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友人失挌

作者: 吉田 逍児


 俺は彼の死に対して、何も言うことが出来なかった。

友人、今井はただ自分の自由の名において、命を絶ちたかったに相違ない。ならば愛しい人を道連れなどせず、1人で死ねば良かったのに・・・。


         〇

 俺が彼を知ったのは大学入学試験の時からだった。彼の受験番号は俺の3人手前だった。彼は俺の目に如何にも田舎から出て来た受験生に映った。彼のような田舎者が、競争率の高い難関の商学部に合格出来るのだろうかと疑った。ところが田舎者の彼は見事合格し、俺と同じクラスになった。初めのうち俺たちは余り口を利くことは無かったが、俺と都内の私立高校で一緒だった宮沢進一が彼と親しくなって、一応、俺も彼の友達になった。彼は田舎から出て来た苦学生で、パン屋でアルバイトをしたり、デパートの配送のアルバイトをしたり、ビル掃除をしたり、早朝の駅での尻押しのアルバイトなどをして生活費を稼いでいた。彼はハンサムだったからアルバイト先などの女性にもてた。宮沢が会話を誘導すると彼は女の話をしてくれた。彼はデパートのジュータン売り場の女性、高田清子と親しくなり、彼女に誘われ、日比谷公園の暗がりで、やらせてもらった話など、こと細かに語った。また彼は文学部志望だったが家族の者から、就職のことを考え、商学部に行くので無ければ、学費を出さないと言われ、商学部に入ったと話してくれた。兎に角、彼の育った山村は貧しい村らしかった。彼は時々、溜息をつき、自分の悪事を懺悔し、俺たちに話した。

「小学校の時、俺が初めて好きになった可愛い女の子がいた。だが彼女の家は貧乏で、藁葺きの家というより、藁小屋のような所に住んでいた。父親が戦地から帰って来ず、戦死したという話だった。彼女の母親に再婚の話があったが、彼女の母親は、何時か夫が帰って来るのではないかと再婚しないで、男の子と女の子を育てた。母親は2人を育てる為に苦労した。骨と皮になって子供の為に働いた。俺は今も覚えている。あの山奥の炭焼き小屋から真っ黒になって炭俵を幾つも背負い、町まで運ぶ骸骨のような彼女の母の姿を。俺はそんな苦労をしている彼女の母のことを知らないで、彼女の母親に石を投げたのを思い出す。学校帰りのことだった。俺たちは背中に重たそうな炭俵を背負い坂道を下って行く彼女の母親を発見した。俺と一緒に帰る近所の上級生が俺たちに命令した。〈女金次郎が行くぞ。石を投げろ!〉俺は餓鬼大将のその言葉に従い、石を拾うや否や、彼女の母親めがけて石を投げた。俺は小石を投げたが、餓鬼大将は俺より大きな石を投げた。その石が、彼女の母親の背負った炭俵や足に当たった。母親はヨロヨロとふらつき、後ろを振り向いた。その母親の鬼のような視線と俺たちの視線が交差した。彼女の母親は目を吊り上げ、まるで鬼女のように鋭い目をして怖かった。餓鬼大将は怖かったのか、更に石を投げつけた。彼女の母親は顔を歪ませて逃げるように坂道を下って行った。上級生は尚も女金次郎を追いかけた。俺も、それに続いた。俺は何という馬鹿なことをしたのだろう。俺は彼女の母親が俺たちを睨みつけたあの顔を忘れることが出来ない。炭で汚れた真っ黒の顔と怒って燃えた赤い目と逆立てた真っ黒な乱れ髪の彼女の母は、さながら鬼女そのものだった。その彼女の母親は、長男が国立大学を卒業するや可愛い彼女を連れて、村から消えた。東京へ行ったのだという。俺は今でも彼女の母親に、そんな罰当たりなことをしたと、深く深く後悔している」

 彼の後悔話を聞いて、俺は彼が僻地の山村で雑草のように成長したことを知った。そんな彼は授業をさぼるようなことは無かった。彼は向学心に燃えていた。都会生活に慣れた大学2年の時、彼は文芸同人誌『エール』の同人になった。彼はその同人会に出席して、作家としてちょっと知られた砂川倫之介に出会い、夢を見ているようだと喜んだ。彼の学業が疎かになったのは、それからだった。創作活動に熱中し、授業を休むようになった。文学に傾倒する彼は、物事に対する考え方が変わった。彼は人間の命を儚く短いものと考えるようになった。だから、その短い人生を、みみっちく生きたくないと言った。2万日程度しか生きることの出来ない人生を快楽で燃焼してしまうことを最高の生き方だと思うようになった。澁澤龍彦の影響を受けたようだ。彼は恋愛に夢中になった。デパートの女店員、高田清子や同人誌仲間の中原百合江と付き合った。そうこうしているうちに俺たちは大学4年生になった。時代は東京オリンピックが終わった後の就職難の時代だった。俺たちは就職活動に奔走した。彼も俺たち同様、就職先を探した。しかし、2年の後半から、文学や女や麻雀に夢中になって、授業をさぼるようになった彼の大学での成績は、決して褒められるものではなかった。なのに就職のことなど余り気にしなかった。スタイルの良い水之江麗子と赤いスポーツカーを走らせ、遊び回った。彼は学業の成績が悪いので、運転免許を取得しておけば有利になるかと思い、学生時代に免許を取得していた。水之江麗子は彼がその自動車教習所通いの時、ひっかけた社長令嬢で、ハンサムで文学的な彼に夢中になっており、彼の為になら何でもして上げたい雰囲気だった。彼女は女子短期大学の2年生。短期大学なので、彼と同じく、明春3月に卒業だった。その麗子がスポーツカーに乗ってなびかせる長い髪は、向かって来る風に踊らされ、去って行く風に手を振った。彼女の首に巻かれた細くて長い赤いスカーフも、彼女の黒髪の流れを真似てなびいた。スポーツカーは快音を響かせ、首都高速道路を走った。彼女と彼は、この時空の移動に快感を覚えた。2人は神田橋で高速道路から降りて、神田に出た。それからお茶の水を通過し、湯島に行った。湯島ですることがあった。2人は『夢路』という湯島の旅館に入った。スポーツカーは『夢路」の庭に停めて置いた。2人は仲居に部屋に通された。季節は夏。部屋の中では水色の扇風機が回っていた。麗子は床の間にあったピンク色の電話機を使ってジュースと果物を部屋に持って来るよう注文した。その間、彼は部屋のテレビをいじくった。それを見て、麗子が少し迷惑そうな顔をした。

