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シュガーマミー:Jigsaw Falling into Place

作者: Tahu aci
掲載日:2026/02/19

 財布は空っぽだった。

 比喩的に空っぽなのではなく、本当に空っぽだ。

 レジの前で、いつものコンビニで財布をもう一度開けてみる。まるで魔法のようにお金が現れるかと期待して。

 しかし、何もない。

「くそ…三百円か。」

 給料日まであと五日。

 三百円で五日間をやりくりするのか。

 僕は倉庫に向かって歩いた。段ボールとビニールの匂いがいつも通り迎えてくれる。


「ユウタ、顔、振られたみたいだな」

 リョウが荷物を整理しながら言った。

「もっとひどい。金に振られたんだ。」

 僕は笑いながら答える。

「マジで?貸してくれよ」

「俺も金欠だ。」

 ため息をつく。世界がわざと僕を笑っているかのようだ。


 リョウが少し止まり、にやりと笑った。

「もし金がすぐに必要なら…いいアプリがあるぜ。」

 僕は疑いの目で彼を見る。

「何?違法ギャンブルか?」

「もっと簡単だ。」

 彼はスマホを取り出し、画面を見せる。

 アプリの名前は目立っていた。

 Sugar Mommy

 若い男性が既婚女性と“デート”できる場所。

 僕は硬直して笑った。

「冗談だろ?」

「マジだ。昨日試したら、一回会うだけで五万円もらえた。」


 手が止まる。

 五万円。

 僕の一週間分の給料より多い。

「でもさ…」リョウは肩をすくめる。「結局金はすぐなくなるけどな。」

 画面をじっと見つめる。

 大人の女性たちの写真。整った身なり。

 短いプロフィール。

 孤独。

 話し相手が欲しい。

 誰にも見られない。

 唾を飲み込む。

「これ…安全か?」

 リョウは小さく笑った。

「旦那にバレなければな。」

 一瞬、倉庫のエアコンの音がやけに大きく聞こえた。


 給料日まで五日。

 財布には三百円。

 そして目の前には、近道を約束するアプリ。

 僕はいつも、自分はこんなことはやらないタイプだと言っていた。

 でも金持ちはいつも選択肢がある。

 持たない者には…言い訳しかない。

 指が勝手に動く。

 仕事帰り、小さなアパートに戻り、僕は「ダウンロード」のボタンを押した。

 数秒後、スマホにアプリがインストールされ、開く。


 登録フォームにいくつか情報を入力する。名前は隠す。

 そして数秒後、四人の女性からメッセージが届く。

「嘘だ…本当に女性なのか?」心の中で呟く。

 一人はメイと名乗り、

「やあ、かわいいね。仲良くなれる?」

 もう一人はサラ

「私はサラ、4歳の娘がいる母親。仲良くしませんか?」

 力が抜ける。

 正直、どうしていいかわからない。四人も同時に?

 画面の通知音が鳴り止むまでじっと見つめる。

 四件のメッセージ。四人の女性。

 あまりにも早い。

「これ、絶対ボットだ…」小声で呟く。

 でもプロフィールはリアルだ。写真も違う。話し方も違う。オンライン時間もバラバラ。


 僕は小さな実験をすることにした。

 まずメイに返信。

「はじめまして。なんでそんなに早くメッセージくれたの?本物のアカウント?」

 二分ほどの沈黙。

 そして返信が来た。

「へへ、当然でしょ。今アクティブなんだよ 怖い?」

 不自然さはない。ボットのようではない。

 再び聞いてみる。

「僕、財布に三百円しかないけど、それでも仲良くしたい?」


 数秒後、

「どうして三百円だけ?ご飯食べてないの?」

 返事が自然すぎる。

 ボットなら繋がるはずのない会話。

 次にサラ。

「子供は4歳?名前は?」

 数分後、

「アイリ。今、寝る前にアニメ見てるよ。あなた、子供好き?」

 細かすぎる。ボットはこんなに個人的なことは答えない。

 ベッドにもたれる。

 可能性は三つ。

 一つ目:アプリは新規ユーザーを優先的に表示している。だから大量メッセージが届く。


 二つ目:すべて架空アカウントで、プレミアム購入を促す罠。

 三つ目:完全な詐欺。

 リョウの言葉を思い出す。

「旦那にバレなければな。」

 旦那だけじゃない。

 もしも送金を要求されたら?

