もう、そこに居場所はない
気付くと森の中の開けた場所に立っていた。
手の中には薄汚れた懐中時計が一つ。時を刻む動きを止め、12時を指したまま止まっている。
「ここは……」
月明かりに照らされるその場所で、振り返るとひときわ暗い場所があった。木々に光を遮られて暗い森、それよりも暗い。月明かりさえも届かない、暗黒の穴が。
さっとみて、そのまま見落とすとかあり得ないほどに、その暗さは〝異常〟だ。
「逃がすな! ここで仕留めろ!」
人の声が聞こえ、ばさりと落ちた木の葉に気を取られた瞬間に目の前に皆川が居た。
「しつこいんだよ」
「私が原因?」
そのすぐ後ろに髪の長い女が立っていた。
「だろうな……」
皆川はアトリのことを無視したまま、そう言うと辺りを見回して異常な暗さの穴を見つける。
「あそこに隠れて結界張ってろ。一人でもなんとかできる、いや、一人ならやれる」
「戻れるの……? 失敗したら」
「構うな。そのためのコピーだ、そんときゃ殺せ」
皆川が陽炎のような揺らぎに包まれ、全身が黒い靄に変わる。その姿はまるで〝影〟だ。
「大丈夫?」
「魔力攻撃はいいが、神力受けたら即死だな。ま、避けりゃ問題ない」
姿が闇に溶けて、残された彼女は言いつけ通りに穴に向かう。アトリの体をすり抜けて。
「えっ……ちょっと」
すり抜けた彼女に手を伸ばすが、こちらからも触れることは出来ない。
「ねえ」
声も届かず、しかし止めないと不味いと感じていた。あの異常な暗さの穴はやばい。誘い込んで捕食しようとする嫌な気配があふれ出ている。
「ダメ、そっち行っちゃ」
彼女が穴に近づくと、溢れ出した黒い靄が彼女を絡め取って、抵抗などものともせずに引き摺り込む。それが目的だったのか、途端に異常な暗さは晴れておびただしい数のお札と締め付ける紐が見えた。
明らかにやばいやつだとわかる。
だがそれだけだ、何も手の出しようがない。
不気味な暗黒が月明かりに照らし出されると、大木の洞の中が見えた。引き摺り込まれた彼女は黒い鎖のようなものに絡め取られ、体にまとわりつく靄が彼女と同じ形を作り出して……そして、取り込んだ。
「なに……それ、取り憑かれたって、そういう……」
後退りして気付いた、周りの木々は月明かりを受けて影を落としているのに自分の影はない。アトリが試しに手をかざしてみるが、影がない。落ち葉を踏んでいるのに音がしない……落ち葉の積もった地面に自分の足跡が付かない。
「広域にジャマー展開、情報を持ち帰らせるな、誘い込んで逆に狩るぞ」
「なんて言うかぁ……数の暴力? 呆れるほどに有効な策だよ、どっか防げば別のが刺さる」
リンクスとセイヴィアの声がしたかと思えば、空の色が青白い月明かりへと変わる。空間が歪み、空から影が三つ。
「それがどうした? これから流れを変えるんだ、本来ならこの時に存在していない私らで」
「そこに僕を素知らぬ顔で引き摺り込むのやめてくれる!?」
「意見は却下だ」
「あのねー? 僕より超強い女の子たちがなんでそんなに僕を引っ張るのか謎なんだけどさー」
「強い弱いじゃない、使い方。あんたはなんでも出来るんだから」
「器用貧乏、中途半端ってことでさような――」
空間に歪みを創り出し、逃げようとした仙崎は襟を掴まれてしまう。
「と、言うわけで行ってこい」
「ミナの支援する必要あるの?」
「保険だよ、何が起こるか分からないから」
「えー……」
しぶしぶ、そんな表情で暗闇の中にとぼとぼと歩いて行った仙崎が完全に消えてから、ソレが動き始めた。
ゆらりゆらりと今にも倒れそうな足取りで、体中から黒いドロドロしたモノを零しながら大木の洞から現れる。