「折角、休憩に来たんだから、テレビ観るの止めない」

「そうだな」

「和道さんの所、テレビあるの?」

「貧乏学生だから、テレビなんか買えないよ」

「そうなんだ」

 麗子は気の毒そうな顔をして、そう呟いた。それと同時に部屋の電話機が鳴った。麗子が電話に出ると、女の声がした。先程の若い受付の女では無かった。『夢路』の仲居だった。彼女は言った。

「御注文の品、お部屋の前に置きましたから。では、ごゆるりと・・・」

 麗子は彼に目配せした。彼はドアを開け、盆に乗った桃とジュースを部屋の中に運び込んだ。そしてドアに鍵をかけ、麗子の前に置いた。麗子は細い首に巻いていた赤いスカーフを取り外して座敷に放り投げた。そのスカーフは扇風機の風を受けて、部屋の片隅に吹き寄せられた。彼は、それを見て、世間が自分をそのようにしようとしているのを感じた。成績の悪い奴はゴミだ。採用する事など出来ない。彼の脳裏に就職のことがちらついた。麗子は直ぐにジュースに手を伸ばすのではないかと思ったら、そうでは無かった。彼女は暑くて仕方かったのか、彼の前で、白いブラウスを脱いだ。更に恥ずかし気も無くブラジャーを外した。上半身、完全に裸になった。彼は少し驚いたが、気にしないことにした。麗子は、その格好で桃を手にした。そして彼に1個渡した。彼が手にしたピンク色の果実は、とても冷えていた。多分、冷蔵庫に入っていたのだろう。2人はジュースを飲み、桃の皮をむいて食べた。甘くジューシイだった。その甘い果実を口にしながら窓から外を眺めると、真紅の夕陽が柳の緑などを紅く染めて、今から沈んで行こうとするところだった。彼は、あの太陽の色は永遠に変わりはしないが、自分たちの時間は短く、時間と共に変化して行くのだと思った。太陽はコンパスで円を描いたようにまんまるく、紅かった。彼は桃をかじりながら立上り、窓から、その太陽を見た。夏の太陽は炎のように燃えていた。麗子の顔は、その夕陽を受けて、ゴーギャンの描いた絵に出て来る南海の女の顔のように紅かった。彼は急に体を回転させ、部屋の奥の次の間を見た。白いカーテンが氷壁のように、次の間を隠していた。彼は座敷を進み次の間のカーテンを引き開けた。そこには純白に包まれたベットが死人を置く寝台のように客を待っていた。枕元近くには緑色の傘をかぶった電灯が、蛇のように壁から首を出していた。彼は今から麗子と、この上で寝るのだと思うと、不思議にも笑いがこぼれた。桃を食べ終わってから、彼は麗子と次の間のベットの上で寝た。麗子は何時ものように、絡み合いに夢中になった。彼はブルジョワの娘と性交行為をしていることに、復讐をしているような快楽を覚えた。そしてまた自分も惜しみなく、その快楽に命を費やした。彼の家は貧乏だった。彼は幼い時から、金に苦労させられた。そして今、その金を彼女と浪費している。ブルジョアの金なので、彼にとって、ちっとも腹の痛むことでは無かった。彼が関係している女は、この麗子だけでは無かった。高田清子、中原百合江をはじめ数人いた。その中で一番、金持ちは麗子だった。彼は麗子と性交行為をしながら、『水之江建設』を自分の物にしようか考えたりした。このことは少しも、不可能な事では無かった。彼には水之江麗子という、肉体まで許した社長の娘がいるからだ。彼は麗子と楽しみながら『水之江建設』を自分の物にすることを考えた。しかし、水之江家には水之江勇治社長の長男、久雄がいた。麗子の兄だ。彼にとって久雄はまさに邪魔者だった。


         〇

 湯島の旅館『夢路』を出たのは8時過ぎで、空には黄色い半月があった。彼は湯島からスポーツカーを運転し、麗子を自宅まで送った。麗子の家は白金にあった。麗子を自宅近くまで送り届けてから、彼は徒歩で、目黒駅まで出た。目黒駅近くの繁華街を歩いて行くと、彼の名を誰かが呼んだ。

「和道さ~ん」

 彼は、その声を耳にして周囲を見回した。数人の仲間と一緒に1人の娘が自分に向かって手を振っているのが、目に入った。彼女は彼の大学で教鞭をとっている牧村豊喜教授の娘、牧村和歌子だった。彼女は英会話を習っていると言って、毎晩、友達と出歩いているに違いなかった、牧村教授は娘がそんな夜遊びをしている事など露知らず、自分の書斎に閉じこもって経済学の原稿でも書いているのだろう。彼はそう思った。彼が牧村和歌子を知ったのは去年の夏だった。彼は俺に誘われて、洗足にある牧村教授の御自宅に訪問した。俺と彼は去年の4月、牧村教授のゼミナールに入った仲間であり、牧村先生のお気に入りの学生だった。あの日、牧村教授の妻、静子夫人は静岡の実家に出かけていて、和歌子が母親代わりを務めていた。そんな日の夕べに、彼は和歌子を知ったのだ。牧村教授は自宅の庭のテーブルに坐って、議論を交わすのが好きだったから、俺たちを外灯に照らされた緑の芝生に置かれたテーブルの椅子に座らせ議論した。彼女は父親に命令され、先ずはビール瓶とグラスを3個、白いテーブルクロスを掛けたテーブルの上に置くと、軽くお辞儀をして、植木の脇を小鹿のように台所に戻って行った。そして直ぐに、枝豆とポテトサラダを運んで来た。それを目にして、普段、ろくな物を食べていない彼は喜びの笑顔を見せた。