 もしも変な写真を要求され、脅されたら?

 詐欺集団だったら?

 メイのプロフィールをもう一度確認。

 小さな認証マークがあった。

 支払いメニューを開く。

 無制限で返信するには、5,000円のプレミアム購入が必要だ。

 ため息をつく。

 ああ、なるほど。

 ボットではないかもしれないが、アプリの仕組みで、金に困っている男をさらに困らせるようになっている。


 皮肉だ。

 お金が必要で、希望も欲しい。

 今、5,000円払えば、50,000円の報酬の可能性がある。

 でも詐欺だったら、僕には払う金すらない。

 指が「プレミアム購入」ボタンにかかる。

 深呼吸。

 頭の中の問い。

 本当にお金が必要なのか…

 それとも、希望が欲しいだけなのか?

 再び通知が表示された。

 メイからだった。

「あなた、新しいユーザーですか?財布にはまだ三百円しかないって言ってたよね?よかったら少し送金してあげる。これが私のLINE番号。」


 僕は固まった。

 早すぎる。

 優しすぎる。

 簡単すぎる。

 LINEの番号をじっと見つめる。プロフィール写真はアプリと同じだった。

 上品な笑顔、肩にかかる茶色の髪、背景は高級ホテルのようだ。

 頭がフル回転する。

 見知らぬ人。

 会ったこともない。

 ビデオ通話もしていない。

 僕が誰かも知らない。

 それなのに送金する?

 ありえない。

 もし彼女が本当に「シュガーマミー」なら、普通はランダムな人間にいきなり送金しない。


 慎重に確認するはずだ。

 ましてや既婚者だという。

 掲示板の話を思い出す。

 典型的な手口はこうだ:

