再来の過去-2日目
朝日に照らされ目覚めと同時に酷い頭痛がした。頭を押さえれば乾いてこびり付いた血の欠片がぽろぽろと落ちる。
「生き……てる、か」
起き上がって見えた世界は、すでに地獄の始まりの最中だ。至る所から悲鳴が聞こえ、鎖を持った人間が人間を襲い、武器に変えて襲い来るホロウコピーに呑まれた人間を殺す。
味方などいない、出会うすべてを敵と思って逃げるしかない。アトリには戦う術がない。肉弾戦が出来るわけもなく、武器を与えられたとしても振り回されるだけだ。しかし逃げるにしても逃げ切るほどの体力があるかと問われたら無いとしか答えられない。
「こんなところで、アタシにどうしろって……」
あの高さから落ちてなんで生きている? あの二人はどこに行った?
考える時間なんてなかった。
鎖片手に男が向かってくる。
あの鎖がなんなのか、アレを使われるとどうなるのか知っている。
何も出来ずに終わる気はないと、走った。
どこへ逃げればいい?
安全な場所など無いことは分かっている。抵抗しても終わりを先延ばしにするだけだと理解している。時川には皆川のモノにならなければ殺すと宣言されている。そして皆川は死という終わりを次の始まりに、そう言っている。
楽になるにはどうすればいいのか示されている。それしか道がない、それ以外の未来を削り取られ奪われている。取り返す力はない、自らで新たな選択肢を見いだすことも出来ない。誰かに頼るしかないが、敵に回した存在は頼れる誰よりも厄介。
どうしようもないというのが素直な思いだろうか。
「とにかく逃げ――」
瓦礫の山を飛び越えて着地した途端、少し先に炎の塊が落ちた。飛び散った火は瓦礫の上で燃え広がり、消える気配を感じさせずにどんどん広がり始める。
「浄火……?」
なんでも燃やして消えない炎、それしか思い当たるところがない。
ここも、同じように炎に包まれてすべてが焼き払われるのか。それを思えば、ホロウコピーに覆われ〝終わった〟土地を正常な状態に戻す最終手段としての浄化、その意味での浄火なのか。
「ふざっけんなっ!」
終わりを覚悟したが、炎の塊が弾け飛びその中から東條が姿を見せる。
「消せないだぁ? 直接触らなければどうということはない!」
「バカみたいな防御力だな、それ」
言いながら、アトリの後ろから歩いてきたのは来栖だ。火炎投射器を投げ捨てスタンバトンを手の中に呼び出して東條へ向かって進んでいく。その目にはアトリなど映していない、排除すべき敵だけを捉えて他は無視している。
「この……べたつく、ナパームか」
「へぇ、学生のくせによく知ってんじゃん」
「お前だってそうだろ」
「ただの学生がこんな戦闘慣れしてると思うか?」
殴りかかった来栖を障壁で受け止めた東條は、すぐさま拳を繰り出す。しかし狙ったところに来栖の姿はなく、真上に水の入ったバケツを持って現れ、叩き付けてまた消えた。
「冷たっ、なにしやが――」
「えっ」
倒れかけた電柱の上に姿を見せたかと思えば、バチバチどころではなく金属を簡単に溶かすほどのアークを散らす黒い線を落とす。
「目を閉じろ!」
皆川の声が響き、乱暴に顔を押さえられて引っ張られる。まぶたを突き抜ける閃光に痛みを感じ、凄まじい音に耳もやられた。見えず聞こえず、風を感じながらどこかへと運ばれる。
何度か押し潰されそうな爆発を受けながら、肌を切り裂くような痛みを感じて固い地面に足が着いた。
「聞こえるか」
「……なんとか」
「目は」
「痛いけど、見える」
何度も瞬きをして、ギュッと閉じて開く。
「ようこそ、終わりへ」
「なにが終わり」
真夏の朝にダブルジップの長袖パーカーに長ズボン、季節に合っていない格好をした皆川がいた。その背後には同じ格好でフードを深く被ったのが三人。
「誠に遺憾ながら不本意ではあるが、逃げることにした」
「なにから」
「時川漣から」
「……逃げられんの? アタシあいつに」
「あ、それは全部知ってる。聞いていたから」
「どうやって、だってあの場所には誰も居なかったはず」
「秘密、と言うわけで選べ」
「アタシがあんたのモノになるかどうかってこと?」
「限られた範囲内で考えるなよ。わざわざ余計なお荷物しょってまで逃げる余裕はないんだ、それにあいつの望み通りに進めてやる気はさらさら無い」
皆川の足元から黒い霧が溢れ、その中からフードを深く被った同じような格好の者が次々と現れる。
「ある意味一番執着されてるお前が一番使いやすい」
「なにしようっての」
「簡単な話だ。死んでも逃げられないのなら消してしまえと、な。執着する対象が消えればさすがにやめるだろう」
