3日目-C
朝日が昇るよりも早く、まだ暗い時間。農家が動き出すにはそろそろという頃だろうか、アトリは飛び起きた。
「……うぅっ、頭痛い」
悪夢は、鎌を持ったツグミに襲われて首を落とされたところで終わっている。背筋が凍るような妙に怖い雰囲気を纏ったツグミだった。
落ち着いてみれば汗びっしょりだということに気付く。よほど悪夢にうなされていたか、肌掛けを蹴り飛ばして服も脱げかけている。
息が整ってもまだ心臓はドクンドクンと鼓動が分かるほどに動いている。
床で寝ているツグミを見れば、嫌な胸騒ぎがする。このままここにいてはダメだと、早く逃げろと、誰に言われてでもなく頭の中から響いてくる。
〝ツグミに気を付けろ〟〝触れたらアウトだ〟〝あいつさえ殺せば全部終わる〟
「おじさんが……そうだ、皆川が」
山に……炭焼場にいる。見た覚えのない光景が頭の中に溢れてきて、このまま何もしなければただ終わりを待つだけだと、ここで死ぬ、強い既視感がする。
そっと、ツグミを起こさないように部屋から抜け出すと、床を軋ませないようにゆっくりと動いて玄関から出る。やけに月の光が明るく感じられ、風に乗ってかすかな煙のにおいがした。
炎が覆い尽くす、浄火が始まる。
その光景は頭の中にある。すべてが終わる前に、今度は受け身じゃない、こっちから動いて変えないとどうしようもない。とにかく、皆川か中塚のどっちかに会わなければ。
昨日までの自分じゃないことは分かっている。違和感がないことに疑問を抱きながら目をそらしていることは分かっている。なにも確証がなく自分の妄想かも知れないと思っていても起こると知っているから今を捨てられる。
まるで操り人形のように、自分の意思とは違う何かが入ってきている感じも分かっていて、受け入れている。
どこに行ったら良いのかは知っている。
車庫を見れば車がなく、玄関におじさんの靴がなかったのも見ている。おじさんがどうなるのか……炭焼場で殺された? 違う、それより前にもう……。
あの場所は知っている、でもそこまでの道が分からない。適当に山を登る? ダメだ、車で上がっていけるのだから道はある。どこの道だ? 川をずっと辿って山に入って……分からない、あの時点で方角は分からなかった。
だがここで止まっていてはどうにもならないと、道に向かう。
右に行くか左に行くか、考えながら歩いていると見覚えのある運動部が道具を入れるような長いケースを肩に掛けた誰かが走って行った。
「皆川?」
その誰かに気付いたときにはもう追いかけていた。全力で走って離される、明らかに人の体力じゃない。二十秒もしないうちに息が切れ、見失った。
アスリートでも全力で一分はあり得ない、なのにあいつはずっと同じペースで闇に消えていった。
「なんなの……」
その場に崩れ落ちて、汗を拭って呼吸を整える。準備運動も無しに全力で走れば身体の負担も大きい。
「お前はこんなところで何してる」
「はっ……皆川?」
月明かりの下でもはっきりと分かる、血まみれだ。
「おじさんの……血」
「……なぜそう思う」
「車がなかった。それにおじさん、炭焼場に来たときには影になってたし、あそこであんたと会ってるはずだから」
「なんでそれを知っている」
首筋に冷たいものがあたった。月光を反射するそれは白い剣だ。豪華な装飾の施された、飾り物のようなそれは、なんでも斬ってしまうと錯覚させるほどに鋭く白く輝いている。
「分からない。見たことはないのに見たような感じがするから」
「事象の追跡か、お前の力は」
「知らない。嫌でもあんたみたいなのと一緒にいたらなんか出るんでしょ」
「あぁ、出るさ」
ふと皆川が空を見上げ、つられて見上げれば青い光の点滅があった。飛行機、と言うわけではなさそうだ。
「そんでもって、中立は不味い。一緒に来るか?」
それを見た途端に剣は消え、態度が少し柔らかくなった。
「行ったらどうなるの」
「敵サイドに問答無用で殺される」
「行かなかったら」
「もうじき来るこっち側の連中に殺される」