 LINEに誘導。

 送金すると言う。

 でも「確認のため」に少額を先に送らせる。

 または身分証の写真を送らせる。

 あるいはスマホに届いた認証コードを送らせる。

 そして終わり——口座の残高は空になり、個人情報は闇金や違法サービスに使われる。

 唾を飲み込む。


 三百円では絶望的だ。

 でも、身元を失うことの方がもっと恐ろしい。

 短く返信する。

「どうして、初対面の人に送金しようと思ったの?」

 数分の沈黙。

 そして返事が来た。

「だって正直な人が好きだから。あなたは他の人と違う。」

 古典的だ。

 甘すぎる。テンプレートのよう。

 思わず試す。

「本当に助けたいなら、このアプリ経由で送金すればいいのに。なぜLINEなの?」

 今度は返信が遅い。

 三分。


 五分。

 十分。

 返事はない。

 もし本気なら、説明してくれるはずだ。

 でも詐欺なら、さっきの質問でスクリプトを崩したことになる。

 十五分後、再び通知が入った。

「アプリでは直接送金できないの。銀行経由の方が簡単。でも、詳細を交換するにはプレミアムアカウントを有効にする必要がある。」

 なるほど。


 やはり最後は五千円を払わせるつもりだ。

 苦笑いする。

 もう少しで釣られるところだった。

 三百円の頭は簡単に焦る。

 再びプロフィールを見る。

 今まで上品に見えた写真が、どこかストック写真っぽく見える。

 スクリーンショットを取り、ブラウザで逆画像検索。


 結果は…海外のファッションサイトのモデル写真だった。

 固まる。

 やはり釣りだったのだ。

 四通のDM。

 巧みな甘い誘い。

 送金の約束。

 最後はプレミアム購入を要求する。

 スマホをベッドに置く。

「まったく…」

 リョウは本当に五万円もらったのかもしれない。


 あるいは、リョウも同じ罠に少しずつ引き込まれているのかもしれない。

 そのとき、別の通知が入った。

 メイではなく、サラからだった。

「お金をすぐに送る話を持ちかけてくるアカウントには気をつけて。ここには詐欺が多い。」

 画面を見つめる。

 心臓が再び早く打つ。

 サラがオンラインだ。

 しかも、プレミアム購入を勧めたりしない。


 むしろ注意を促してくれる。

 手がスマホを握り直す。

 もしかしたら、全部偽物かもしれない。

 でも、すべてがそうとは限らない。

 再び通知音。

 メイだ。

「ねえ、私のこと怪しいと思ってる?」

 眉間に手をあてる。

「はぁ…」

 薄いマットレスの上に寝転びながら、使われている写真を探してみる。

 ただの逆画像検索だけではなく、徹底的に調べる。


 そして見つけた。

 SNSアカウント。

 名前はメイ。

 顔はアプリの写真と完全に一致。

 ステータスは既婚。

 息をのむ。

 夫は普通の人ではない。

 地元で知られた政治家。

 ニュースに頻繁に顔が出る。

 家族写真も綺麗に飾られている。

 完璧な笑顔。幸せそうな家族。

 手が凍る。

「政治家の妻が…俺にチャットしてる?」

 これはもうお金の問題ではない。

 大きなトラブルになりかねない。

 チャット画面を再び開く。

 オンライン状態。

 僕が調べていることを察しているかのようだ。


「今、何してるの?」

 ゆっくりタイプする。

「ただ気になって…本当に結婚してるの?」

 返事はすぐに来た。

「うん。どうして?」

 防御的でも動揺もない。

 さらに続ける。

「旦那さん…政治家だよね?」

 三つの点が表示される。

 長い沈黙。

 心臓が激しく打つ。

 そして——

「インターネットで私を調べたの?」

 スマホを落としそうになる。

「うん…」

 数秒の沈黙。

 そして再び返事が入る。

「いいね。馬鹿じゃないのね。」

 はぁ?

 眉をひそめる。

「だからあなたに興味があるの。」

 どういう意味だ?

「ここの大半の男性はお金しか見ない。でもあなたは私の背景を調べた。」


 息を飲む。

 危険だ。

 もし本当なら…

 彼女は本物だ。

 政治家の妻だ。

 リスクを承知している。

 その瞬間、別のチャットが入る。

 サラからだ。

「メイと話してるのね?」

 僕は体を起こす。

「えっ?」

「彼女はこのアプリで有名よ。気をつけて…でも悪い人じゃない。」

 頭が熱くなる。

 つまり彼女たちは知り合い?

 少なくともお互いを知っている?

