ボケボケ平行線
学術研究都市ダ=ザインフの名のもとになったダ=ザインフ大学は、F国の頭脳と呼ばれていた。
かの大学は世界屈指の知の権威であり、政治・経済・科学・技術・その他の専門分野において国の中核を担う若者を長きにわたり輩出してきた。学内は前途洋々たる青年や研究熱心な学問の徒で溢れている。
とはいえ、いかに高い知能や優れた才能を持っていようと、彼らの大半は感受性豊かな若者だった。
若者が集まれば、騒動は起こるべくして起こる。大なり小なり、多かれ少なかれ、沈む瀬も浮かぶ瀬も、重いものから軽いものまで多種多様に、雨が降ったり地が固まったり、とにもかくにも至るところで起こる。
一、大学院経営学研究科D1リラ・ハハリの場合
「わざわざすまない、リラ。ここなら人の往来もないだろうから」
友人のリックに誘い出され、講義棟の裏までついてきたリラは、笑顔で「ううん」と首を振った。
「構わないわ。人に聞かれたくない話なのね?」
リックとは学部時代に一般教養のクラスで知り合って以来、顔を合わせれば挨拶のついでに話もする程度の仲だが、それだけに、今回は改まって声をかけるほどの用件があったということだろう。
「それもそうだが、人目に付くところにいると、きみは必ず誰かに捕まってしまうからね」
リックは肩をすくめた。聞くところによると、彼は昨日からずっとリラを探し続けていたらしい。構内は広く、互いの研究室がかなり離れているうえ、リラは一箇所にとどまっていることが少ないせいだろう。
「話せば長くなるんだが……」
彼の歯切れは悪い。込み入った話のようだ。
「それなら機を改めたほうがいいかもしれないわ。次の講義に出席したいの」
「いや、この機会を逃すとまたきみを見つけるのに一日かかる。結論から行こう。リラ、俺と契約結婚してくれないか」
迷いを吹っ切ったようにきっぱりした口調でリックは言った。こういう話しかたをするときの彼は、いかにも育ちの良い青年に見えた。実際、彼は上流階級の人間だ。幼いころから厳格な教育を受けてきたのでない限り、この洗練された都会的な雰囲気は身につかないだろう。
リラは彼を眺めていたせいで耳に意識が向いておらず、そのせいで聞き違いをしたのかと思った。聞き返して、同じ言葉を繰り返してもらい、深呼吸を一度して、ようやくまともな返事ができるようになった。
「それは単なる結婚と、どう違うの?」
「お互いのメリットを生かしたきわめて合理的な婚姻契約であるところかな。きみにとっても悪い話じゃないはずだ」
すっかり腹を据えたらしく、リックは淀みなく話をした。
「聞いたよ、長女であるきみがいつまでも学問に夢中なせいで、あとの弟妹がつっかえているんだって? だいぶ結婚を急かされているんじゃないのかい」
「どこで聞いたの? そんなこと」
極めて個人的な事情に言及され、呆気にとられた。隠している話ではないし、親しい友人の中には知る者も多いが、リックに告げた覚えはない。しかも、微妙に事実に反している。
あの自由すぎる弟妹にとって「あとがつかえる」などという話は意味をなさない。弟はスターになると宣言して家を飛び出した。どこかで活躍しているらしいが、リラはその手の話にうといのでよく知らない。妹は芸術家肌の風来坊だ。陶芸家になるつもりらしい。どちらも可愛くてならない大切な家族だが、決して既成の枠に収まらないタイプなので、実家の牧場は長女のリラが継ぐしかない状況だった。ここで牧場経営学を学んでいるのもひとえに実家を支えるためだ。両親もそれを歓迎し、リラがゆくゆくは婿を取って牧場を盛り立てていくことを期待している。問題があるとするなら、リラが少しばかり学問にのめり込みすぎて大学に長居していることを母が案じている点だった。要は、婚期を逃すのでは、という心配だ。そのあたりの事情をリックは耳にしたのかもしれない。