「美味しそう」

「娘の作るポテトサラダは絶品だよ。さあ、味見して下さい」

 すると、高校2年生の彼女は遠慮がちに言った。

「母が出かけていて、私の下手な料理ですけど、召し上がって下さい」

「いただきます」

 俺たちは、ビールを飲みながら、牧村教授と『経済政策論』の論争をした。牧村教授と個人的に議論を交わすのは滅多に無い事なので、俺は夢中になって、牧村教授と話した。ところが彼はビールをちょびちょび飲みながら、飲み物やつまみを準備してくれた和歌子のことを気にしていた。彼女が帰って行った植木の向こうの台所ばかし見ていた。彼が視線を送る台所の窓ガラスの向こうで、和歌子は次の料理を作る為、可愛く動いていた。牧村教授はマックス・ウェーバーの言葉を持って来て、しきりに俺を説き伏せようとした。しかし俺は、その価値判断を導入してはいけないという『ウェーバー論』に反論してかかった。旧来の宗教的善悪や美醜を無視し、科学的客観性による技術的判断以上に出ることは許されないという経済政策は何の進歩も、もたらさないと俺は激しく言った。だが牧村教授は自己分析による事実判断を行い、過去の価値観にとらわれず、自由に事実判断を行うことが成長の秘訣だと強調した。俺と牧村教授が、口角泡を飛ばして論議しているのに、彼には、そんな難しい論議など関係無かった。未来に関する事よりも目の前の現実の方が大切だった。だから彼は和歌子のことばかりを気にしていた。和歌子は和歌子で、大変だった。台所でスパゲッティを作った。4人分のスパゲッティを皿に盛りつけし、そのうちの3皿をトレーに乗せて、庭のテーブルの上に運んだ。娘が真剣になって作ったスパゲッティを運んで来てくれたのに、牧村教授は娘に何も言わず、俺との話に熱中した。俺たちの代わりに、彼が礼を言った。

「どうも、有難う御座います」

 牧村教授と俺は、そのスパゲッティを口にしながら、経済学の話を続けた。そして2人とも喉が渇いて、ビールのグラスを空にし、冷や水を飲みながら何やかやと喋った。時間が随分、遅くなって来たので、彼は食べ終わった皿とビール瓶などをトレーに乗せて、台所に向かった。台所のガラスドアを開けると、和歌子が、彼に言った。

「あらっ、有難う」

「ご馳走様でした。とても美味しくいただきました」

「母が出かけているので、下手な私の料理で、ごめんなさいね」

「いいえ、そんな。美味しくて夢中で食べました」

 彼に褒められると、和歌子は紅く頬を染めた。彼女はスイカを切り始めていた。彼女のスイカの切り方は見ていて危なっかしかったので、彼は自分がやってやると言って、スイカを切りながら、和歌子といろんな話をした。学校のこと、牧村教授のこと、進学のことなど、話は泉のように湧いて出た。彼はスイカを切り終えてから、彼女に言った。

「僕はこれで帰るよ。藤井に先に帰ったと伝えて下さい。急に用事を思い出したからって。先生にもよろしく」

「あらっ、もうお帰りになるの。スイカ食べてから帰って」

「じゃあ、これ1個いただきます」

「どう。甘いかしら」

「はい。甘いです。今夜は最高です。七夕の日に、貴女のような人とお会い出来て、本当に仕合せです。今日の織姫と彦星以上に仕合せです」

 女を口説くのが上手な彼が、そう言うと、和歌子は顔を一層、赤くして俯いた。彼は、そんな純情ぶった和歌子の両肩に手をやると、素早く彼女を抱き寄せ、外から見られないよう、しゃがんでキッスした。和歌子は彼の突然の行為にいやいやをした。しかし彼は無理に唇を奪った。和歌子は初め苦しそうにもがいたが、直ぐに気を失ったように静かになった。そして彼が唇を離すと、大きく息をついて彼の胸の中に転がり込んで来た。彼は完全に和歌子を自分の物にしたと思った。こんな風にして知り合った和歌子が目黒通りの反対側の舗道で手を振っていた。彼女は他の2人の女友達といた。いわゆる『みゆき族』という連中である。先程、送り届けて来た水之江麗子より、2つ年下の少女たちであるが、頭にハンカチを巻き、ロングスカートを穿き、腰の辺りに長いリボンを垂らし、花付サンダルを穿き、大きな麻袋をかかえ、彼女たちは大人ぶろうとしていた。彼は彼女たちに声をかけられたので、仕方なく、喫茶店『ダリア』に入り、オレンジジュースをご馳走してやった。そして、種々、世間話をした。女子高生たち3人ともタバコを飲んだ。未成年のうちは、こんな馬鹿な事が面白いのだと、彼は、自分の高校時代の事を思い出し、30分程して、和歌子たちに言った。

「ご両親が心配するから、皆、早く帰りなさい」

「は~い」

 彼女たちを連れて『ダリア』を出たのは、10時過ぎだった。彼女たちとは目黒駅前で別れた。彼はそこから国電で恵比寿に向かった。彼が暮らすアパートの場所は恵比寿だった。


