第二十四話「現実逃避」
世界中で右手を挙げていた人たちの手はもう降りていた。
つまり、情報はすべて収集し終わり、あとは魔女ユキナのところへ集約されるのを待つだけの段階なのだろう。人々の記憶から自分たちが行っていたことの記憶は綺麗さっぱり消え去り元の生活に戻る。それがユキナの洗脳能力だ。
ステラには早速ニューヨークへすぐに飛んで貰って、ルーラシードの詳細な居場所や風貌などを確認してもらうこととした。ステラは若干幼稚な部分はあるが、空港の手続きなど一度教えたことは割りと卒なくこなす。幼稚なのは決して物覚えが悪いのではなく、ただモノを知らないからなのと、少し怖がりで時々言うことを聞かずに子供っぽい性格だからバカっぽく見えてしまうだけだ。見えてしまうだけ、見えてしまうだけ。
上海からニューヨークまでおよそ十五時間。これはステラだけの話ではない、蘭翻さんを連れてニューヨークへ行くまでにもかかる時間でもある。
逆に東京から上海まではおよそ三時間で来ることができる。明日、私達の情報が魔女ユキナに伝われば、ユキナは空港から三時間で上海まで到着することになる。これが私達のタイムリミットだ。この間に蘭翻さんをニューヨーク行きの便に乗せなければならない。
乗せるだけではない、ユキナにレイラフォードがいないという情報が渡るまでにニューヨークへ到着出来なければ私達の負けだ。洗脳する能力を持つユキナは空港を封鎖することも出来るし、何なら飛行機を墜落させることだってできる。
ここからは時間との戦いだ。
ステラを除く私達四人は蘭翻さんの働く会社の前まで来ていた。今の時刻は午前十時。
十階建てくらいだろうか、かなり大きいビルで周りにも更に大きいビルが並んでいる。上海の中でも商業が盛んな地域のようだ。
私達四人は早速ビルに入り、受付へ向かった。
「すみません、こちらの会社に勤める黎蘭翻さんにお取次ぎをお願いしたいです。事前にアポイントは取っておりませんが『右手を挙げていた人たちがいたことで伺いたいことがある』とお伝えください」
受付の女性の方が連絡を取ってくれている。
レイラフォードである蘭翻さんは能力に対する抵抗力がある。蘭翻さんはユキナの洗脳が効かないから、私達と同様に右手を挙げる人たちを目撃している。あの異常な光景を見て、そしてそれを誰も覚えていないという事実に少なからず戸惑うだろう。
私達はその答えを持っている。それを伝えればきっと会ってくれるはずだ。
「申し訳ございません。黎につきましては本日早退いたしまして、不在とのことです」
出勤して早々に仕事を休んだか……。無理もないか、異常な光景を見た上に自分が見た光景を誰も覚えていないという状況なのだ、自分の頭がおかしくなったとショックを受けてしまったのかもしれない。
「ありがとうございます。みんな行くわよ」
「行くってどこによ!?」
「蘭翻さんの自宅よ、探偵の調査で自宅の場所は把握しているわ。会社からも近いし、すぐに向かいましょ」
「ちゃんと在宅してて、出てくれるといいですが……」
「その辺りは時間もないし、当人の命もかかってるんだから当たって砕けろの精神ッスかね」
「そうね、とにかく今は動けるだけ動きましょ」
蘭翻さんの自宅は会社から、徒歩でおよそ十分の距離。時刻は午前十時半だ。
十階建ての新しいマンションがあり、情報ではそこの三階に住んでいるそうだ。
私達四人はマンションのエントランスへ行き、部屋番号を入力して呼び出しチャイムを鳴らした。
〈ピンポーン……〉
「出てくれると良いけど……」
全員が固唾を呑んで見守った。
十秒は経っただろうか、遥かに長い時間を生きて時間間隔が狂ってしまっているにも関わらず、恐ろしく長い時間に感じてしまう。
『はい……』
インターフォン越しに声が聞こえてきた。若く落ち着いた女性の声だった。
「黎さんでよろしいでしょうか、初めまして私はレイラ=フォードというものです」
『はぁ……?』
「単刀直入に伺います、数時間前にあなた以外の方が全員右手を挙げていたことについてお話したいことがあります」
『……っ!?』
「世界中の人々が右手を挙げていましたが、私達とあなたは挙げていません。どうしてかということをお伝えしたいのと、あなたに迫っている脅威についてお伝えしたく参りました」
『……なるほど、今のところ全く信用はできていませんけど、気になるのでお話しくらいは伺います』
「ありがとうございます。私含め四名で伺いますのでよろしくお願いします」
通話が終了し、しばらくするとマンションの入り口が開き、無言ながらも中に入るよう促された。
エレベーターに乗り三階のとある部屋の前に向かうと、既に扉が半開きになっており、中から黒い長髪の女性がこちらを見ているのが伺えた。
「……貴女が先程の?」
「改めてご挨拶いたします。レイラ=フォードと申します。こちらは同行者たちです」
ラヴェル、アスカ、大哉を紹介し、室内へ案内された。
室内は非常に片付いていて無駄なものが全くない。清潔、簡素、質素、全てが整えられた完璧と呼ぶのが相応しい部屋だった。
「ごめんなさい、椅子が二脚しかないので……」
