第三十五話「初めての感情」
オロに取ってそれは初めての感情だった。
だから、その感情が何なのか理解できない日々が続いた。
まるで麻薬のように依存性が強く、彼女に会いたいという気持ち。
感情を殺すことを得意としてきたオロであっても、その感情を殺すのは困難であった。
「兄様……大丈夫……?」
近くに宿を取って数日、ステラとオロの二人は室内で口外して問題のない単語を用いて会話をしていた。
「大丈夫……っと気軽に返事が出来れば良いんですが、なかなかどうしても苦しさが湧いてきてしまいますね」
ベッドで横たわるオロはかなり焦燥しているようだった。
「何か呪いでもかかったのかなぁ……」
心配をするステラ、それはある意味では正解でもあった。
世界に選ばれた運命の男女、その二人が出会ったのであればそれはもう世界が認めた運命の赤い糸で結ばれた出会いでもあるが、見方を変えればそれは断ち切ることの出来ない赤い糸で結ばれた呪いでもある。
本来その愛する気持ちは押し込めるような感情ではない。愛する気持ちを抑えることは世界に反抗する行為である。世界に反抗する罰によって身体に異常をきたし、苦しみから逃れられなくなる。
無意識とはいえ、オロが精神的にレイディアントから離れようとしている行為はまさに世界への反抗だった。
「とにかく、僕はもう一度綺羅星に接近してみるよ、なにかわかるかもしれない」
「気をつけてね……。兄様になにかあったらワタシ……」
「大丈夫だよステラ。父様が僕たちを分かつまで、僕たち三人は兄妹だ。心配をかけるようなことはしないさ……」
そういうと、オロはステラを優しくギュッと抱きしめ、いつものトレンチコートを羽織って部屋から出ていった。
先日訪れたカフェの同じ席、レイディアント=ラモーヌはそこにいた。
「また……。お邪魔しても宜しいですか」
「もちろん、毎日お待ちしておりました」
「毎日……。それは申し訳ない……」
オロはレイディアントの異常なまでの心の距離感に違和感を覚えた。それはまるで既に夫婦のような間柄に思えるくらいだった。
「毎日待っていただいたということは、何かお話でも……? 今日はあまり宝飾類は持っていないのでご満足いただけるものがあるかどうか……」
少しふらつきながらレイディアントの対面の席に座り、胸元から宝飾類を取り出すオロ。もはや目眩のような感覚に襲われつつある。
「違いますわ! あ な た にお会いしたかったの! オロ=ヴェローチェさん!!」
レイディアントがオロの両手をギュッと握る。
「あぁ! やっぱり貴方は私の運命の人! こんなところで出会うことが出来たなんて!!」
「運命……の人……?」
その時までオロは気づかなかった、この吐き気のような感情が『愛情』というものであることを。
孤児として生まれ、バゴに拾われ、暗殺術を学び、誰に対しても心を許さず、次期当主としての候補者として挙げられるまでになり、同じ候補者のステラとカルロと共に過ごした。その人生に『愛』などなかった。
「私、逃げているんです! 私を養子にした家から! 見ず知らずの男性と結婚して子を産み、愛情を持たぬ関係になることから!」
実に下らない、その程度のことのために大金を出して僕達のような裏の仕事の人間に連れ戻す依頼をしてきたのか……。
「今はまだ見逃されています……。でもいずれは連れ戻されてしまうでしょう……!」
下らない下らない……! この人をそんな下らないことのために連れて行くなんて……!
……この人を連れて行くのが下らない……?
さっきまで考えていたことと全く逆なことを一瞬で……?
何を言っているんだ僕は。どうして僕は一瞬にしてこの人に入れ込むようになった?
こんな会って二度目の相手に愛情を感じているとでも言うのか?
ステラとカルロと過ごした時間は確かに楽しかった。もしこれが愛情だと言うのなら、あの時間は愛情ではないというのか。
「…………ましょう」
「え? 今何と?」
レイディアントはキョトンとした顔をしている。
「……逃げましょう、こんな下らない場所から」
僕は今何を言っているんだ。
「僕は元々あなたを親御さんの元に送り届けるために派遣された者なんです」
「えっ!?」
「でも、やめました。逃げましょう。共に何者にも捕らわれず自由に空を飛ぶ鳥のよう」
僕は頭がおかしくなってしまったらしい。
でも僕は今までに味わったことのないような高揚感で一杯だった。
「明日、またこの場所でお会いしましょう。そして、共に羽ばたきましょう」
きっと明日、僕は自由になる。