         〇

 彼は夜遅く、自分の住処『長谷川荘』の2階にある埃だらけの部屋に帰った。郵便受けから手紙を取り出し部屋に入るや、熱気がムンムンしているので、庭側のガラス窓を開けた。近くの家の風鈴が鈴虫のように鳴っているのが聞こえた。彼は机の前に座り、郵便受けに入っていた手紙を確認した。それは田舎の父親からの手紙だった。彼は、その手紙を読んだ。

〈前略

和道、元気か。家の者は皆、元気だ。田植えは苗代跡と谷地田の小さいのが、この間、やっと終わったところだ。麦の刈り取りも終わった。さて、話は、お前の就職の事だが、今日の新聞などを見ると、大会社は大学卒の求人を昨年より、ぐっと少なくしているとある。就職は人生の一大事。熟考し、自分の適職を選び、全力を尽くしなさい。会社の大小より、堅実な会社を選びなさい。父には縁故など無くて、お前の力になってやれず、申し訳ない。許してくれ。これも父に学歴が無い為だ。だからこそ、父はお前に、その二の舞を踏まぬように、こうして苦労し、ボロをまとい、栄養も取らないで、お前を大学に出しているのだ。お前の母も、姉も、弟も、皆、そう思い、頑張っている。いずれにしても、お前の最善の努力が必要だ。頑張ってくれ。家も農作業が一段落しないと熟慮出来ないので、お前に頑張れとだけ連絡する。人、誰でもが通らねばならぬ道だ。大変だろうが頑張ってくれ。父も21歳で日本陸軍の第1期試験、下級候補者試験、学校派遣試験と、わずか15日間で済ませ、どうにか合格したことがある。和道は最高学府で学んだのだから、その点、自信があると思う。試験官も人間。お前も人間だ。大きな気持ちでやれ。兎に角、来春卒業者に就職難が待っている。お前の希望職種、企業の大小、希望勤務地などもあろうが、職に就くことが第一。努力せよ。9月の学費は、どんなことがあっても、家から払うから、心配せず、学業と就職活動に専念してくれ。多忙中につき、乱文乱筆であるが、よく意をくみ取って良い就職先を決めてくれ。家の者は食べたいものも食わず、それを願っている。 早々〉

 その手紙を読み終えると、彼は、父親からの手紙を机に叩きつけた。世の中の総てに腹が立った。ゲゼルシャフトとゲマインシャフトに腹が立った。全体ということに腹が立った。彼は涙ぐみ窓の外を眺めた。夜風がイチジクの葉を揺すって、わずかに吹き抜けていた。部屋の天井の真ん中からは裸電球が1つ吊り下がり、ヒマワリの花のように微笑み、彼の気持ちを明るくしようと努めていた。彼は就職したかった。だが何処の会社も彼の成績から判断して、彼の採用を断って来た。不採用通知が届くたびに愕然とした。就職しようとする気力を失いかけ苦悩する毎日だった。鬱憤を晴らす為、彼は多くの女性たちと遊んだ。水之江麗子とドライブしたり、高田清子とホテルで寝たり、中原百合江と酒を飲んだり、弁護士夫人、浅丘真紀とダンスホールに行ったりした。だがこれらの遊楽の時が、やがては無意味に思えて、花がしぼんでいく行くように委縮して行くことを知らないでは無かった。心の奥底でそれを感じていた。感じていたからこそ、彼には、父親に言われるまでも無く、今という時が大切に思えた。


         〇

 彼は大学の就職案内窓口に行き、就職活動に奔走した。俺や田中良平、栗山利之の就職内定を知ると彼は尚更に焦った。深刻な状況に陥った彼は、突飛なことまで行った。大学の就職課を通さず、希望就職先に直接、手紙を送ったりした。

〈 大東京出版株式会社

   代表取締役 大坪信一郎様

 謹啓 

貴社、益々、御清栄の事とお喜び申し上げます。

私はM大学の今井和道と申します。

突然ながら、私の不躾な行為をお許し下さい。

私は明春、M大学を卒業する予定になっておりますが、まだ就職が決まっておりません。この間、貴社からの応募が学内の就職課の掲示板に張り出されておりましたので、応募致しましたところ、学内推薦の選抜で落とされ、貴社の採用試験を受けることが出来ませんでした。貴社の試験を応募するには、私の学業成績が余りにも悪すぎるというのが、その理由です。私は学内就職課のこの処置に逆上し、大坪社長様に直接、筆を執る決心をしました。

 私はこの学校のやり方に疑問を抱いています。

果たして人間の価値というものが、学業成績だけで決まってしまって良いのでしょうか。学年末のたった1度の、たった1時間の2つか3つの試験問題によって、人間の価値が選別されてしまうのでしょうか。一瞬のことで、その人の将来を価値づけられてしまうのでしょうか。パチンコの玉が何処の穴に入るか選ぶような問題によって、1人の人間の前途を、簡単に決めつけられてしまうものなのでしょうか。私はこの学校や社会の仕組みに逆上しています。完全雇用の政策が国内経済の最高の目標でありながら、このような人間選別行為によって、人間の雇用が限定されてしまっていることは、私自身、本当に残念でなりません。大河内一男先生は、この間、こう述べられました。

《学生としての学業成績の優秀さは、そのまま職業生活に入ってからの社員としての優秀さと同義ではない。受験生としての入試成績とか、学生としての学業成績などは、いわゆる「人才」の一つの尺度であろうが、決して「人才」そのものと同義ではない》

 私も同感です。学業成績だけで個人を評価することは化粧されたものを選択するようなものです。私はその化粧されたものを選択するような現代の社員採用方法に反対です。学業成績とか面接時の笑顔とかいったものは悪を隠す化粧です。それは表面的なものであって、人間の内奥まで深く掘り下げ、究明された内面的本質ではありません。人間性を無視した化粧であって、個人の真の姿ではありません。このことは学業成績の悪い私のひがみでなのかもしれません。

