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一本の木

掲載日:2026/05/13

皆様、ようこそ。今宵の舞台はありふれた住宅街の散歩道。

 民家の庭先、空の犬小屋の隣で、なぜか一本だけ血のように赤い葉をつける木。

 あれは自然のいたずらか、地中に隠された秘密が上げる悲鳴なのか。一人の青年がその狂気に呑まれていきます。

 それでは開演です。皆様、どうか足元の暗い土の下を想像なさいませぬよう。

いつもの散歩ルートにある、少し大きめの古い民家。高いブロック塀越しに見えるその広い庭には、同じ種類の広葉樹が等間隔で数本植えられている。


俺の目はいつも、その庭の奥、古い犬小屋のすぐ隣に生えている一本の木に吸い寄せられてしまう。それは、見慣れた景色の中にふと見つけた、拭い去れない違和感のようなものだった。


春になり、他の木々が一斉に瑞々しい緑の葉を広げる中、その一本だけが、まるで秋の紅葉のように毒々しい赤色の葉をびっしりとつけるのだ。葉の形も、幹の太さも、枝の張り方も他の木と全く同じ。ただ色だけが異様に赤く、まるでそこだけ風景画の絵の具を塗り間違えてしまったかのような、ひどく人工的な不自然さがあった。


冬になれば、どの木も同じように葉を落として枯れ木のような姿になる。見分けは全くつかなくなる。しかし、暖かくなり芽吹きの季節がやってくると、やはりその木だけが、血を吸い上げたかのように真っ赤な葉を芽吹かせるのだ。


最初は、ただの突然変異か、土壌の成分がそこだけ違うのだろうと思っていた。アジサイが土の酸性度で色を変えるように、その木の下だけ何か特殊な肥料でも撒かれているのだろうと。


だが、あの犬小屋の存在が、俺の思考に黒い染みを作っていった。


そういえば、あの犬小屋に犬が繋がれているのを見たことがない。首輪もリードもない、ただの空の古い木箱。かつてはあそこに犬がいて、そして死んだのではないか。飼い主は愛犬を悼み、すぐそばのあの木の根元に亡骸を深く埋めた。だから、死肉と血の鉄分を吸い上げたあの木だけが、あんなにも赤く染まっているのではないか。


いや、おかしい。


いくら大型犬だとしても、毎年毎年、あれほど大きな木の葉をすべて赤黒く染め上げるほどの血肉が残っているはずがない。数年も経てば土に還り、木は元の緑色を取り戻すはずだ。しかし、あの木は俺がこの街に越してきてからずっと、狂ったように赤い葉を広げ続けている。


では、もっと大きなものが埋まっているとしたら。


あの立派な民家に住んでいるのは、いつも静かに庭の手入れをしている白髪の老人だ。しかし、あんなに広い家なのに、家族の気配が全くしない。老人の妻は。子供たちは。彼らはどこへ行ったのだろう。


もし、あの木の根元に眠っているのが犬ではないとしたら。

何年にもわたって絶えることなく、絶え間なく新鮮な赤色を木に供給し続けられるだけの、質量のある何かだとしたら。


俺の脳内で、恐ろしい想像が急速に肥大化していく。

土の奥深くで、あの木の太い根が、白い肋骨の檻を突き破り、まだ生温かい何かから養分を啜り上げている光景。赤い葉の一枚一枚が、土の中から助けを求めて伸ばされた無数の血塗れの手に思えてくる。


もしかすると、あの老人は俺が毎日あの木を監視していることに気づいているのではないか。塀の隙間からこちらを覗き込み、次にあの根元に埋めるべき肥料の品定めをしているのではないか。


背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、俺は足早にその民家の前を通り過ぎるようになっていた。


そして、今日の散歩。


俺は半ば怯えながら、しかし確かめずにはいられない衝動に駆られ、ブロック塀越しにあの庭の奥へと視線を向けた。


犬小屋の隣には、ぽっかりと不自然な空間が空いていた。

あの赤い葉をつけた木が、ない。


根元から無残に切り倒され、真新しい肌色の切り株だけがそこに残されていた。周囲の緑の木々は何も変わらず風に揺れているのに、あの不気味な一本だけが、忽然と姿を消していた。


なぜ、今日になって突然切り倒されたのか。

土の中の養分を、ついに吸い尽くしてしまったからなのか。

それとも、俺のような部外者がその異常性に気づき始めたことを悟り、慌てて証拠を隠滅したのか。


切り株の断面は、遠目からでもわかるほど、赤黒く滲んで見えた。

あれは一体、何の木だったのだろう。

そして、あの切り株の下には今も、何かが眠り続けているのだろうか。

……さて、ささやかな散歩道の怪異はこれにて幕引きです。

 忽然と消えた赤い木。あの赤黒く滲む切り株は、青年の妄想の終わりか、土の中の「何か」が養分を吸い尽くされた証なのか。

 真実はあの老人のみぞ知る。

 明日、見慣れぬ切り株を見つけましても、決してその赤さを覗き込んではいけませんよ。それでは、お気をつけて。

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