 メイからまたメッセージ。

「怖い?」


 正直に答える。

「うん。」

 数秒後。

「安心して。私は『政治家の妻』としてじゃなく、ただ誰かが欲しいだけ。あなたになれる?」

 部屋の空気が静かになる。

 もうお金の話ではない。

 力。

 秘密。

 そして大きなトラブルの可能性。

 再び通知音。

 四通目、まだ返していなかったアカウントから。


 名前:レイナ。

「今夜、あなた人気者みたいね」

 目を閉じる。

 政治家の妻。

 若い母親。

 謎めいた女性が見守る。

 そして新たに現れた一人。

 財布にはまだ三百円。

 しかし、気分は自分には手の届かない世界に踏み込んだようだった。


 それでも…

 アンインストールボタンを押す気にはならなかった。

 しばらくして、スマートフォンが震えた。

 メイからだった。

「もし怖いなら…人目のある場所で会いましょう。ホテルのラウンジ、昼間で。」

 心臓が早鐘のように打つ。

「本気で会いたいの?」

「時間のことで冗談は言わないわ。」

 数秒後、住所が送られてきた。

 市の中心にある五つ星ホテル。

 通りすがるだけでも圧倒されるような場所。


 財布を見る。

 三百円。

「ここで何か頼むお金もない…」

 返信はすぐに来た。

「来てくれればいいの。残りは私がなんとかするから。」

 当日

 僕はいつもの服に、シンプルなジャケットだけ着てホテルの前に立った。

 高くそびえるガラス張りの建物。

 スーツに身を包み、ブランドバッグを持った人々が出入りする。

 帰ろうかと迷ったその瞬間、自動ドアが開いた。


 中から出てきたのは…

 メイ。

 写真よりも美しい。

 髪は低く結ばれ、光る小さなイヤリング。シンプルだが高級感のあるドレス。

 顔は落ち着いている…

 まるで、アプリで知り合った見知らぬ男性と会う緊張などないかのように。

 彼女は微笑む。

「ユウタ?」

 声は柔らかく、大人びている。

 唾を飲み込む。

「はい。」

 彼女が近づく。軽い香水の香りが鼻をくすぐる。

「来てくれてありがとう。」

 まるで普通の待ち合わせのようだ。

 政治的リスクも、重要な立場の妻であることも、何も感じさせない。

 ラウンジに入る。ピアノの静かな音色が流れる。


 ウェイターが軽くお辞儀をする。

「いつも通りでよろしいですか、マダム?」

 “いつも通り”──

 彼女はここによく来ているのだろう。

 向かい合って座る。手はテーブルの上でぎこちなく動く。

 メイはじっと僕を見つめる。

「思ったより緊張してるわね。」

「こんなところで座るのは初めてだから…」

 彼女は小さく微笑む。

「それが魅力的なのよ。」

 飲み物が運ばれる。値段を見る勇気はない。


 最初の数分は軽い会話。

 僕の仕事、シフト、小さなアパートの生活。

 彼女は真剣に耳を傾ける。

 偽りではなく、真摯に。

 やがて彼女は少し身を乗り出した。

「夫は夜中になるまで帰らないの。」

 心臓が跳ね上がる。

「子供の遊び相手を探しているんじゃない。私を生きていると感じさせてくれる人が欲しいの。」


 視線は僕の目をまっすぐ捉える。

「あなたになれる、ユウタ?」

 言葉が出ない。

 これは単なる取引ではない。

 目の奥に孤独がある。

 突然、彼女はバッグから何かを取り出した。

 薄い封筒。

 テーブルに置き、ゆっくり僕の方に滑らせる。


「不均衡な関係は好きじゃないの。」

 封筒に触れた手が震える。

 中には――

 お金。

 五万円どころではない、たくさんの現金。

「あなたを買うのではないわ。」

 柔らかく言う。

「あなたの時間に対して支払うの。残りは…私たち次第。」

 頭が混乱する。

 昨日の三百円。

 今、分厚い封筒が目の前にある。

 メイはゆっくり立ち上がる。

「少し歩きましょう。座ったままじゃ堅苦しいわ。」


 手を差し出す。

 ほんの一瞬、迷った手が、彼女の手を迎える。

 そして、人生で初めて――

 政治家の妻と並んで歩く。

 高級ホテルで。

 ポケットには熱いお金。

 彼女の車に乗り込むと、室内は静かで皮の香りが漂う。

 彼女の手は依然として僕の手を握っている。

「デートだから」と、振り返らずに言う。

「普通のデートらしい場所に行きましょう。そうすれば…少しは普通に感じられる。」

 唾を飲み込む。

 普通――

 でも、何もかもが普通ではない。

 アクアリウム。

 青い光が顔に映る。

 ゆっくり泳ぐ魚たち。

 メイは近くに立つ。

「こういう場所が好き。静かで、誰も名前を呼ばない。カメラもない。」

「メディアに追われることもあるの?」

 薄く微笑む。


「政治家の妻は人間じゃないの。私たちは所有物。笑顔でいなきゃ。完璧でなきゃ。」

