「ニホンジン、ニホンジン」
民度の高さに驚いた。ニーニャは来日してそう思った。コンビニのレジに日本人が並んでいる。ニーニャの母国ではあり得ないことだった。母国では、列の概念がないように人だかりとなってわだかまる。
「あ、横入りやめてください」
と声を出せることが、どれだけ素晴らしいことか。「うるさい」と返される母国と見比べ、ニーニャはコンビニで働こうと決意した。ニーニャの肌はブラックだったが、お客様である日本人はイエローだった。
コンビニの陳列を規則正しく、並べていく。ニホンジン、ニホンジン……。ニーニャが並べる商品一つ一つがニホンジンの体を作る。日本人らしく、規則正しく並べねば。ニーニャは、自分のような外から来た人間は、その中に馴染んでいかなければ、という意識があった。
ブラックのニーニャは、最初は日本人のことを礼儀正しく、人を人だと尊重できる人種であると感じていた。手渡された商品に、きちんとthank youが言える人種である。応対するお客様のほとんどがそうだったが、but、そうでない人も存在する。
タバコの番号を一列覚える。レジ打ちをして、次のお客様を呼んだときだった。そのお客様はスーツを着込んで、仕事帰りだと思われた。
「黒人かよ」
と客は悪態をつく。こんな客も存在する。心の中で密かに、日本人に対する疑念が生まれた。yellow.yellowだった。yellowの客が指定した番号のタバコを手に取り、投げるように渡した。「流石は黒人。横暴だね」と呟く客は、得意げに去っていった。
ニーニャは、日本人にも、そういった人間がいるのだと気づくと、唐突に母国と日本が混じった気がした。国籍が溶けていく気がした。そのうち、そういったバイオレンスな日本人は、仕事場や家族の前ではかしこまっていると知った。
日本人は形式的に「ありがとう」を声で出力しているだけで、本心から感謝を思っているわけではないのでは? コンビニを出たら、日本人は日本人ではなくなるのでは? 形式がそうさせているだけで、礼儀を守っているだけなのでは?
形式があれば、あんなバイオレンスな日本人でさえ、かしこまるのだ。なら本心でどんなことを思っているか分からないものだ。ニーニャにそういう確信が浮かんだ。
コンビニの棚に、商品を陳列していた。お菓子のパッケージは、英語と日本語で書かれている。ニーニャは、私たちもこうなれるだろうかと思った。
肌の色が違うだけ。そして形式の強迫観念の強弱が違うだけ。本質は変わらない。お菓子のパッケージみたいに、国籍も関係なく関われないのだろうか。
「イラッシャイマセ」
カタコトの日本語でお客様を出迎える。あのドアが私たちを区切っている。yellowとblackを区分するあのドアがいけない。我々は我々になれないのだろうか? けれどカタコトさが許してくれない。
コンビニの壁は国境だった。国籍だった。形式だった。あの壁を越えれば、それさえ越えれば、私たちは私たちになれるのだろうか。けれど、日本人にとっての肌色は肌色で、私たちにとっての肌色は黒かった。
「あリがとうゴザイマス」
ニーニャはそう言って、コンビニの外を見た。人間が歩いている。当たり前だった。