「どこだっていいじゃないか。重要なのはそれが俺と実によく似た境遇だってことだ」
田舎の牧場の娘と、大企業の経営者の息子とでは、ずいぶん次元が違う気がした。それでも言いたいことはわかる。
「結婚を望まれているのね?」
「そう。恐ろしいことに、俺に宛てがわれる令嬢が揃いも揃って未来の社長夫人になる気満々でいる。俺に跡を継ぐ意思はないのにね。王族じゃあるまいし、世襲にこだわらなければ有望な後継者候補は山ほどいるんだから」
「まだ学生なのに、大変ね」
リラは心から同情した。学生でなくとも、まだ二十代半ばだ。
「跡を継がないというあなたの心づもりについては、ご両親もご存じなの?」
「……説得中だ。なのに両親は有無を言わせず俺に見合いをしろと言うんだ。冗談じゃない、見合いなんかしたら即日結納で翌日には籍を入れられるに決まってる!」
それはなんとも横暴な話だ。
「ほかに意中の人はいないの?」
相手がいるとわかれば彼の両親も少しは安心して、しばらく見守ろうという気になるのではないか。
「中学時代からこっち勉強漬けだった俺にそんな相手がいるわけないだろう。それに俺は……」
彼の言いづらそうな様子を見て取り、リラの頭にひとつの考えがひらめいた。
「ああ、なるほど。マイノリティな性癖を隠すためのカモフラージュ婚ということね」
「ち、違う! 俺はゲイじゃない!」
慌てふためくリックに、リラの憐憫の念はいや増した。そして胸が痛い。まさかそうだったとは。
「いいのよ、なんとなく事情は理解したわ。深く同情もする。できることなら協力したいとも思うわ。でも、結婚は無理」
「だから俺は違うって……え、無理? なぜ?」
「わたし、そうは見えないだろうけれど、人並みに結婚に夢を持っているの。陳腐な表現で恥ずかしいのだけど、あなたはつまり愛のない結婚をしようと言っているのよね?」
「そ、それは」
「リラ!」
リックの声にもうひとつの声が重なった。近くにいる誰かがリラを呼んでいるようだ。
「あら、ちょっとごめんなさいね、リック」
壁の端から「はーい」と顔を出すと、焦った顔の知り合いが駆けつけてきた。
「見つかってよかった! リラ、少しだけ時間をくれないか。今日は馬が異様に荒ぶって、手が付けられないんだ」
「あら大変。ミルミルかしら」
「彼女もつられて暴れ出しそうだけど、問題はプミプミなんだ。きみの言うことなら聞いてくれるだろうから、頼んでもいいかい」
「了解よ、すぐに行くわ」
リックを振り返って口早に言う。
「というわけでごめんなさい。獣医学部のほうへ行かなきゃ。あなたのお役には立てそうにないし、ごきげんよう」
「リラ!」
その夜、ふとリラは呟いた。
「それにしても、想い人から受けたプロポーズを断るなんて、わたしはおかしいのかしら……?」
二、大学院工学研究科D2リチャード・カートラの場合
どんどん小さくなるリラの後ろ姿を見送りながら、リックは肩を落とした。
なぜリラが無関係のはずの獣医学部に呼ばれるのかはわからないが、とにかく彼女は行ってしまった。お人好しで妙に多くの特技を持つリラは、たいてい一分もじっとしていない。次の講義に間に合えばいいが。
「失策ね。あれはまずいわ、リック」
「うわ、アンジェリカ! いつの間に? なぜそんなところから?」
頭上から落ちてきた顔見知りの姿に、心臓が止まるほど驚かされた。
「樹上の午睡よ。ごめんなさい、まるごと盗み聞きをしてしまったわ」
アンジェリカの身の軽さに普段なら感心しているところだが、今はそれより気になることがある。
「アンジェリカ、きみはリラの親友だし、他者の事情を吹聴して回るような人でないと知っているが、その」
「その認識は間違っていないから安心してちょうだい、わたしはマスコミに友人を売るような人でもないわ。そんなことより、あの体たらくは何よ。契約結婚ですって、笑っちゃう」