 言葉に詰まる。

 彼女は続ける。声を落とす。

「お金があること=幸せじゃない。時には…孤独が増えるだけ。」

 映画館。

 暗い部屋。距離はほとんどゼロ。

 手が腕に触れる。偶然じゃない。

 彼女は引かない。

 映画の内容はほとんど覚えていない。

 覚えているのは彼女の安定した呼吸と、僕の高鳴る心臓だけ。

 モール。


 普通のカップルのように歩く。小さな笑い声。店に立ち寄る。

 彼女は無言で僕に新しいシャツを買ってくれる。

「デートのプレゼントだと思って」

 フードコートで、ついに本音を語る。

「結婚は愛で決めたわけじゃない」

 言葉に息を飲む。

「最初はいい人で、野心的で、情熱的だった。魅力的だと思った。」

 ストローを弄る。


「でも政治の世界に入って…変わった。」

「どう変わったの?」

「全てはイメージのため。人脈のため。権力のため。」

 苦い笑み。

「イベントでは妻として飾られるだけで、夫の隣にいることは少なかった。」

 今の彼女は別の顔を見せる。

 優雅でコントロールする女性ではなく、疲れた一人の人間。

「夫は暴力的じゃない。浮気もしてない。悪い人じゃない。」


 だからこそ複雑だ。

「ただ…本当にそばにいてくれない。」

 言葉が宙に浮く。

「話しても聞いてるだけで、理解してくれない。悲しんでも『未来のために我慢しろ』と言う。寂しくても…」

 目が僕を見つめる。

「…考えすぎだと言うの。」

 浮かび上がる不穏なパターン。

 暴力もドラマもない。

 ただ距離が徐々に感情を殺していく。

 そして選ばれたいという欲求。

「普通の女性として見てくれる人が欲しい。」

「政治家の妻でも、象徴でも、所有物でもない。」


 目は僕の目を見つめる。

「あなたが三百円しか持っていないと言ったとき…本物に聞こえた。背伸びしてない。弱さを恐れていない。」

 息を飲む。

「救ってほしいわけじゃない。

 ただ、求められたい。聞いてほしい。触れられたい…政治的目的なしで。」

 手が再び僕の手に触れる。温かい。


「あなたは?」

 彼女が小声で聞く。

「今日来たのはなぜ?」

 正直に答える。

「初めて…誰かに選ばれた気がしたから。」

 静寂が数秒。

 人で賑わうモールの中で、世界は二人だけのものになった気がした。

 もう、お金の問題ではない。

 ただの取引でもない。

 異なる空虚を抱えた二人が、偶然見つけ合ったのだ。


 そして、それが危険なのだ。

 夜が更けるにつれ、モールの照明が一つずつ落ちていく。

 廊下に足音が静かに響く。

 メイが歩調を緩める。

「そういえば…」

 小声で言う。

 振り向くと、

「夫は数日間、出張中なの。もしよければ…一晩泊まらない?私が払う。」

 心臓がもつれる。


 地下駐車場はいつもより静かだ。

 見つめるだけしかできない。

 彼女は僕の沈黙を誤解した。

「変な感じよね?」

 優しく、わずかに迷いを含む声。

 息を吐く。

「正直…行きたい。」

 ぎこちなく、笑う。

「でも…やっぱり変な状況だ。」

 一歩近づき、手を再び握る。

「変でもいいの。私たちが幸せなら。」

 ほほえみは薄く、挑発でもなく、強制でもない。


 拒否されることを恐れる人のもの。

 そして、それが僕をさらに混乱させる。

 気づけば、車は夜の柔らかい光に包まれた高級ホテルの前で止まった。

 スイートに入ると、僕は思わず立ち尽くした。

 部屋は広く、厚手のカーペットが敷かれている。大きな窓からは街の灯りが高層階から見渡せる。

 モダンな小さなキッチンはリビングと一体になっていた。


 狭いアパートとはまるで別世界だった。

「ユウタ、じゃあ一緒に料理する?」

 メイがさっきスーパーで買った袋を持ち上げながら聞く。

 僕は小さく笑った。

「うん、そうだね。全部メイが買ってくれたし。」

 僕たちは並んでキッチンに立つ。メニューはシンプルだ――パスタ、サラダ、温かいスープ。

 派手でもなく、複雑でもない。

 不思議な感覚だった。

 有名な政治家の妻が、隣で目を涙ぐませながら玉ねぎを切り、小さく笑う。

 ドレスも、カメラも、儀礼もない。

 ただのエプロンと鍋の音だけ。

 作業の途中で、メイが突然声を落とした。

「ユウタ…正直、私ってシンプルなのよ。」

 振り向く。


「もう、裕福さには飽きたの。」

 微かに微笑むが、目には疲れが見える。

「みんな私の生活は完璧だと思ってる。大きな家、高級車、華やかなパーティー。」

 手に持ったナイフが止まる。

「でも、心はいつも空っぽなの。」

 しばしの沈黙。

「子どもの頃から『ふさわしい伴侶』として育てられた。いい学校、いい交友関係、話し方も優雅でなきゃいけなかった。」

 小さくくすっと笑う。


