2日目-D
「あーちゃん、あーちゃん起きて朝だよ」
体を揺さぶられ、朝日と寝苦しさに目を覚ませば美味しそうな匂いが鼻をつつく。
「あれ……え、朝?」
「だってあーちゃん夜になっても全然起きてくれないし」
「…………、」
時計を見れば六時半で、農家にとっては早い時間ではないが都会暮らしにはこれから起き始めようかという時間だ。台所の方からは朝ごはんの準備だろう、せわしなく動く音がする。
襖の向こうではおじさんがすでに座って新聞を広げ、その隣ではじいさんがテレビに目を向けていた。
「んぅーーーよく寝た」
「もー寝すぎだよ」
「つっても休みの日って昼過ぎまで寝てるし」
「あーちゃん、早起きしよ?」
「何もない日はゆっくりしたいの」
「だらけすぎもよくないよ」
続々とおかずが並べられていくちゃぶ台を見て、匂いにも誘われ大きく伸びをすると食卓に向かう。
ふと違和感を感じた。何もおかしなものはない、でも嫌な感じがした。
何だろうかと視線を走らせるとこの家の住人ではない者が。
「なんであんたがいんの?」
「おばさんに捕まった」
氷の浮かんだ味噌汁の鍋を持ってきたのは、皆川だった。八條の家になぜ部外者居るのか疑問に思うが、周りが居て当然のようにしているものだからあまり騒げない。しかし嫌な感じはこいつだけじゃない。
「捕まったって、なんで」
「川縁で鮎串焼きにしてたら……」
すっと視線をおばさんの方へ向け、
「引っ張られた、ここに」
「はぁ?」
なんで? そんなことを思えばおばさんが鮎の開きをお盆にのせて持ってくる。
「皆川君たらねぇ一人で鮎の塩焼きと開きにね、もうごちそうばっかり食べようとして」
「釣る人いないし取る人いないし取りやすいで取り放題な食料がそれなだけで……」
「そりゃあこのへんの人はあんまり食べないけどー」
「だいたい火炉を使わせてもらうだけの約束で、ご飯まではもらうつもりは」
「いいから食べていきなさい。この夏場に倒れたら大変なんだから」
「……んで、なんで他のもんも作らないかんのか」
鍋を置いて台所に戻ると、美味しそうな色に焼けたいろんな川魚を皿に移して、今度はフライパン片手に卵焼きを作り始める。
「助かるわあ料理も洗濯もやってくれる人って」
「むしろやらされた感がすごいんですがね」
若干照れているような声なのは気のせいじゃない。
「あーちゃん、はいどうぞ」
「……あいつが作ったの、これ」
「んーとね、冷や汁と煮物と南蛮漬けは皆川君だね。いつもより豪華だよー」
「男の手料理ってラーメンとかチャーハンとかカレーみたいな簡単なもんばっかで、後はやりっぱなイメージなんだけど」
「洗ってるよ、皆川君」
目を向ければもう一品作りながらフライパンやボウルを洗っていた。終わればすぐに跳ねた油を拭いて軽く片付けてタマネギを切り始めて……。
「出来る人?」
「さ、さあ?」
おばさんがご飯をよそってみんなの前に並べられ、ちょうどできあがった二品も食卓に置かれた。
タマネギを薄く切って水にさらし、鰹節をのせて白出汁をさっとかけたもの。こんにゃくと人参を出汁で煮て、マヨネーズ和えにしてごまをのせたもの。
「もう一皿あっちにあるけど、あれは」
「グラタンとピザ、昼に食べる分」
「焼け、すぐに焼け!」
「火炉が無事だったら、な」
「……っ」
「舌打ちしないのあーちゃん」
煮物や南蛮漬けなど普段あまり箸を伸ばさないものもあるが、食べてみたいものもある。しかし漬け物や佃煮などはここ最近食べた覚えすらない。魚も骨を取るのが面倒で倦厭している。
「ツグミ、鮎ってどうやって食べんのが正解」
「このまま齧り付く」
「骨は」
「あんまり気にしない」
と、アトリが鮎に手を着け始めた反対側。
「皆川君。火炉に火を入れたようだけど、炭焼きでもするのかい」
「ちょっと作りたいモノがあって、高火力が必要なもので」
おじさんを見る目は、じゃっかん睨むような、警戒した目だ。
「ほお、なにを作るんだい」
「秘密です」
「いいじゃないか、おじさんに教えてごらん。あの火炉のクセは分かってるから、手伝えるよ」
「結構です」
「つれないなあ」
皆川は振られる話を躱しながら食事を進めていた。どうにも人と関わるのが嫌、というよりもおじさんを限定して回避しているような気がする。
わいわいがやがやとなるかと思ったが、そうもならずささっと朝食が終わるとそれぞれが動き始める。