「どっち選んでも死ぬ可能性高くない?」
「少なくとも……一緒に来たら援軍到着まで守り切る自信は一切無い」
そんなことを言われて不安しかない。普通、守ってやるとか言うところじゃないのか。
「ちなみに、中塚の」
「朝六時までに殺すことは出来る。優先して狙えってんなら」
上を指差して、
「対地射撃で粉砕」
「あんたそれあるならなんで」
「あいつは広域サポートで一カ所にだけ集中することが出来ない。しかも今は監視される立場だからあまり射撃オーダーも上げられない」
「……なんか、不安しかないんですけど」
「あ、それとそこら中にホロウコピーがうようよしてるから死にたいならこのままお別れで。それじゃ」
ひらひらと手を振って歩いて行くその背を見て、ゾンビ映画でよくあるうめき声のような物に振り向けばやつらがあちこちから……。
「ちょっ、ちょ待って!」
襟首掴んで引き留める。ビリッと音がしたが、破ったことは気にしない。
「あの数は無理だ、逃げる」
「置いてかないでよ」
「だったらしっかり掴まってろ」
風が吹き荒れ飛んでくる砂に目を瞑る。その瞬間に地面の感覚が消えた、急に寒くなって浮遊感がする。恐る恐る目を開けば、地上が遥か彼方にあって近くに青い髪の女の子がいた。下から見えていた青い光、その正体は女の子の背中に広がる幾何学模様で描かれた三対の翼だ。
「飛ん……でる?」
「離すなよ、処理に巻き込んでるだけだから離した瞬間落ちるぞ」
「えぇ……」
生まれて初めての雲の高さは、こういう状況だからだろうか、何も思えなかった。
「ドライ、主要部と周辺の状況」
皆川が青い髪の女の子にそう聞くと、感情のない声が帰ってくる。
「太陽系外周で主戦力交戦中。北極海、スールー海洋上で召喚地点破壊作戦遂行中。周囲十キロ圏内敵影四十、デッドコピーおよそ二千七百、接近中の味方二。以上」
翼の角度を変えすーっと離れていく。見れば小柄な中学生くらいの体型なのに、慎重と同じくらいの銃を抱えていた。
「たった二人?」
「二人も、だ。たぶん戦力比一対十くらいでやり合えるのが二人来るだろうからなんとかなる」
「でもあんたみたいなのが、敵が四十人もいるんでしょ」
「あぁ、別に能力者相手なら二個中隊くらいどうにかなる」
「にこちゅうたい?」
「三百人くらい。〝スティーラー〟は相手の数が多いほど使える能力が増えるからな、敵が増えれば増えるほど有利になるって落ち――」
急に浮遊感がなくなって、強風が肌を撫でて落ち始める。凍り付きそうなほどに寒い、痛い。
喋ろうにも息が出来ず声も出せない。
「――――」
皆川が背中に手を回してきて、くるっと体勢を変えられる。皆川が地上側に回って、そして何かに連続してぶつかって……永遠にも思える一分ちょっとを終えるとドンッ! と地面に叩き付けられた。
「いってぇ……ディスペルか」
「あ、あんた大丈夫なの」
「お前無傷だろ」
どこを見ても怪我はない。
「う、うん」
「ならいい。こっちも怪我はない」
言った途端にぽたっと鼻血が落ちた。背中から叩き付けられて後頭部を打たない理由がない。
「血ぃ出てんじゃん」
「……はぁ。来るぞ」
あちらこちらから空に向かって花火……火炎の塊が打ち上げられた。
「初撃は着弾位置の確認、リードはさすがにないだろうから動き続ければほとんど躱せる」
歩き始めた皆川についていく。さっきまでよりも煙のにおいが強く、暗い山の中に炎の赤が見える。
「りーどってなに」
「リード射撃。偏差射撃とか予測射撃とか言って、標的の移動先を狙って撃つことだ」
「あれ、でも狙わないって事はたくさん撃って当たればいいってことじゃ」
「曲射するってことは直接攻撃出来ないほど相手の腕が悪いか距離がある。で、こっちを認識してるならたぶんバレてるから砲弾は確実に集束か近接、奪いにくい」
「どーすんの」
「別にばらまこうが近づいたら爆発だろうが当たらなければ問題ない」