「こんな風に一緒に料理する、なんてことはほとんど経験がない。」

 僕は聞き入る。

「ただシンプルに、料理をして、抱きしめられて、安心して眠る――それだけが欲しい。」

 視線を落とす。

「お金なんていらない。愛する人がいれば、それだけで十分。」

 言葉は甘い誘いではなく、告白のようだった。


 そして、なぜか僕はそれを感じ取れた。

 メイは刺激を求めているわけではない。

 温もりを求めているのだ。

 僕はコンロを静かに消した。

「メイ…」

 彼女が振り向く。

「ごめん…抱きしめてもいい?」

 許可を確認したかった。無断で踏み込むのは避けたい。

 言葉で答える前に、体は先に動いた。

 彼女は僕を抱きしめた。

 ぎゅっと。

 温かい。

 柔らかい香水と料理の香りが混ざる。

「気づかいが細かいのね」

 胸元で囁く。

 背中に手を回し、消えそうな僕を掴むように握る。


 数秒間、政治もお金もリスクも存在しない。

 ただ、孤独を抱えた二人が、互いに存在を確かめ合う。

「突然で、急だけど…」

 抱きしめたまま小さく言う。

「でも嬉しいの、ユウタ。」

 心臓は落ち着き始めた。

「私の親しい人になってくれる?」

 その言葉はシンプルだが重い。

「私のものになれ」でもなく、

「秘密の恋人になれ」でもない。

 ただ親しい友として。

 僕は理解してうなずく。

 これは一晩だけのことではない。

 何かの始まりだと。

 ゆっくり息を吸う。

「親しい友になるってことは…」

 小さく笑う。

「毎晩、悩みを聞く覚悟がいるってことだね?」


 彼女は胸元で小さく笑う。

「覚悟あるわ。」

 そっと顔を上げ、彼女の目を見つめる。

「じゃあ…いいよ、私も望む。」

 表情に変化があった。安堵と柔らかさ。

 まるで一時的に帰る場所を見つけたかのようだ。

 手が頬に触れる。

「誰の妻でもない人として見てくれてありがとう。」

 僕は静かに答える。

「僕はただ、メイを見ているだけだ。」

 その夜、空気はもう取引のものではなかった。


 お金や権力の話ではなく、

 ただ互いの空虚を埋め合う二人の選択の時間だった。

 数日後、日常は戻る。

 朝起き、コンビニでシフト、段ボールの匂いに包まれ、安い食事、狭いアパートに帰る。

 しかし、ひとつだけ変わったことがある。

 毎朝、ほぼ同じ時間に――

「おはよう、ユウタ」

 メイから。

 無意識に、僕は笑みを浮かべてから返信する。


「おはよう、メイ。」

 時には簡単な写真も送られる。華やかでも、パーティーでもない。

 オフィスの机の上のコーヒー、窓からの空、髪が少し乱れた自撮り。

 ある日、彼女はメッセージを送った。

「ユウタ…会いたい。」

 僕は画面をしばらく見つめてから返信した。


「暇なときにね。」

 皮肉にも、実際には僕の方が暇が多い。

 メイの生活は想像以上に忙しいことを、深く知ることになる。

 彼女は政治家の妻だけでなく、大手食品会社の創業者の娘で、現在は社長も務める。

 会議、行事、家庭の責任、政治。

 そんな彼女が、僕と近くにいること自体、まだ奇妙に感じる。

 時々心の中で思う――僕は彼女の忙しい日常の中の、ただの一瞬の休息に過ぎないのではないか、と。


 倉庫で在庫整理をしていると、スマホがまた震える。

 アプリからの通知。

 サラからだった。

「ユウタ、おはよう。」

 数日ぶりにアプリを開いた。

 メイに夢中で、あるいは単に居心地よくて忘れていたのかもしれない。

 僕は入力する。

「おはよう、サラ。」

 すぐに返信が来た。

「最近あまりオンラインじゃないね。」

 僕は苦笑する。サラはメイとは違う。

 メイが上品で支配的なら、サラは暖かく、地に足がついている。

 数秒後、サラから再びメッセージが届く。

「忙しいの?」

「それとも、誰かと近くにいる?」

 心臓が少し早くなる。

 サラは小さな朝の気遣いで僕を見守ってくれる。


「今日は朝シフト?」

「ご飯食べた?」

「コーヒー飲みすぎないでね。」

 小さなことだが、心に沁みる。

 僕は気づく。

 メイとは、高みの世界に選ばれた感覚。

 サラとは、温かい世界に守られる感覚。

 そして今、僕の焦点は徐々にサラへ向きつつあった。

「サラ、今朝は何してる?」

 数分後。

「子どもが学校に行ったばかり。家が静かになった。」

 あ、思い出す。

 サラは四歳の子を持つ母親だ。

「働いてないの?」

「家でフリーランスだけど…正直、ひとりでいることが多い。」

 ここには別の正直さがある。

 高級ホテルも、高級車も、封筒のお金もない。


 ただ、母親の家で静かな朝があるだけ。

「ユウタ、二番目の選択肢だと感じたことある?」

 問いに手が止まる。

 二番目の選択肢?