おばさんは洗い物を始め、他は車に乗って田や畑に繰り出していく。
「あ、皆川君。今日の夜は」
ツグミが訪ねると、皆川はアトリをチラッと見てから返事をした。
「どうなるかな。誰かの行動次第でいろんな方向に転がるだろうよ」
じゃあな、と手を振って出て行く。その足取りはついてくるなら来いよと言いたげに、少し遅めだった。
「あいつどこに行くの」
「ついて行ってみる?」
やることないし暇だし、荷物も届かないし。
「……なんもないし、行く」
スマホを見れば見事に圏外で、通知が一件もないところを見るに昨日から全然繋がっていないようだ。使えない暇つぶし道具は、オフラインになると地図も見れない。だけどカメラはしっかり使える。弱みでも握って課題を丸写しさせるくらいの脅しでも掛けようかと。
「じゃあちょっと準備してくる」
「アタシは先行くよ」
見失ったらそれまでだ。すぐに靴を履いて早歩きで道に出る。まだ皆川の背中は見えるが、ツグミを待っていれば見失ってしまう。
距離を取りつつもすぐに隠れられるように追いかけていく。漫画で見た見よう見まねだが、気付かれてはいない様子だ。
しばらく道沿いに歩いて追尾していると、急に皆川が雑草が茂る田んぼに飛び込んだ。一瞬気付かれたかと思ったが、すぐに黒いジャージの女がキョロキョロしながら通り過ぎそっと皆川が顔を覗かせていなくなったのを確認すると出て来る。
何かのネタに使えないかと写真は撮った。シャッター音のしない高速起動カメラアプリは役に立つ。
「何してんだ八條」
「にゃっ!」
突然の事にビクッとして振り向けば中塚がいた。双眼鏡を首から提げて、草まみれだ。
「もしかしてあいつの尾行か。俺もやってる途中なんだけど、弱み握らね?」
「アタシとおんなじ考えとか、きもいわー近寄んな」
「……あのな、真面目な話あいつに近づかねえ方がいい。やべえよあいつ」
「朝っぱらから起きたら家に居て朝飯作って近づいたら嫌な感じがしたんだけど」
「なんでお前んとこにあいつがいんだよ」
「知らない、起きたら居たんだから」
「そうかよ……っていねえ!」
「あんたのせいで見失ったじゃん!」
「いやいやここは一本道だ。走れば大丈夫」
ダァッと走り、その後ろにアトリも続く。走ること自体は苦手じゃない、人が歩くために舗装された道ならなおさらだ。ほんの数分ほど走ると、ふと記憶が浮かび上がる。この先に橋がある、昔よく遊んだ川がある。
あそこで誰か死んでいた、あそこで自分が殺された、あそこで死んでいたのは――
「やめろ!」
それを見た瞬間、中塚が叫ぶ。
しかしそれは無慈悲に飛び回った。装飾の施された真っ白な二つの剣。皆川の操る無数の剣が槍を構える女を襲う。
一瞬、瞬きのその間に橋のあちこちに引っかき傷に似た痕を付け、女の身体に多数の斬撃を叩き込む。
おかしな光景だった。パトカーがとまり結構な人数の警察官がまるで時間を止められたように突っ立って、身体にノイズを走らせている。なのに剣は女だけに当たり、警察官を一切無視して斬りつけるのだ。
「やめ、て……殺さないで」
「お前がそれを言う権利はない。殺そうとした以上、自分がやられて文句言うのはおかしいだろ」
腕を振るう。併せて動いた剣が首を刎ねる。
ごろんと落ちた首を剣に引っかけ、こちらに投げてくる。
「ひっ」
「皆川!」
中塚がどこからともなく取り出した歪な剣を手に斬りかかるが、見えない糸に絡め取られ体中にノイズが走って止まる。
「さあ、一つ変わったぞ。どうする? 誰かさんの行動次第で事象の見え方は変わる、どこから見るのか、関わらなかったらどうなっていたか、辿り着く場所が同じでもどうやって辿り着いたのかでそれがどうやって今になっているのか分かるだろ。どっちが嘘をついていたのか、どっちがお前にとっての悪なのか、判断するにはいいと思わないか? 邪魔なやつを確実に仕留めるために誘い込んだ、それが答えなら」
どうする? 言わなかったが、表情はそう言っていた。
「皆川、一ついい」
「答えられる範囲なら」
「あの黒い影、ホロウコピーってあんたの仕業?」
聞いただけで辺り一面に黒い霧が吹き出し、人の形を作る。
「……そっか」
「好きに判断しろ。〝スティーラー〟の能力は――」
ゴヅと鈍い音がした。何かと見回すと、皆川が真上を見る。
「スレッジハンマー?」