「あーぁ取り込まれちゃって。ねえ、こいつ壊してもいいよね? スコールには喰われて手遅れだったって言えば問題ないっしょ?」
「セイ、それは……さすがに不味いと思う」
「つっても証拠残さなけりゃいいだけじゃん」
不穏な会話が聞こえて、頭の中で〝彼〟の囁きが聞こえた。
あのバカを止めろ、と。
「どうやって……アタシじゃ勝てないし、そもそも触れないんだよ」
考えるな、動け、あの長い髪引っ掴んで地面に叩き付けてやれ。
物騒な指示をされ迷ったが、セイヴィアがソレを蹴り倒して頭を踏み砕こうとしたのを見て、迷うのをやめた。
手を伸ばせば届く。
アトリは、目の前で起こる〝事象〟に〝自らの意思〟で〝介入〟する。
言われたからやるのか? 違う。
殺されそうとしているのが一緒に行動した人だからやるのか? それも違う。
このまま迷って、なにも自分から行動をしなければまた流される。しかも今度は奈落の底まで、だ。そろそろ自分の意思を決めろと、自分に言い聞かせる。
信じるか、疑うか、中途半端に行くか。提示された選択肢だけを見て悩むな、彼はそれ以外を見つけろと言うが為か、強制はしていない。状況がそうさせるが、アトリはその状況でも好きに選べたのだから。
ただ力が無かったから選べなかった。違う、怖かったから選ばなかった。下手を打って、力が無くて何も出来ずに無理矢理流されてしまうのが嫌だったから、抜け出せる可能性が低い流れに飛び込まず、まだ抜け出せる流れに身を任せていただけのこと。
「いいや、もう」
このままだらだらと流れに身を任せていても変わらない。むしろより悪い方向に行く、ならば同じ結果でも自分で動いた末の結果の方がまだいい。
どんな終わりだろうが、選ばなかった方を思って後悔するのが人だ。選び取った今をこれでよかったのかと無駄に悩むのが人だ。アトリは……今まで自分から動かなかった、自分で選択して辿り着いた流れを知らない。
「決めた……こんなことになった原因を潰す!」
原因を排除すれば戻れる、そんなことは思っていない。今以上に悪い方向に流されなくなればまだマシ、そういう考えだ。
やるなら頭を潰す気でやれ、どうせそれくらいでやっても死なない。
「むしろそれくらいでやんないと効かないんでしょ」
手を伸ばした。
未来を変えるために。
その手には紅い波動が纏い、此方と彼方を阻む位相差を無くしていく。
セイヴィアにすれば、完全に不意を突かれる形だった。背後に気配がしたかと思えば、髪を引かれ痛みを感じ、体のバランスが崩れ地面に……土から姿を出して、落ち葉に覆われた岩に叩き付けられる。
「ギャッ――」
「おー……これぞ不意の一撃? セイー?」
全力で地面に叩き付けて、重たい音がしたのは予想外だった。しかしアトリはそれについてはなにも思わない、殺そうとしたなら、やられても同情される権利はないのだから。
倒れて後頭部を押さえ、丸くなっている彼女はうめき声すら上げずに震えている。普通であれば頭が砕け散っているはずの一撃なのだから、まだ生きていることの方が不思議だ。
「こいつは?」
アトリが自分の中に問いかける。返ってくるのは好きにしろという意識だけだ。
「あっそ。リンクス、あんたは」
「わ、私は止めようとしたし……それに、私は別に使い捨ての駒だから殺されてもどうでもいいはずだから」
そんなことをぶつぶつといいながら身を引く。あちらにもこちらにも争う気は無い以上、無駄に戦いはしない。そもそも正面から戦えば勝てそうな気がしないが。
「セイ動け……うわ」
頭を押さえている手が血で真っ赤に染まっていた。が、それを見ても二人とも自業自得だろうとしか思わない。リンクスがセイヴィアを引きずって行って、離れた所で手当てするが触る度に悲鳴が上がる。
「痛そー」