まったく慌てた様子のない皆川になにか策があるのだろうと思うが、なにも対抗手段を持たないアトリにとっては震えるほど怖いことだ。しかしそれも身体が勝手に怖がっているだけ、自分という存在は〝今〟を額縁の中の絵として捉えているのかまったくの他人事のように認識している。まるで〝別の自分〟が見た別の世界のように。
「まず避けられんの」
「防ぐ。それに遠距離から撃ちながら別のやつらが向かってるだろうさ」
「どうすんのそれ」
「迎え撃つ。どうせこの方面は若手しかいない、厄介な能力者がいない代わりに新参者は未解析だからどう仕掛けてくるか分かりづらい」
「解析ってなに。血液検査みたいな感じであれこれやんの」
「解析専門のやつがいる」
「あんたは解析出来ないって事」
「ある程度は出来る。八條は……」
さっと見られて肩に手が伸ばされ、ベリッと何かを剥がされた。
「痛っ」
「どこで貼り付けられた」
それは黒い紋章のようなもので、皆川は握りつぶした。
「そんなこと言われたって」
心当たりはない。
「例えば誰かに肩を触られたとか」
言われてみれば……。
「……中塚に触られたくらい」
「なるほど……飛ぶぞ」
手を取られ、ぐっと引っ張られたかと思えばすでに雲と同じ高さにいた。
「また落ちたりしない?」
「貼り付けられてた追跡魔法が原因だ」
炎の塊がさっきまで居た場所に次々と降り注ぎ、続いて放たれたそれはほんの数秒で着弾した。
「ドライ!」
空のあちこちで青い光が煌めき、無数のサーチライトが地上を照らす。そこには焼け焦げた地表と十人くらいの敵だろうか、アトリ達を探しているようだった。
ライトの光から逃れるように動く者も居たが、空から落とされる弾丸は闇の中を狙っていた。
「どこ撃ってんの、敵はあそこに」
「照らされてない連中、気付かれてないって油断してるだろうから的撃ちだ」
皆川も手の中に炎を創り出して落としていく。そんなことしたら居場所がバレるのではないかと思ったが、すでに青い弾丸の雨に逃げ惑っている最中だ。上を気にしている余裕などない。
「浄火の使い手は」
「なんか光った! あっち!」
アトリがそれに気付いたのはまったくの偶然だった。皆川が向きを変えるのとほぼ同時、槍が飛んで来た。認識してから身体を動かすまで一秒もなかっただろう、しかしその槍は直撃と同時に青い欠片となって崩れ、皆川に手の中に再構築される。
「これが〝スティーラー〟のいいところ」
おおよそ飛んで来たであろう場所目掛け投げ返す。
「高速戦だ、しっかり掴まってろ」
「うわっ」
急に耳が痛くなって、見えない何かに押し潰されそうになる。視界が赤くなって、黒に染まった。
それはほとんど一瞬。爆音と共に解放された瞬間に見えたのは血。
「はーい一人目ー」
人に突き刺さっていた槍を引き抜いた皆川は、掴まっているアトリを錘代わりに大きな動きで自ら振り回され、勢いを利用して重たい一撃を叩き込む。
「いま、なにが」
「空気の殻で包んで砲弾みたいに飛んだ」
ハハッと笑いながら、見開いた目で中塚を見る。後ろにはまだ数人ほど控えているが、警戒しながら離れていく。
「皆川、お前――」
喉元に穂先を突き付けられ、黙る。
「誰だよ火炉壊したの。折角こんな辺鄙なところまで来たってのに、完全に無駄足じゃねえか」
さっきまでと雰囲気がガラッと変わった。掴んでいた手に違和感を覚え、離せば黒いものがべっとりと。
「あんた、これ」
「八條離れろ!」
中塚が槍を引っ張りながら剣を手に斬りかかる。不意のことに尻餅をついたアトリだが、見上げてみたのは黒い霧になって消える皆川だった。
「クソッ!」
槍を投げ捨て辺りを見回す中塚だが、どこにも皆川の姿は見えない。
「皆川は、今何が」
「手、見せろ」
「えっ?」
さっきの黒いものがべっとりと垂れていて、しかしそれは不思議と気持ち悪さを感じさせない。
「触れた時点でもうダメってのは、分かるよな」
怖かった。腰が抜けて立てない、すぐ前では中塚が剣を振り上げる。
「悪い。さよならだ」
激痛は一瞬で、意識はすぐに闇に溶けた。