学園の森の奥に
本作は、2011年の飲茶さんの小説競作企画「哲学ガールズ小説」企画に応募した作品です(短編部門の大賞を頂きました!)。本家サイトのほうがダウンしてしまったとのことなので、こちらに投稿し直させていただきました。
簡単に企画についてご説明しますと、ソクラテスとかニーチェとか、実際の哲学者たちを萌えキャラ化してしまう(!)という「哲学ガールズ」というイラスト主体の本が出る際の企画で、この哲学ガールズ達が活躍する「私立フィロソフィー学園」を舞台にした小説を書くという企画でした。
( また、それから約五年を経て、哲学ガールズたちが活躍する4コマ漫画「てつがくフレンズ」(原作:飲茶さん、絵:MAKO)が発売されたそうです! ほんわかした絵柄ながら、飲茶さん独特のわかりやすい哲学の解説と後半盛り上がるストーリーが見どころです。 )
一体どこまでがこの学園の敷地なのですか? と問うた生徒に、あなたが何かを考え学ぶ場所のすべてですよ、と答えた教師は誰であったか。
聖フィロソフィー学園。この私立高校の敷地は、もはや誰もその全貌を把握していないと言われるほど、広い。無鉄砲に広い敷地には、無闇に深い森があり、無作法に高い山があり、無遠慮に大きな湖があった。
あの野放図な自然のすべてを学園は管理しているのですか? と問うた生徒に、自然を管理することなどそもそもできはしないのです、なぜなら管理されていない状態を自然と呼ぶのだから、と答えた教師は誰であったか。
校舎のある中心部は慎ましやかに文明の存在を主張していたが、すぐ周りを森に囲まれ、その奥へと続く何本もの舗装された小道や舗装されていない獣道がいつだって生徒を闇へと誘っている。
何人もの生徒が迷子になったきり帰って来なかったという噂がありますが本当ですか? と問うた生徒に、帰って来なかったと過去形で言うにはまだ早いですよ、だってひょっこり戻ってくるかもしれないですし、と答えた問題教師はいったい誰であったか。
しかし、真偽はともあれ噂は噂。本当か嘘かわからない噂など意に介すこともなく、森に分け入っていく勇気ある生徒は今日も絶えていない。
「ねー、あらむ」
「口に物入れたまま喋らないほうがいいよ、エピクロス」
今森の中を歩いているこの二人の少女もまた、この学園の生徒である。手にしたおにぎりを頬張りながら歩くのは古代クラスのエピクロス。まだあどけなさを十二分に残した少女である。応じたのは近代クラスのアダム・スミスだ。相対的な効果で大人びて見える彼女はエピクロスの頬についたご飯粒を指で取ってやりながら、並んで歩く。
「もう随分たつよねぇ」
「そうだね。もう三十分くらい歩いてる気がする。どんだけ広いのよこの学園」
鬱蒼と木々が生い茂る中、人の踏んだ形跡があるかなしかの途切れ途切れの獣道を、二人は臆することなく歩いていく。初めての者なら進むのを躊躇わずにいられない深い森だが、二人の足取りは軽く行く先を案ずる様子など全くない。この森には慣れている様子が伺えた。
「アダム、私思うんだけどー」
「何よエピクロス」
「さっきから同じようなとこばっかり通ってる気がするのー」
「奇遇ね。私もよ」
「帰り道、わかる?」
「私には方向さえわからないわ」
慣れていなかった。しっかり迷っていた。
「どうひよう」
しかし言葉とは裏腹に、再び手にしたおにぎりを口にするエピクロスはさして慌てているようには見えなかった。
「大丈夫よ。いい? 私達が自由に自分の欲望に従って行動すれば、自ずと最良の結果に落ち着くのよ。それが……」
「かみのみえあうてー?」
もごもごと不明瞭な言葉を発した相棒に、自信満々に頷くアダム。そして二つ目のおにぎりを嚥下するのを待って、エピクロスに言った。
「というわけで戻ろう。私の欲望から言えば、もう疲れた帰りたい」
エピクロスはうふふと笑った。
「戻ろうって、どっちへ向かうの? どっちが校舎の方向だかわかんないよ」
「大丈夫。見えざる手の力を借りることにするわ」