やった自分が言うのもあれだなーなんて思って、よそ見をしていたのが行けなかった。
敵を倒して警戒を解くな、彼の考えが流れ込んで来るがもう遅い。
彼女を呑み込んだソレが飛びかかってきて、首元に食い付かれながら押し倒され体を密着させられる。触れたところから感覚が死んで、影に蝕まれていく。
「さあ――」
あぁ、あの時と同じだ。
「――一緒になりましょう?」
ソレが溶けて、ぼたりぼたりと黒い何かに包まれる。触れたところから取り込まれていく、自分が自分じゃなくなる。
怖い、それでも、その怖さは一度経験している。ソレが何なのかは分からない、分からなくてもそういう恐怖だと理解している。意味の分からない恐怖と意味の分かる恐怖、これは一度経験してどうなるかが分かった恐怖だ。
「嫌だっつうの!」
顔? であろうところを殴りつけ、押し退けて逃げようとした。しかし殴りつけて飛沫を受け、完全に黒に染まった手足は動いてくれない。
「っ……」
再び襲ってきたソレ、どうしようもできないかと諦めた。あの時は皆川がいた、今はいない。
「いや、まだ――」
意識した訳でもなく、勝手に手が動いた。握りしめた拳から光が溢れ、ソレを殴りつけると同時に光を撃ち込む。
ソレが崩れた。光に吹き飛ばされ、彼女が倒れ込んでくる。
「なにいまの……」
視界が霞んできた。
降りかかった黒い飛沫が体中を侵蝕する。
このまま死ぬのか。
そんなのは嫌だ。
だけどどうしたら助かる?
「セイなんとかできない」
「無理無理、あれはホロウの原種だろうし侵蝕されたら私らじゃ祓い切れない」
どうしようないが、私らじゃ、そう言う理由はどうにかできるやつがいるからだ。
「みなが、わ」
アトリにとってそれができそうと考えられるのは一人しかいない。名前を呼んだところで、どうにもならないだろうが。
「そういやスコールってここで一回死んだよね?」
「そうだけど……それが?」
「枠が空くじゃん。んでその間抜けは本来ここで解放されなかった、スコールのキーはそこの女が持ってる、こいつはスコールのコピーじゃん」
「うん? ……あ! 行けるよそれ。たぶん今の光、キーが移ったんだろうから」
「オッケー蹴り起こす」
「それはやめたほうが……」
セイヴィアがアトリの上に倒れている彼女を蹴り上げる。
「ごふっ!? お前な……起動処理中に……」
明らかに口調が違う彼女が起き上がると、セイヴィアの胸ぐらを掴んで頭突きをする。セイヴィアは一撃で気を失って倒れた。
「さて、と」
覗き込んでくる彼女は、じゃらりと音を立てて鎖を垂らした。
「前にも言ったが、これは魔装、隷属の鎖。撃ち込んだ相手のすべてを支配する禁忌の魔装の一つだ」
「……うん」
「死という終わりなら、それを次への始まりにしてしまえばいい」
視界がぼやけ、闇に包まれ始める。怖かった、終わりのない奈落へと、永遠に沈み込んでいきそうで。助けて欲しかった、アトリはそれを求めた。
「本当にいいんだな? 取らなければ、消滅して終わりだ。取れば、永遠に苦しむぞ」
彼女はそう言った。
そして、アトリは頷いて受け入れた。
消滅……そうは言われてもそんなことイメージできない。終わりのない地獄の可能性だってある、だったらまだ先が見える方を取りたい。
「汝の全てを我に捧げよ」
黒い触手のような、しかし気持ち悪さを感じさせない包み込むような闇のベールが辺りを覆う。
必要な言の葉は、意味さえ合っていればどんなものでもいい。
詠唱に続いて鎖に力が流れてアトリの胸に突き刺さる。
別の黒がアトリを蝕む。すべてを支配される。
体が、崩れる。
紅い光になって、鎖を撃ち込んだ彼女に吸い込まれて、自分というものが溶けていく。