「構いません。立ってお話を伺いますので」
蘭翻さんが少し考えているうちにこちらから申し出た。ここに座るということは喋らなければならないということになるわけで、必然的に私が座ることになるのだろう。三人には悪いけど喋らない代わりに後ろに立っていて貰おう。
「圧迫感というか威圧感というか、私の後ろに三人も立っていると圧力があって申し訳ないです」
私と蘭翻さんがテーブル越しに向かい合って椅子に座ると、私自身も背後に圧迫感があって無駄に緊張してしまった。
「レイラさん、私達お外で待っていましょうか……?」
「構いませんよ。折角ですから皆さんからお話を伺いたいですし」
ラヴェルの問いに蘭翻さんが落ち着いた声で話す。
いきなり押しかけて来た相手にこれだけ落ち着いて丁寧な対応をしてくれるとは、大人の余裕さを感じざるを得ない。
――過ごした時間だけなら私のほうが何十倍も上だというのに私は幼いままだ……。
「それで、右手を挙げていた件についてですが――」
ユキナについて、サイコリライトシステムという超能力について、自らの命が狙われていることについて、そしてこれら世界の理に関わることを他人に話すと命を失ってしまうことを伝えた。
元々飲む必要はないが、出された烏龍茶に手を付けることもなく一方的に喋り続けた。
ただし、並行世界やレイラフォードとルーラシードという話はしていない、ただ能力が効かなかった人間を殺しにくるという説明にしてある。万が一話を漏らしたら死んでしまうという心配があるから余計なことを伝えないという意味もあるし、自分が特別な人間だと言われて喜ぶようなタイプではなさそうに感じたからだ。嘘は言っていない。
「……正直な所、にわかには信じがたい話です。確かに概ね辻褄は合いますし、私の頭がおかしくなったのではないという点については良いですが、話が突飛すぎて非現実的です。何よりなぜ私が殺されなければならないのか納得がいきません。それにそれに合わせて都合よく現れたあなた達も怪しく思えてきました」
「蘭翻さんはユキナの能力に対する抵抗力があるようです。ユキナという女は自らに従わない人間を殺します。私もアイツに殺される対象の一人です。そして私や後ろにいる三人にも超能力と呼ばれる能力があり、その能力がある故にアイツの洗脳にかかることはありませんでした」
「そもそもその超能力っていうのも……。いや、確かに全員が右手を挙げるという光景は見ましたが、あまりに異常な光景で気絶して早退してしまったので夢でも見ていたのではないのかと、あまりにも現実味がなくて……」
「そういうことなら、ラヴェル」
「はい。そーれー」
ラヴェルが微笑みながら指をくるくると回すと、私の前に置かれていた烏龍茶がコップからふわふわと浮いて蘭翻さんの目の前で水球となった。
「それっ」
ラヴェルが更に指を回すと、水球は紐のように細く伸び始め、四角や三角やハートの形を作り、紐状のまま私の前のコップに帰ってきた。
「どうでしょうか、これが超能力です。魔法と呼んだりもしますが」
流石に蘭翻さんも呆気にとられている様子だった。それもそうだ、ついさっき右手を挙げる集団を目撃して今度はお茶が宙を舞ったんだ。
「……流石に信じざるを得ないというか。いや、でもそんなことが現実に存在するなんて……。だけど、確かに目の当たりにはしたけど……」
蘭翻さんが口元に手を当てて一人でブツブツと呟いている。
非常に現実主義な方なのだろう、自分の見たものでも不可思議なものは信じられないという堅物な性格で、自分が見たものの方を都合のよい様に改変してしまうのかもしれない。右手を挙げる集団を見て気絶してしまったのも、頭で処理しきれずにブレーカーが落ちてしまったのだろう。
「いや……でも……」
何とか頭の中で目の前で起こった現象を噛み砕こうとしている様子が伺える。
どう噛み砕こうとしても目の前で起こったとおりにしか噛み砕けないはずなのだが……。
「……チッ」
後ろからアスカの舌打ちが聞こえてきた。
「……じれったいわね」
明らかに苛立っているのが伺える。余計なことはしないでほしいのだが……。短気なのがアスカの悪いところだけど、流石にね……。
「…………早くしなさいよ!!」
アスカの大声が響いたのと同時に最終衝撃が考え込んで俯き気味だった蘭翻さんの後頭部に打ち込まれて、蘭翻さんが顔面をテーブルに強打した。
うめき声すら上げることなく机に突っ伏し、全く動かなくなってしまった。
「ら、蘭翻さん!? アスカ! 何やってんの!!」
「じれったいのよ! 自分の命が狙われてて時間がないってのにあーだこーだブツクサ言っててさぁ。気絶させたからこのまま空港ってところまで連れて行ったほうが早いでしょ!」
「そんな野蛮なやり方……。あぁ! もう! ここまでやっちゃったら今から起きるのを待っていても反感を買うだけで、全く信用されなくなるよりはマシか……。はぁ……」
呼吸こそしているものの完全に全身が弛緩している。そもそもこの状態で飛行機に乗れるのだろうか……?
なんとかなることを祈って空港に向かってもらうしかない……。