見えない糸で作られた壁の上に立ち、足に糸が絡みつきながらもフルスイングで叩き落とす一撃は糸の壁を破壊するには十分だ。すぐにヒビが広がり、割砕いた勢いそのままに振りかぶって、
「バカか!」
「死なば諸共」
躱したその足元、橋を一撃で崩落させもろとも瓦礫の中に消える。すさまじい崩落の音に続いて爆発が起こり火が上がる。巻き添えを食らった警察官達は何が起こったのかを知ることもなく死んだだろう。
解放されたばかりの中塚も何が起きたのかを認識するまで少しの時間を要した。
「は、八條、いま何が落ちた?」
「なんか、でっかいハンマー持った人が……」
「ハンマー? ハンマー使うのは……確か居たけど名前も知らねえな」
いつの間にか足元に転がっていたはずの女の首が無くなっていたが、そんな事に気付くこともなく崩落現場を覗き込む。吹き上げる熱風と刺激臭にすぐ引き下がった。
「ひでぇ」
濛々と昇る黒煙から逃げるように、二人揃って離れて行く。空気を吸うだけで喉が焼け付くほどの場所に留まる理由はないのだ。
森のトンネルを早足に抜けるとそこそこの人数が集まっていた。いずれもこの地域の住人ではない、アトリと同じくらいの年、学生くらいだろう。さっと見て知っている顔がちらほら見受けられるが、誰もが様々な凶器を手にしている。
「中塚、仕留めたか」
籠手をつけた男が言いながら前に出てくる。
「分からねえ。あのハンマー使いが橋ごとぶっ潰してパトカー爆発させたから……」
振り返って空に昇る煙を見る。黒の中に赤い火の粉が混じって、夏の空を汚していく。このぶんだとすぐにでも消防団が来るだろう。
「確認はしていないと」
「出来ねえよ、あんななってたらたぶん死んでるだろ」
「だといいが。お前ら、取りあえず結界で囲んで証拠隠滅」
数人を連れ森のトンネルへと走って行く。その後ろ姿にアトリは嫌な感じがした、ちょっと暗いかなと思うトンネルがやけに暗く見えた。それは煙の影だけでなく、薄らと漂う黒い霧のような……。
「とりあえずは大事になる前に片付きそう……だ。ってことで終わりか」
「俺らは構わないけどよその連中が手伝いに来いって言うだろ、嫌だよ夏休みがクソ暑い中で動き回るだけで終わるとか」
「だったら地域制圧とか言って遊んでればいいじゃん」
「それもそうか」
口々に言う彼ら彼女らはそれぞれが散っていく。不気味、理解できない、訳の分からない集団、それが素直な感想だった。ぱっと見普通の男女が常識的に考えてあり得ない凶器を持ち歩いて、その誰もがそれが普通であるように振る舞っている。まるでアトリ一人が異常者のようにも思える。
「中塚、あいつら何」
「ホロウコピーって知ってるか? 黒い影みたいなやつなんだけど」
「知ってる」
「そいつらを倒すために能力を貰ったやつらだ」
「へぇ」
「まあ、同じ学校のやつ以外とはもう会うことはないと思うぞ? ここの発生源は皆川だから、後始末したらみんなどこか行くし。んじゃ、俺も後始末の手伝いして来るし、八條は日常に帰れ。今日のことは悪い夢とでも思った方がいい」
中塚も森のトンネルへと消えていく。
暗い。
闇が深い。
さっきまで見えていたはずのトンネルの中は、気味が悪いと感じるほどに暗く、静かで。
うるさいセミの大合唱も消え、不気味な静けさが包み込む。
吹き抜ける風が木々を揺らす音が静寂を打ち破るが、嫌な寒気がしてその場から逃げるように離れる。家に向かっていけばツグミと会えるはずと。
ほんのちょっと、引き返しただけでツグミの姿が見えた。麦わら帽子にショルダーバッグを肩に掛けて、こっちに向かってくる。
「あーちゃん置いて行くなんてひどい!」
「ごめんごめん」
「もー」
見上げてくるツグミは小動物じみたかわいらしさがあるが、ちっこいなんて言ったら怒られそうだ。
「まあいっか、でもあーちゃんもいきなり川に行きたいって、どして?」
「はぁっ? 皆川を追いかけようって」
「皆川? 誰?」
「何言ってんの」
さっき盗撮した写真でも見せてやろうと、アプリで開けば皆川は映っていなかった。ただ何もない風景だけだ。
「あーちゃん?」
「いや……うん、なんでもない」
その後、二人で橋まで行くと何事もなかったかのように元通りで、散歩をして家に帰った。朝には確かに居たのだからと、おじさんやおばさんに皆川のことを訪ねるが誰も覚えていない。
三日目、四日目と退屈な日を過ごし、届いた荷物の中から課題を引っ張り出して――退屈な夏休みが終わった。