 私は現在、文芸同人誌を発行している文学会に所属しています。それ故、自分の資質が貴社の発展に貢献出来ると思い、貴社の応募に応えようとしたのです。しかし、大学の就職課で、その夢を封じられてしまいました。就職課の答弁は、学業成績が悪ければ、資質が出版社に向いていようが、入社して頑張ろうと希望していようが、大学の恥になるから駄目だというのです。私はがっかりです。

 個人の自由と尊厳に根差す豊かな教養と生きた知性を身に付け、自主独立の執権ある人物を育成すると称している大学とは、そんなところなのでしょうか。私は、こんな訳で、何処にも就職出来ないと思います。そんな経緯から私は就職を断念し、自分の好む文筆活動によって生きようと思っています。もし、貴社にて、埋め草でも構いません。原稿の需要が御座いましたら、お知らせ下さい。原稿の2,3百枚なら簡単です。小説の短編、中編、長編などなど。テーマをいただければ何でも書きます。この就職を断念した愚昧な私を哀れと思い、どうか御支援の程、よろしくお願いします。またこの愚かしい苦学生の文章を、現代の一つの悲嘆の声として、受け止めていただければ幸甚です。

 末筆ながら貴社の更なる御発展と御繁栄を心からお祈り申し上げます。

                敬具 〉

 だが、『大東京出版』からは、相手にされなかった。彼は厳しさに耐えた。自分を相手にしてくれない社会を憎み、恨んだ。また大学を卒業する自分が恩返ししてくれると当てにしている家族に憎悪を抱いた。羊毛を手に入れようと、羊を育てて、羊の毛が伸びるのを待っているような自分の父母兄弟を嫌悪した。彼は1人になりたいと思った。しかし人間として命を絶たない限り、外界の強要を受け入れ、協調せねば生きられないのが現実だった。彼は生きることを苦しいと思った。苦しいと思いこそすれ、彼は何とか、自分のような愚鈍でも、生きたいと思った。折角、この世に生まれて来たのだから。


         〇

 生きるべきか死すべきか。ハムレットではないが、彼は生きることに苦悩した。彼は或る日、ふと死のうと思った。大学を卒業するのだから、今度は家族に恩返しせよと、期待されても、就職先が決まらず、絶望的状況だったから。だが1人で死にたくはなかった。そこで、彼は彼との結婚を反対されている『水之江建設』の社長令嬢、麗子と、『天城山心中』の真似事をしようと誘った。そして静岡の愛鷹山へ出かけることにした。2人は麗子の家のスポーツカーに乗って、都内から国道246号を使ってドライブ気分で、富士山方面に向かった。2人とも東京に書置きを残して来た。スポーツカーに乗った2人は神奈川県から足柄峠を越え、静岡県に入り、御殿場を経て、裾野近くで、スポーツカーを停め、町の旅館に一泊した。2人は翌日の朝早く、麓の旅館の庭先にスポーツカーを置いたまま、愛鷹山に向かった。彼は麗子と手をつなぎ、急な山道を登りながら、何故、こんなことになったのだろうかと考えた。一旦、田舎へ帰り、ゆっくりして、また東京に出直して来れば良いと、牧村教授や俺たちから言われたが、強情な彼は室生犀星の詩ではないが、故郷に帰る訳にはいかないと言い張った。そして麗子を。

彼には彼なりの魂胆があったに違いない。麗子と自分の心中を決行し、富める者と貧しき者との愛の姿として、民衆を驚かせ、2人の愛を多くの人たちの心の奥底に永遠に刻み付けてやろうと思ったのだろう。

彼は山道を登って行くうちに、ふと自分の命が欲しくなった。卑怯な考えだが、麗子だけを、あの世に送ることを考えた。2人は誰もいない岩場の上で睡眠薬を飲み、心中を試みた。抱き合ったまま2人は青く晴れ渡った天を仰いで薬を飲んで眠った。そこの岩場には2人によって白ペンキでこう書かれてあった。

《和道と麗子、ここに死す》

 2人の身体が山の麓に運ばれたのは、その日の午後だった。2人は愛鷹山の登山者に発見され、麓の病院に運ばれた。同日、午前、麗子の遺書が母親により発見され、『水之江建設』の者が、俺たちと連絡を取り合い、東京から静岡に駆け付けた。俺は前日、『長谷川荘』の管理人の婆さんから、彼が家賃を先払いして、何だか彼の様子がおかしいとの知らせを受けて、彼の遺書を発見し、水之江家と連絡を取った。それから田中と栗山に声をかけ、一目散で、2人との思い出の地に駆け付けたのだ。そして2人が病院に運ばれるのに遭遇した。麓の病院に運び込まれた2人の容態は、医師の診断の結果、死を免れたと、俺たちに報告された。彼の人生はどうなるのだろう。冷酷無情な話だが、俺は彼にとって死んでしまった方が良かったのではないかと思ったりした。彼は意識を取り戻してから、麗子が生きていることを知って驚いた。睡眠薬を、あんなに飲ませたのにと思った。警察の調べは簡単に済んだ。ところが、マスコミが黙っていなかった。有名建設会社の社長令嬢と貧乏学生との心中事件は新聞やテレビで報道された。このような事件を起こしたのに、不思議にも彼は退学にならなかった。『水之江建設』の水之江勇治社長が将来のある学生だから退学させないようにと大学に頼んだり、大学の教授会で牧村豊喜教授が彼の処分を軽減するよう要請したからに相違なかった。彼が考えた、心中事件はマスメディアにより、津々浦々に流れた。彼も彼女も週刊誌の記者に追われて、外へ出ることも困難になった。週刊誌は『アルバイト学生と箱入り娘の恋』、『二重構造の中での禁じられた恋』、『失敗した純愛のラストシーン』などという見出しで、2人の間に有った事、無かった事を、縷々、掲載した。2人は心中しそこねたことによって、スターになった。2人の事を知らない者は、世間にいないという程になってしまった。そんな事件を起こしてしまったことから、彼の就職は全く絶望的になってしまった。彼の両親や田舎の友人からは、『水之江建設』に雇ってもらえという手紙が何通も送られて来た。だが彼としては麗子の父に頼む訳には行かなかった。彼は就職を断念した。そうこうしているうちに、2人の事件は、有名野球選手の結婚話で何処かへ消えてしまった。その頃を見計らって牧村教授の娘、和歌子が彼の事を気の毒に思い、彼に近づいた。彼は和歌子に誘われ、外出するようになった。世間の人はもう、ほとんど彼のことを忘れていた。彼は世間の風聞なんて、あっという間に薄れ、人生同様、本当に短く、はかないものだと思うようになった。俺はそんな彼が、牧村教授の娘と付き合うようになり、嫉妬した。俺は彼に忠告した。