幼稚園児ですらもっとまともなプロポーズの文句を知っているに違いない、とでも言いたげだった。リックは少なからず自尊心を傷つけられた。あれでも一応、考えに考えて切り出したのだ。
「そんなにひどかったかい?」
「あの家庭的なリラが、契約結婚なんて話に乗るはずがないじゃない。同情を引く作戦は悪くないけれど、あれじゃ完璧にあなたの性癖が誤解されたわよ。それとも誤解ではないの?」
リックは己の顔色が赤から青に変わっているだろう確信があった。
「誤解だ! それだけは一刻も早くリラに訂正しなければ」
「訂正するからには説明が必要よ。わたしの可愛いリラを利用しようなんて、どういうつもり? どこかのバカ男みたいに『地味で冴えないオールドミス間近の大学院生だから、ちょっと誘うだけでホイホイ乗ってくるに違いない』とでも思っているなら、ただじゃおかないわよ」
非常に強い毒が込められた言葉だ。実感がこもっている。そこで思いつくことがあった。
「……それを、きみとリラに言ったのが、もしかしてルーファスかい?」
「そうよ。まともな男性なら自らの非に気づいて猛省して謝罪を決めるまでに一昼夜もいらないほどの暴言だったわ」
アンジェリカが薄く笑った。氷柱のごとく冷たく鋭い目をしていた。なるほど、とリックは思う。彼女がルーファスを忌み嫌って避けている理由がよくわかった。しかし納得できないこともある。
「それにしても理解できないな。リラのどこが地味で冴えないというんだ? 彼女は聡明なばかりか可憐で充分すぎるほど可愛らしいじゃないか」
「あら」
にわかにアンジェリカの目が穏和になった。
「わかっているならいいのよ。あんな俗物と一緒くたにして悪かったわ」
自業自得だとは感じるものの、いつもルーファスを見かけるたび「アンジェリカを見なかったか」と必死に尋ねられる身としては、少しフォローを入れたくもなる。
「もしかすると、彼もきみに謝る気があるんじゃないかな」
「は。そんな殊勝な男とも思えないわ。きっぱり反論されたのがショックだったみたいだから、おおかた恨みを募らせて仕返ししようとしているのよ」
切って捨てられた。
「……きみが本当は国内随一の資産家令嬢だと知ったら、彼はどうするのかな。地味を装っているだけで、実際は社交界の華だと知ったら」
「さあね、興味ないわ。そんなことよりリラの話よ。なぜ偽りの結婚――」
「偽りじゃないよ。正式な結婚のつもりなんだから」
「はいはい。その正式な契約結婚とやらに、よりによってリラを巻き込もうとするのは、どうして?」
実は、それがリックにはわからない。なぜリラでなければ駄目だと感じたのか、自分でも説明ができないでいる。ただ、先手を切って結婚するしかないと決めたときから、彼女をおいてほかは考えられないのだった。
しどろもどろにアンジェリカにそう説明したところ、彼女は眉間を抑えて頭痛をこらえるような仕草を、たっぷり十秒間は見せた。そして脱力した声で言った。
「かわいそうに。それ、不治の病よ」
「なんだって?」
「リラマジックっていうの。お大事に。あ、そうだわ。同じ病に冒されている人を何人か知っているから紹介しましょうか? かわいそうなほどの重症患者もいるわよ」
「なんのことだかわからない」
「そうよね」
気の毒そうに――しかしその割に唇の端を笑いを堪えるように小刻みに震わせ――アンジェリカは言い捨てた。
「ひとつ、わかったことがあるわ。あなたはロケット工学に夢中になるよりまず、自分の気持ちを理解しなさい。というか、自覚しなさい。話はそこからよ。じゃあね」
リックはきょとんとした。
「自分の気持ち?」
三、大学院法学研究科D1ルーファス・キュトラの場合
将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、だ。
ルーファスは彼女を見つけたとき、とっさにそう思って声を張り上げた。
