしれない」

「無理だよー。ソッキーにはブレーキがないもん」

 エピクロスは笑った。

「言うわね」

 ソクラテスも笑う。

「でもそれがソッキーのいいところ」

 エピクロスは、そう言って、くるりと振り向き、アダムに飛びついた。

「おわっ。えっ。何? どうしたの」

 いきなり抱きつかれて慌てるアダム。しかし胸に顔を押し当てて離そうとしない友人を無理に引きはがすことはできなかった。


 少女のすすり泣く声が、穏やかに吹く風に消えていった。

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