「今井。お前は今度、和歌子さんと心中する積りでいるのじゃあないだろうな」

 すると彼は笑って答えた。

「あんな真似は2度と繰り返さないよ」

 俺には、それが彼の本心か、疑った。彼にはまだ隠された部分があるように思えてならなかった。彼は自分のことより、毎日、泣き明かしているという麗子のことが心配で心配でならなかった。自殺などされては困る。そこで彼は和歌子を麗子との繋ぎ役に利用した。麗子は極度な人間嫌いになっていたが、明るい和歌子から彼の便りを聞きながら、懸命に生きようとした。


         〇

 彼の起こした不祥事により、彼も彼の家族も、彼の就職については、もう諦めていた。厳しい就職難の時代であったから、多くの学生たちが希望先に就職出来ず、未就職のまま卒業するといった社会状況だった。何処の企業も不景気に悩まされていて、新卒採用どころでは無かった。そんな中で、自分の命を捨てようなどと思っている彼のような人間を雇おうと考える企業など何処にも無かった。彼は東京での就職を諦め、一旦、田舎に帰って百姓の仕事に従事することを考えたりした。そうでなかったら、東京で今現在、アルバイトをしているビル掃除人の仕事をそのまま続けようかなどと思ったりした。その世界には、そこの世界での安楽があると思ったからだ。でも、彼は何とかして就職先を見つけようと粘った。11月の暖かな日に彼は代官山の浅丘琢磨弁護士の家に電話した。就職先のことを浅丘弁護士に紹介してもらおうと考えたからだ。彼は大学2年の夏、自転車でデパートの届け物を配達中に、車に跳ねられ、左腕手首骨折、左足負傷の大怪我をした時、『長谷川荘』の大家に紹介してもらい、『浅丘法律事務所』の浅丘琢磨弁護士に、お世話になったことがあり、その時から真紀夫人とも付き合いがあり、駄目もとで、就職先を紹介してもらおうと思いついたのだ。電話に出た真紀夫人は、彼の声を聞き、こう言った。

「まあ、そちらから電話して来るなんて珍しいわね。何かあったの?」

「はい。まだ就職先が決まっていないので、琢磨先生に何処か会社を紹介してもらおうと思いまして」

「まあ、そうなの。主人は今日、仕事で名古屋に出かけていて夜まで帰らないわ。私が代わりに話を聞いてあげるから、こちらにいらっしゃいな」

「よろしいのですか?」

「ええ、楽しみに待っているわ」

 そこで彼は真紀夫人の待つ、代官山の家に、歩いて行った。彼が浅丘家を訪ねると、真紀夫人は紅バラの咲く庭に出て、彼が現れるのを待っていた。彼が門扉を開けて庭内に入ると、彼女は庭の紅バラをハサミで切って、彼と一緒に玄関から家に入り、自分の部屋に彼を案内した。真紀夫人の部屋は六畳ほどであったが、床の間があり、綺麗に片付いていた。真紀夫人は床の間にあった花瓶に、今、採取して来たばかりの紅バラの花を付け加え、飾りながら言った。

「お久しぶりね。一時は、マスコミに追われ、私の寄り付けない程のスターだったけど、今では就職先も決まらず、落ちぶれちゃったみたいね」

「はい。情ないです。そこで琢磨先生にお縋りしたいと」

「自分の事を情ないなんて思っちゃあ駄目。貴男の才能を認め、貴男に興味を抱く会社がある筈よ。主人が帰ったら伝えておくわ」

「よろしくお願いします」

 彼は真紀夫人に深く頭を下げた。すると真紀夫人は笑みを浮かべて、彼に質問した。

「ところで、彼女、どうしているの?ほらっ、貴男と心中しようとした麗子さん」

「ああ、麗子ですか。彼女は母親に監視され、家事を手伝っていますよ。あの事があってから、僕たちはもう、相手の顔を見たいなんて思わなくなっちゃいました」

「本当かしら」

 真紀夫人は眉をひそめた。彼女は彼を疑うように彼をじっと見詰めた。彼は心を覗かれ慌てた。

「本当です」

「じゃあ、私に縋り付いてよ。縋り付きに来たのでしょう」

 彼女は嬉しそうに目を細め、彼を求めた。彼は彼女に誘われ、彼女の要求に応え、人妻との房事に耽った。真紀夫人の情欲は蛇のように執念深く、激しかった。真紀夫人は好きなダンス同様、男女の交合が好きだった。2人はダンスを楽しむように絡み合い、はしゃぎ回った。苦悩する日々の中で、彼は毒酒をあおるように人妻との悪しき快感にしびれた。