皆川はパーカーの裏から大振りのコンバットナイフを取り出す。黒く艶消しのされたそれは、人の首を簡単に切り裂けるほどの切れ味と長さがある。
「あんたアタシを殺す気?」
「いいや、お前を利用させて貰う。リンクス、分割は手筈通りに。セイヴィア、排除は任せる」
後ろで控えていた二人が頷き、残り一人はフードを脱いで口を開く。
「私は」
紅い瞳の髪の長い女だった。
「成功すればしばらく指揮は任せる。失敗すれば、今度はお前を分割する方向で」
「……了解」
「つー訳だ、八條」
「なにが? 訳わかんないって」
「今回のは運がなかったとか、そういう考え方をするしかない」
黒い霧が辺りを包み込み、慌てるアトリなんて気にせずに皆川は自らの首にナイフを突き刺した。血を吹き出しながら、更に心臓に突き立て投げ捨てる。
「あと……たの、む」
倒れ、血だまりを広げながら動かなくなった体から白と黒の光が浮かび上がる。
それを後ろで待っていたフードを被った者が砕き、欠片が他のフードを被った者に吸い込まれていく。アトリにもその欠片が寄ってきて、体の中に溶けていった。
とくん、と。お腹に優しい暖かさを感じ、同時に痺れるような感覚に襲われる。立っていられなくなり、その場に崩れ落ちるとどくんどくんと心臓が高鳴り顔が熱くなる。
体が熱い。
溶け込んだ異物を追い出そうと体と意識が抵抗している。
「な、に……アタシを」
「別に意識を乗っ取るとかじゃないよ、あんたの中に隠すだけ。代わりにあんたはあいつの力の一部を使える」
「だったら、なんでこんな苦しいの」
キリキリと締め付けるようなお腹の痛みに顔が歪む。汗が滴り落ち、体を抱くようにして前に倒れる。
「それはあんたが受け入れようとしていないから。完全に信じなくていい、警戒して当然だしそれでいい。怖がらないで、それはあんたの力になる、拒めばそれはあんたを壊す毒になる」
怖がる? なぜ? 得体の知れないモノだから怖いのか。あの欠片は皆川の体から……死んだ体から抜け出た魂? 彼を受け入れるのが怖い? あいつは理解できない、それでも守ってくれようとはした。
「怖がらなくていい。あいつは時川から逃げる為にどのみちやったし、ついでに囚われたあんたも解放しようとしているだけ。受け入れて、そしてあんたが状況を動かしなさい」
「ど……やって、受け入れ……つぅ」
「体の中に使わない空間があればそこに取り憑くはず。入った時に何か感じなかった? 頭の中の使わない記憶領域とか、精管とかの痕跡器官あたり」
「はぁ……なに言って、アタシ女だよ」
「女の子にも精管の名残みたいなのがあるの。何の役にも立たないけど体の中にはそういうのがある。感じなかった? 絶対どこかに感じたはず。あいつらは空っぽだから全体に染み渡るけど、あんたはあんた、中身がきちんとしてる体には取り憑くしかない」
「あ……はは、それ……なんか、子宮っぽいんだけど」
言われて、理解した。
涙が零れた。
「……使えない空間も含む、から。たぶん、あんたが死ぬのは変わらないから、だったら使うことのないとこ……あなたがそれを理解してるから、意識しなくても無意識に誘導したんだよ。なんか、ごめん」
「なにそれ……別にいいけどさ、好きなやつも居ないし、どうせ死ぬんなら変わんないし!」
分かって、現実を受け入れたら痛みが嘘のように引いていく。
「ふぅん、頭のねじかなりぶっ飛んでるね」
「あんたに言われたかないし!」
「私が言うのもなんだけど、いきなりこういう状況に放り込まれてそこまで冷静な女の子なんて、頭がおかしいとしか言えない」
「それで? 下らないことはいいから力の使い方教えてよ」
「あらぁ……頭に取り憑かない限り性格まで変わることは――」
闇が吹き飛ばされ、空に巨大な円陣が浮かんでいた。黄金に輝くそれは、針を創り次々と歯車を創って、まるで時計のように動き始める。
「ヤバッ、散れ! 未来にも過去にも並行世界にも! とにかくあちこちに急げ!! ぼさっとすんな新入り! 指揮を任されたのになに突っ立ってる!」
「え、でも私は」
「えぇぃっ! リンクス半分任せた! デコイとかばらまけるもん全部使って、とにかく漣の目から逃げること! いくら世界そのものを巻き戻すって言っても、別位相とか別世界までは及ばないから」
「セイヴィア、逃げられないよこれ」
「分かってる。でもやる! ここに居ないって分かったら世界一つくらい止めて次の世界襲いに来るだろうし」
カチッカチッと時を刻む音が世界を止めていく。
「八條鴉鳥、この役立たずと一緒に頑張んな。それじゃ」
カチリ、と。大きく響いた音に世界が止まり始める。
「せいぜい足掻いていい囮になってね」
古ぼけた傷だらけの懐中時計を投げ渡された。