ポール・ヴァレリーの未完結性について
ヴァレリーの文学論に次のような箇所がある。
「一篇のポエームは、いつになってもできあがりはしないーーそれを終わらせるのは、すなわち、それを読者に与えるに至るのは、常にある事故の結果なのだ。」
「自分一個の場合を言うならば、自分はこう思っている、すなわち、同一の主題とこれもほとんど同一の言葉を果てしなく繰り返すことによって一生を満たしてもよろしいと。
『完成』
それは推敲だ」
実際、ヴァレリーは生涯、同じ主題を繰り返したのだろうと思う。僕はヴァレリーがどうしてそういう事を言うのか、うっすら分かる気がする。
ヴァレリーがこういう事を言うのは、簡単に言うとヴァレリーが批評家、少なくとも批評家気質だからだ。批評家というのは一つの自意識であり、自意識は生の内部では絶えず未完結である。
人間は常に人生の内部にいるから、それはずっと未完結なままである。死だけが、その人の人生に終わりをもたらすが、その人は自分の死を見る事ができない。だから、全ての人間は、ある未完結の状態にいる。
人がポエジーを生み出すのはその為であろう、と思う。例えば、構成的な文学作品というのは、何年にもわたって書かれなければいけない大作だったりする。しかし、その何年かの間に、「私」の自意識は絶えず変化しているはずである。大作を狙う人間は、この自意識、自分の変化を無視して、不動の大作を作り上げなければならない。この「不動の大作」を忌避するような感覚で、ヴァレリーはポエジーという言語を使っているように見える。
詩は、延々と書き続けられなければならない。人の自意識は再現なく流れていく。プルーストの「失われし時を求めて」は際限なく続く。そこには終わりはない。だから、ヴァレリーの視点からは、作品を完結させるのにはある種の強引さが必要である。「完成、それは推敲」という言葉の意味はそういう事だと思っている。
僕の意見を言ってみる。僕の意見では、ヴァレリーは正しい。しかし、まだその先がある。何故なら、人間にとって限界を持たない、と悟る事はそれ自体一つの限界だからである。だから、一つのポエジーはそれを生み出す一つの主体として、小説作品の中に構成化される可能性が考えられる。つまり、ポール・ヴァレリーは、ポール・ヴァレリー自身の自意識を結晶化することにより、ある限界を持つ事ができるようになる。それは丁度、1、2、3……と続いてく無限というものを「∞」と定義するようなものだ。ヴァレリーはその事には言及していないように思う。
人間は生の内部にいる時、ある未完結性の中にいる。未完結な人間が何故完結した作品を持つのか。これは、作品というものを最初から完結した構成あるものと捉えている人にはやってこない問題だ。ヴァレリーは生の内部にいて、知的な自意識を保持している。その時、自意識に限界はない。しかしこれに限界をもたらす事は可能であるーーと僕は考える(「推敲」のような方法ではなく)。それは、死の予感である。人間が自分の死を感じると、途端に自分自身がある種の完結性を持ったものとして「感じられる」。人が、己を捨てて、構成ある作品を作ろうとするのは、この為だと僕は考える。つまり、芸術上の限界設定は作者のペシミズムと関連性がある。
自己の自意識が連綿となく続くから、ポエジーも連綿と続くというのは紛れも無く正しい。しかしその正しさにいたたまれなくなった時、人は完結した作品を作らざるを得ない。人は死を体感できず、生しか体験できないから、死の事は考えなくて良い、というのは論理的には正しい。しかしその論理的な正しさに我慢できなくなった時、人は自分を失わう代わりに、もう一人の自分を手に入れる。つまりそのもう一人の自分こそが、かつての自分の限界線である。これはドストエフスキーにおいては、ラスコーリニコフという人物に結晶化させられた。「罪と罰」という作品を書いていた時のドストエフスキーは、どちらかと言うと、ポルフィーリィの立場に近かったかもしれないが、それ故に、彼らはラスコーリニコフを創造できたのである。ラスコーリニコフの内部にいる人間には、ラスコーリニコフ自身を描き出す事はできない。
そういうわけで、ヴァレリーの言う未完結は、線を引っ張っていくと、ある完結性に辿り着くと思う。ただその完結性は、自身の未完結性から逃げ出さなかった人に与えられる報酬だから、最初から小器用に完結した作品を生み出す人には縁のない話ではある。ドストエフスキーが己を発見したのは、「地下室の手記」「罪と罰」あたりだろう。その時、ドストエフスキーはもう四十を越えていた。一つの巨大な自意識は己を対象化し、結晶化するのに、この世の中を随分遠回りしたのである。そしてその遠回りは彼にとってどうしても必要なものだったのだ。