         〇

 無情にも、時は過ぎ、彼は就職先を見つけられないまま、大学を卒業した。俺たちと一緒に大学の卒業式に出席した後、彼は故郷に帰ることを余儀なくされた。そして故郷の山河を眺めながらの農作業の日常を開始した。俺は有名な食品会社に勤務が決まり、東京本社の営業課で働いた。田中良平は自動車会社の販売店に、栗山利之は保険会社に勤めた。残念なことに宮沢進一は、希望していた都内に就職先が見つからず、福島に帰った。俺は就職してから熱心に働き、将来、牧村教授の娘、和歌子と結婚したいと思っていた。その和歌子は相変わらず『みゆき族』の若い娘たちと繁華街をふらついていた。高田清子や中原百合江の情報は俺には入って来なかった。弁護士夫人の浅丘真紀は、彼を失い、情欲に溢れた肉体を持て余しているみたいだった。牧村教授は、まだ俺たちの母校で、『経済学』の教鞭を執っていて、娘のことなど余り気にかけていなかった。ところが、そんな或る日、思わぬことが起こった。『水之江建設』の水之江勇治社長の息子、水之江久雄常務が建設現場で落下して来た鉄骨によって死亡したのだ。桜の花が散つて若葉の季節になろうとする頃だった。久雄常務は救急車で病院へ搬送される途中で死亡した。詳しい事故原因を警察が調べているという。シェークスピアではないが、不幸は1人ではやって来ない。群れをなしてやって来る。週刊誌などは、この時とばかり、また人の不幸を取り上げ、書き立てた。『水之江建設』の御曹司の婚約者から、彼の妹の心中事件まで引きずり出して来て、あれやこれやと書き立てた。スポーツとは関係ないのに、スポーツ新聞までもが種々の記事を書いた。麗子の兄、久雄常務の死を哀悼するというより、別の事を記事にした。俺は週刊誌の見出しを見て、郷里で農作業に勤しむ今井和道の心境は、いかばかりかと想像した。週刊誌の見出しは種々だった。

・『水之江建設』の後継者は誰か?

・『水之江建設』に押し寄せる試練

・婚約者の衝撃と悲しみ

・婚約者が捧げる祈りとは

・母が語る愛しき息子たちの不幸

・彼らの愛は認められるのか?

・悲しみの後の幸運の輝き

 この週刊誌等の報道に『水之江建設』の水之江勇治社長は建設現場での安全対策等について頭を抱えるとともに、後継者についても検討せねばならなかった。週刊誌の多くは後継者は、麗子令嬢と心中事件を起こした今井和道であろうと書いていた。何故なら、麗子はいわゆる傷物であり、今も彼の事を思慕しているからだというのが根拠だった。水之江社長は、息子、久雄常務の葬儀を済ませてから、彼を東京に呼び出した。彼は執拗な水之江社長の要請に従い、上京した。水之江社長は白金の自宅に彼を招き、麗子と結婚してくれと彼に頼んだ。彼は初め黙っていたが、両親や俺たちに相談し、3日後に承諾した。俺たち学友は、崖っぷちから這い上がって来た彼の思いがけぬ明るい前途に期待し、皆で同窓会のようなものを開き、彼を激励した。麗子と婚約した彼の顔は週刊誌や新聞などに載った。それらの週刊誌や雑誌、新聞の売れ行きは、また驚く程、好評だった。彼と麗子は、再びスキャンダル・スターに戻っていた。彼はこの世の喜びや悲しみのはかなさと共に、世間の無責任さを実感した。人の世の無常、万物の無常を感じた。彼は人間なんて虫けらのようなものだと思った。灯りに集まる虫けらのようだと思った。彼はそんな外界の価値を認めようとはしなかった。


         〇

 恋愛スターに祭り上げられた麗子と彼の結婚式は、菊の花が咲き乱れる目黒川沿いの森の中のホテル『雅叙園』で行われた。その結婚式に俺たち仲間は牧村教授たちと招待され、列席した。この結婚式に、牧村教授の娘、和歌子も招待されていた。失意の麗子を希望的に明るくしてくれた和歌子への感謝の意味での招待という話だった。俺はこの結婚式に出席し、何時か俺も和歌子とこんな所で結婚式を挙げたいと思った。だが披露宴のメインテーブルで媒酌人や麗子と並んで座っている彼の表情は何故か冷たく、この世の終わりのような顔をしていた。報道陣は、相変わらず、ずうずうしく、2人の撮影をしようと会場周辺を蝿のように行き来していた。俺は宮沢、栗山、田中や和歌子と一緒のテーブルで、ニコニコしながら、2人の結婚式を楽しんだ。彼は純白のウエディングドレスの麗子を横に置きながら、俺たちの方ばかりを見ていた。というより、和歌子ばかりを見ていた。和歌子も時々、目の辺りを赤くして、涙を滲ませているみたいだった。そして彼が悲しそうな顔をすると、和歌子も悲しそうな顔をした。2人は無言のまま、何かを語り合っていた。2人は牧村家の庭で初めて会った時の事、喫茶店『ダリア』で相談事をした時の事、『長谷川荘』の彼の部屋で過ごした時の事などを思い出し、相手の瞳を見詰め合っていたようだ。俺は、そんな彼女や田中たちとグラスを交わし、目の前の披露宴の流れを笑って過ごした。多くの来賓や報道陣に祝福され、彼の結婚披露宴はお祭り騒ぎの雰囲気の中で、盛大に終わった。披露宴が終わってからの2人の新婚旅行は京都、伊勢方面に出かけることになっていた。俺は宮沢、栗山、田中や和歌子や麗子の女友達、柴田光枝たちと東京駅まで2人を見送りに行った。2人が新幹線の列車に乗る前に見送りの代表として、柴田光枝が麗子に、和歌子が彼に花束を贈った。彼は、その花束の一つを受け取る時、花束の陰で和歌子の左手に触れ、紙きれを渡した。和歌子はそれを気づかぬ振りをして、自分の手のひらの中に握り締め、皆と一緒に、行ってらっしゃいと手を振った。俺たち男は、万歳、万歳を連呼した。友人たちの歓喜の声に送られ、彼と麗子を乗せた新婚列車は東京駅を離れて行った。麗子はとても仕合せそうに、柴田光枝から受け取った花束を抱いて、幸福の笑みを浮かべて、手を振って見せた。