猫の手でも借りるような口調でそう言って、地面に落ちている長い枝を拾うアダム。それを見たエピクロスの悪い予感は当たった。アダムは棒を地面に立ててバランスを取ると、ゆっくりと手を離す。
「よし、こっちだ」
枝が倒れた方向を指差すアダム。
「神の見えざる手ってそうやって使うんだ」
「覚えておくといいよ」
アダムがずんずん歩いて行くので、エピクロスはとりあえずその見えざる手……ということになった木の棒を拾ってついていった。また必要になるかもしれないと思ったからだが、それがまた必要になるようなら当てにならないということなのだけれど。
エピクロスは普段、学園にいる時間の大半を食事か睡眠に使っていた。今日も学園内に何箇所かある、ベストごろ寝スポットの一つ、中庭の花壇の縁でうとうとしていたところ通りすがったアダム・スミスに声をかけられた。一緒に森に行こうと誘われた時はなぜ自分なのかと訝しんだが、目的を聞いて合点がいった。森の奥に伝説の宝物か何かを探しに行こう。壮大だが漠然とした、夢はあるが望み薄なプロジェクトだった。なるほど、つまり誘いに乗ってくれたのが生来の楽天家であるエピクロスだけだったということだ。
「アダムー」
「何? エピクロス」
「右見て右。森が途切れてるよ」
エピクロスが指さしたほうを見ると、確かに木立が薄くなっていた。
「あ、ほんとだ。よかった、森を出られる」
ほらやっぱり見えざる手が何とかしてくれたわ、とアダムは言って駆けていった。彼女の言う「見えざる手」が何かの例えなのか、それとも存在するのか、存在するならどういうものなのか、エピクロスにはわかっていなかった。まさか本当に木の棒のことでもあるまいが。ただ確かにこの子が絡む時はいつも、みんな好き勝手やっているのに結果だけ見るとまあまあ首尾良く収まっている、ということがあるなとは思う。楽天家のエピクロスとはわりと気が合う仲だった。
「あれ? ここどこだ?」
残念ながら校舎に戻れるという二人の期待は裏切られた。しかし二人は残念がるよりも目の前に開けた光景に目を奪われる。
「わーひろーい」
「本当。こりゃ凄いな。小惑星でも墜落した後みたいね」
そんな事実があったのかどうかはアダムの知るところではなかったが、半径百メートルはあろうかという、ほぼ正円上に森が開けている様子は確かに、その中心で周囲を巻き込んだ何かが起こったことを感じさせた。今は穏やかな緑鮮やかな草原であるが、その中央にそびえたつものがある。
「木があるねぇ」
エピクロスは単に木、と表現したが、大木、巨木、あるいはその太さから大樹、巨樹と言うべきだろうか。遠目にもそれが数十メートルの高さとそれに見合う太さを持つことがわかる。
「行ってみますか」
「うん」
二人はさっきまでの疲れも忘れ、草原を走る。あっという間に広場の中央、大木の麓までたどり着いた。
「でかい木だな……。何の木だろう」
アダムは木の下から上を仰ぎ、その大きく手を伸ばした枝を眺めた。
エピクロスはピタピタと幹を撫でながら言った。
「太いねー。ウエスト五メートルってところ?」
「どこがバストでどこがヒップなのよ」
「寸胴だねー」
「やめなさいよ、コンプレックスかもしれないでしょ? いいのよ、木としてはこのストーンとした体型がスタイル抜群なのよ」
「いいなー。私も木になりたーい」
二人はぐるりと幹の回りを一周した。
「静かだねぇ。誰もいないね」
「うん。ちょうどいいや、ちょっと休んで行こう」
アダムが木の根元で上を見上げた。エピクロスはうんと頷いて、と思うといきなり跳躍した。手を振ってはずみをつけ、垂直に飛び上がり、身長の2倍はありそうな高さの枝につかまる。そのまま懸垂、逆上がりの要領で枝の上に上がった。意外な運動能力の高さにアダムは感心する。
「身軽な子だこと」
アダムが見ている間に、エピクロスはひょいひょいと枝を辿って木の葉の中に消えていった。
「気をつけてよ」
「平気平気ー」
アダムは首が痛くなったので上を見るのをやめた。
「すみませんお嬢さん」
突然の、声。