「リ、リラ! やあ」
待てよ、この発想が俺の無数にある悪い癖のひとつなのではないか。彼女は彼女で尊重すべきひとりの人間であって、利用したり馬鹿にしたりすべきではない存在なのだ。
「こんにちは、ルーファス。最近はずっとひとりなのね。アンジェリカを探しているの?」
前回ルーファスに会ったときのことを忘れているはずがないのに、リラは朗らかに笑った。そのうえこちらの思惑などお見通しらしい。
「それはそうなんだが、きみにも俺は謝らなければならないよ、リラ。いつかの非礼について……」
リラの大きな茶色い目が丸くなった。驚いているようだ。それはそうだろう、このルーファス・キュトラが他人に謝罪しているのだから、ルーファス自身も驚いている。つい先日までなら、このことを予言されても絶対に信じなかっただろう。いつも周りに大勢の女性を侍らせて悦に入り、外見と財産だけで他人を判断し、独断と偏見から相手に暴言を吐こうが誰をないがしろにしようが気にする人間ではなかった。我ながら、実にろくでもない男だったのだ。
隠しきれない緊張をたたえているだろうルーファスの目を、リラが覗き込んできた。そして満面の笑みを浮かべた。善良このうえない表情だ。ルーファスもこのレベルに到達できれば、アンジェリカに愛してもらえるのだろうか。
「ええと、はい、謝罪を受け入れます。でも、わたしは全く気にしていないから、いいのよ。アンジェリカにはもう謝ったの?」
彼の気持ちが暗くなった。
「この二週間ほどそうしようと努力しているんだが、一向に彼女と話ができない。避けられているとしか思えないんだ」
「それは前途多難ね。アンジェリカは後頭部にも目があるんじゃないかというくらい、人を避けるのが上手なのよ」
「やはり、それほど嫌われてしまったんだな……」
己の愚かさが招いたこととはいえ、ひどくつらい。ルーファスはあの日あの瞬間に戻って自分を殴り飛ばしたかった。
思わず膝をつくと、リラが付き合って屈んでくれた。
「あなたのほうは違うみたいね。むしろアンジェリカを避けたいのはあなたのほうだと思っていたわ、ルーファス」
もっともな指摘だ。
「最初はそうだったよ。面と向かってド低能なんて罵られたのは初めてだったし、無残にこてんぱんにされて、三日間は家を出られなかった。だけど、布団の中で縮こまっているうちに気づいたんだ。確かに俺はどうしようもないダメ人間だった。恥ずかしいよ。アンジェリカが気づかせてくれた」
「……予想外の展開だわ」
そして、やがてルーファスは思いついたのだ。彼女がそばにいてくれれば、もっと自分も真っ当な人間になれるのではないかと。
「彼女は素晴らしいよ。身なりは野暮ったいけど、彼女のよさはそんな表層的なものじゃないんだ。きみもそう思うだろう?」
「え、ええ、そうね。大いに同感よ、アンジェリカは素敵な女性だわ」
「リラ、やっと見つけたわ! 申し訳ないんだけど、うちの研究室までご足労いただいてもいいかしら。Gのつくアレを見た気がしてしかたがないの。怖くて中に入れないから、あなたの神業でまたお願いできる?」
「まあ大変。すぐ行くわ。ルーファス、聞こえていないかもしれないけれど、ごきげんよう」
「俺はこれまでの行いを改めた。もうプレイボーイなんて返上だ、中身を磨かなければ意味がないから。もっと学生の本分をまっとうして、人を見た目で判断せず、誠意を持って社会に貢献するんだ。そうすればアンジェリカも俺を見直してくれるだろうか。『ド低能』から『素敵よダーリン』に認識が変わるだろうか、ねえリラ……あれ、リラがいない」
おまけ、大学院経営学研究科D1アンジェリカ・リンタラの場合
「嫌だわ、どうも毎日あの男が探り回ってるみたい。どこまで執念深いのかしら。そのうち夜討ちでもかけられかねないから、屋敷や身辺の警護を強化すべき……?」