 僕はコンビニで働き、あの時は三百円しか持っていなかった。

 いつもそう感じていたのではないか?

「よくある」と正直に返す。

「私も。」

 少しして、サラがすぐに続ける。

「家に遊びに来る?」

 家?カフェでも公共の場でもない。家。

 在庫の棚を片付けながら読み返し、頭が真っ白になる。


 その時、ユメが倉庫に入ってきて飲み物の段ボールを運ぶ。

「ユウタ、変な顔してる」と平然と言う。

 僕は振り向き、無理に笑顔を作る。

「変な顔って?」

 腕を組み、真剣な目で僕を見る。

「さっきからぼんやりしてる。レジに回るのも忘れて、ずっとスマホばかり。」

 ハッとし、表情がバレていたことに気づく。

「え、あ…ごめん」と急いで答える。

 彼女は数秒見つめ、僕の考えを読もうとするように。

「女の子関係?」

 喉が詰まる。

「なんでそこに行くの?」

「だって、女の子じゃなきゃ、五分もスマホを見ながら変な笑みを浮かべるなんてしないでしょ」

 僕は唾を飲む。

 ユメは段ボールを床に置き、腕を組んで別の棚に歩き去る。

 僕は再びスマホを見る。

「家に来る?なんで?」

 数分後、返信が来る。

「画面越しに話すのに疲れたから。それに、あなたが安心できる人だと思ったの。」

 安心。


 その言葉が胸に重くのしかかる。

 メイは僕を現実の逃避として見ている。

 サラは僕を安全な場所として見ている。

 そして僕は――自分自身にすら安全かどうかわからない。

 シフトはあと二時間あるが、思考はすでに静かな家へ、そして母親である彼女の待つ部屋へと漂っていた。


 二時間が過ぎ、シフト交代の前、僕はレジに座り、最後の客のおつりを数えていた。

 倉庫は整理され、コンビニは静かで、冷蔵庫の音と、通り過ぎる数人の客の足音だけが響いていた。


 突然、スマホが震えた。

 サラ:

「ユウタ、今、国立のコンビニにいるでしょ?」

 画面を見て、心臓が跳ねた。

 そのメッセージ…奇妙で、なぜか少し怖かった。

 僕はこっそり返信を打つ。レジでは普通を装いながら。

「どうして僕が国立にいるって分かるの?」

 ユメはレジ近くの棚で在庫をチェックしていて、時々僕をチラリと見る。

 彼女の視線に疑念が含まれているのが分かる。


 僕は視線を下げ、おつりの計算に集中するふりをした。

 サラの返信がすぐに来た。

「だって知ってるから。」

 深く息を吸い、心臓がまだ落ち着かない。

 その時、コンビニの入り口の方から、若い女性が歩いて入ってきた。

 メイより少し低めの身長、25歳前後、メイより1、2歳若いかもしれない。

 髪はシンプル、顔は見覚えがあるような気がするが、はっきりとは分からない。

 彼女は僕の前で立ち止まり、スマホを打ちながら、周囲の人にはあまり気にしていない様子だった。


 僕の心臓はさらに速く打ち始めた。

 スマホの画面のメッセージが続く。

「今、君の目の前にいる。」

 僕は女性を見つめた。

 ゆっくりと、すべてが頭の中で繋がった。

 サラだ。

 若い母親…僕より少し若い。

 遠い存在だと思っていた彼女が、今目の前にいる。

 ユメが再び僕を見つめる。

 表情が変わった――何か普通ではないことに気づいたようだ。

 僕は唾を飲み、レジで硬直して立っていた。


 サラは薄く微笑む。

 穏やかだが、目には僕を緊張させ、好奇心をかき立てる何かがある。

「よう、ユウタ」

 彼女は柔らかく言う。世界に僕しかいないかのように。

「サラ?」僕は驚いて答える。

 ユメが近づき、声を震わせながら言う。

「ユウタ、君、この人知ってるの?」

 サラと僕はユメを見る。

「ええ、知ってる。ユウタは私の浮気相手よ。」


 サラは淡々と言い放つ。

「な…何!?」

 僕は驚き、ユメも同じく驚愕している。

「浮…浮気相手だって!?」

 ユメは言葉を噛みながら叫ぶ。

 サラは薄く微笑み、落ち着いている。

 まるで世界で最も自然なことのように。

 僕はただ二人を見つめる。混乱し、パニックになり、…少し信じられない気持ちだ。

「ユウタ、どういうこと?」

 ユメはショックと怒りが混じった表情で僕を見つめる。

「サラ…なんでそう言うの、ユメ?説明させて」

 僕は急いで言うが、状況を落ち着かせようとする。

 しかし、まだ説明する前に、ユメは眉をひそめ、不満そうに倉庫へ戻っていった。

 僕は深く息を飲み、心臓がまだ激しく打つ。


 シフトが終わり、コンビニは静かになる。

 僕は裏口から外に出ると…サラが待っていた。

 小さなベンチに座り、落ち着いているが、確信に満ちた表情だ。

「サラ…そんなこと言わないで」

 僕は近づきながら言う、まだ不安で。

「どうして僕の場所を突き止めたの?」

 サラは薄く微笑むだけで、すぐには答えない。

 警告もなく、彼女は手を伸ばし、僕の手を握る。


「ついてきて」

 柔らかくも、強い口調だった。

 僕は驚き、手を振りほどこうとする。

「待って!サラ、ちょっと待って!」

 遠くで、ユメが倉庫の入り口から僕たちを見ている。

 目を見開き、混乱と疑念が表情に現れている。

 サラは手を離さず、ただ微笑む。

「ユウタ…信じて」

 その視線には、僕を導く磁石のような力があった。


 僕は恐怖と好奇心、そして…何か深い感情の間で、徐々に身動きが取れなくなる。

 コンビニのすぐ近くに、二階建てのシンプルなアパートがあった。

 僕の心には問いが浮かぶ。

「サラ…家、コンビニのすぐ近くだったのか?」

 二階へと階段を上がる。廊下に足音が静かに響く。

 サラはドアの前で立ち止まり、鍵を取り出し、開けて部屋に入る。

 僕は玄関の前で立ち止まる。迷い、心臓は速く打っている。


「僕…分からない…」と口を開くが、サラは鋭くも落ち着いた目で僕を見る。

「入って、ユウタ。話がしたいの」

 彼女の口調は強く、しかし強制するものではなく、迫る力があった。

 深く息を吐き、重い足取りで中に入る。

 僕は既婚女性の部屋に立っていた。

 罪悪感がすぐに押し寄せる。

 サラはソファに座り、真剣な目で僕を見つめる。

 空気は突然重くなる。

「ユウタ、正直に話すわ」

 彼女は鋭い目で僕を見つめる。

「これは…私が寂しいからとか、近づきたいからだけじゃない。」

 僕は唾を飲み、混乱する。

「私はプログラマーなの」

 彼女は穏やかに続ける。


「ホワイトハッカーよ。夫が浮気していることは、私が携帯にアクセスできるから知ってる。すべてのデータ、すべてのメッセージ…全部分かってる。」

 胸が詰まる。

「そして、あなたは…私の復讐の一部になる。あなたは、彼に私の感じたことを味わわせることができる人。」

 恐怖が体中に広がる。

 僕はサラを見つめ、信じられない気持ちだった。


 最初は拒否したい、退きたい、アパートから出たいと思った。

 しかし彼女の視線は鋭く、まるで僕を引き寄せる磁石のようだった。

 徐々に、恐怖、好奇心、そして…それ以上の感情に捕らわれる。

 一つだけ明らかだった。

 僕は既に一線を越えてしまった。

 他人の妻の元に足を踏み入れ、取り返しのつかない道徳的な過ちを犯しかけている。

 その夜が終わる頃、僕はサラのアパートのベッドに横たわっていた。


 複雑な感情に囚われながら。

 タブーを犯したことへの罪悪感。

 メイへの罪悪感――彼女は何も知らず、僕をただの友人か、感情の逃避相手だと思っている。

 想像以上に大きな問題に巻き込まれたことへの恐怖。

 それでも、サラに惹かれ続ける好奇心。

 外の世界はまだ平穏だ。

 この部屋の中、僕は現実と罪、そして出口の見えないジレンマの間に閉じ込められていた。


 終わり

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