         〇

 牧村和歌子は、東京駅で俺や柴田光枝たちと別れた後、洗足の自宅に帰った。家に戻り着替えを済ませてから、父と一緒に、素晴らしい結婚式だったと、母、静子に語った。そして夕食を終えてから自室に閉じこもり、新婚旅行に向かった彼のことを思った。新幹線に乗る寸前の彼に花束を渡した時、彼から内緒で受け取った紙切れは一体、何なのかしら。和歌子は、その紙切れを財布から取り出して、確認した。その紙切れには、こんな事が書かれてあった。

〈和歌子。そんなに悲しい顔をするな。

 僕らは京都、奈良の観光をして、3日目の夜、伊勢のホテルに泊まる。そのホテルの住所と電話番号は裏面の通りだ。君はこの日に合わせて、鳥羽に行って、宿を見つけ、僕を待っていていてくれ。

誰よりも君を愛する僕が好きなら、僕を追って、鳥羽から伊勢のホテルに電話してくれ。

その時の君に、僕は自分の総てを賭ける。

                  不一 〉

 和歌子は、その手紙を読んで、一晩中、悩み、何時の間にか旅行支度をしていた。そして翌朝、学校へ行く振りをしたまま、鳥羽へ向かった。名古屋で一泊し、次の日の正午前、三重県の風景と出会った。伊勢平野の広々とした平地の風景は、秋の光に美しく広がり、素晴らしかった。午後には鳥羽に到着した。和歌子は水族館などを見てから、彼と落ち合う旅館を探した。幸い安楽島町という場所にある旅荘『真珠貝』を見つけることが出来た。そこで夕暮れを待ち、彼の宿泊するホテルに電話し、彼に、ここにいるとメモで伝言するよう、ホテルの窓口係に依頼した。彼は、その連絡を仲居から受けると、麗子が風呂に入っている隙に、ホテルを抜け出し、旅荘『真珠貝』に行った。2人は、『真珠貝』の部屋で合流し抱き合った。その後、2人は部屋を抜け出し、伊射波神社をお参りし、加布良古岬の松林で睡眠薬を飲んだ。その2人の死体が発見されたのは、翌朝だった。彼が何処へ出かけたのか一晩中、心配し続けていた麗子は2人の死を伊勢のホテルで知り、卒倒した。2人が何故、死んだのか全く理解出来ない事だった。旅荘『真珠貝』の部屋のテーブルの上には彼の置手紙が1通、残されていた。

〈友よ、さようなら。

僕と和歌子の死体を発見して、誰もが心中だと思うだろう。しかし、これは心中では無い。僕が和歌子をそそのかし、死なせたのだ。考えてみると、僕たちの人生は本当に短かった。実に短かった。それでも僕は自分の人生を悲しみはしない。むしろ、短くて済んだと喜んでいる。人は僕が和歌子を道連れにしたことを、悪い事だと言うだろうが、世間では、こんな悪質なことが、毎日、繰り返されているのだ。そうではないだろうか。人間を人間として扱わないことは、僕が和歌子を大切な一つの命として扱わなかったのと同じではないだろうか。僕は就職試験の時、人間として扱ってもらえなかった。学業成績の悪い、低レベルの機能をも果しえない機械の不良部品のように扱われた。社会は書類1枚で僕を不良部品と決めつけていた。僕はそれが悔しかったのだ。だから、俺は人間を部品のようにしか考えない連中に、機械部品的な人間の扱いが、どんなに残酷であるかを知らせる為に、和歌子を騙し、和歌子を死なせた。和歌子は僕の中に愛があると信じて僕と一緒に薬を飲んでくれた。和歌子は見かけ以上に純真で愛すべき女だった。僕は自分を本当に罪深き冷酷な男だと思っている。しかし、和歌子を自分の所持品として、機械部品として、付属部品として取扱って見せるには、この方法しか無かったのだ。こんな方法が日本社会では大手を振って闊歩しているのだ。また麗子との結婚についても、社会は《彼は得をした》という。僕は人間の所有する金銭や家柄で、人の幸福の尺度を決めるのが大嫌いだ。だから愛する麗子を残して自殺した。一度、壊れたガラスは貼り付けても元には戻らない。麗子は割れたままの方が美しい。しかし、こんな社会に対する逆上的死は何の為にもならないかも知れない。人間は習慣が好きだからだ。兎に角、僕の死が自殺であることは確かである。牧村先生には大切なお嬢さんを道連れにしてしまった事、お許し願いたい。藤井には可愛い和歌子を奪ってしまい、本当に済まないと思っている。許して欲しい。就職試験で人間として扱ってもらえなかった僕の社会への逆上を、どうか許して欲しい。君は1+2=3と答えられる人間だから、僕と違って、直ぐ分かってくれると思う。本当に許してくれ。今、僕は本当に良い気持ちだ。ここから見える青い海に沈んでいるアコヤの二枚貝が、中の真珠を使って口を開き、誇らしく太陽の光を反射させているように爽快な気持ちだ。

さようなら、友よ。楽しい人生だった。

             今井 和道  〉

 俺に宛てた手紙らしかった。事件を知って集まった記者たちは、素晴らしい記事になるなどと、松林の中を駆け回った。警察から連絡を受けて加布良古岬に駆け付けた麗子は、ただ、ぼんやりと海を見詰め続けた。彼女には彼の心中が何が何だか分からなかった。鳥羽の海にはカモメが舞っていた。俺は事件を知つて、机を叩いて言った。

「お前のやったことは、太宰治の真似事だ。友人失格だ!」

 俺は、彼の死に対して、それ以上、何も言うことが出来なかった。


       《 友人失挌 》終わり



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