2日目-F
あの時の約束は……何だったのだろうか。終業式の日、すれ違いざまにぼそりと聞こえた、あの言葉は。よく覚えていないが、それでもぼんやりと一つだけ〝今は忘れていい、いつか思い出せる〟それだけが浮かび上がってきた。つい最近の事なのに、完全に忘れて思い出しすらしなかった、記憶の雑踏に埋もれた大事な一欠片。
いつの日か……何だったか、分からない。それでも、〝大切な約束〟だったことは心の奥に残っている。誰としたのか、その内容も何をしたらいいのかもまったく分からない。
「あっ…………」
寝ぼけていた意識は急速に覚醒して、同時に思い出しかけていた大事なことを意識の奥にしまい込んでいく。
頭がガンガンに痛い。身体が重い。いつぞや海で疲れ果てるまで遊んだとき以来のだるさだ。
「ここ、どこ?」
まったく見覚えのない場所だ。綺麗な部屋でベッドに寝かされ冷房まで効いているのは嬉しいことだが、知らない場所に連れ込まれたという事実が不安を煽る。電気は付いていなかったが、カーテンの開けられたままの窓から差し込む月明かりに夜だと分かる。
重たい身体を起こしてベッドから降りるとちょっとふらついた。倒れてからどれほど時間が経っているか分からないが、確実にあの炎天下でしばらくの間倒れていたはずだ。助けて貰ったのか攫われたのか判断が付かないが、本調子に回復しているはずはなく下手なことは出来ない。
窓から外を見れば山を見下ろすばかりで、民家など一軒も見えず道すらもない。窓を開けてみようとしたが、鍵が掛かっているのか開かない。近くまで寄って外を見たら、この場所はかなりいいお屋敷のようだ。
「んっ」
妙な影みたいなのが見えたような気がした。どこに行ったかと探せば木々の上を飛び移り、屋敷の外壁に取り付いて登ってくる。恐ろしい速さで迫ってくると、一瞬目が合って、
「ひゃぃっ」
そのまま通り過ぎて屋根の方へと行った。
「な、な……なに今の」
驚いて尻餅をついた。どこかで見たような気もするが覚えがない。
そんなことをしていれば背後からピッと音がして部屋の灯りがつく。
「何してんだお前」
振り向けば中塚がいたが、自分の無様な恰好など気にせずに窓を指差す。
「今なんか変なのいた! 黒い影みたいな変なやつが!」
ドアを開けたらゴキブリが顔面に着地しました的な慌てようで言うアトリに、中塚もまさかと思って窓に駆け寄って外を見る。下を見れば暗闇に沈む森が、横は外壁に異常なし。上は――
「うわぃっ!?」
見た瞬間、真っ黒な人のシルエットが姿を見せた。驚いて飛び退く。
「……ってホロウコピーか!」
窓をぶち破って入ったそれ目掛け、いつの間にか歪な剣を持っていた中塚は斬りかかり一撃で斬り伏せた。黒い霧のようなものが散り、知らない人が倒れて血を溢れさせた。
「八條、大丈夫か」
「何今の、誰この人!」
「今のはまあ……ホロウコピーって呼んでるやつでモンスターだ。んでこのおっさんは……犠牲者ってとこか。あの黒いのに取り付かれたら死んでるのと同じだし」
中塚が死体を窓から投げ落とす。
「い、いいのそれ」
「不思議なんだけど、行方不明者ってことで探されたりしてないんだよ、取り付かれた連中」
「つっても死体はしっかり残るからねー。後処理しとけケンゴ」
そう言いながら入ってきた女は雑巾と水の入ったバケツを中塚に押しつける。
「大丈夫あんた? 立てる?」
尻餅をついたままのアトリに手を差しのばしてくる彼女は……。
見たことがある、槍使いだ。
手を取ろうとして躊躇う。
「どした、腰抜けた?」
「いやなんか、知らない人に……なんていうか」
「ここまで背負ってきたんだからそういうこと言わない。あんたあのまま野ざらしだったら間違いなく干からびてたよ?」
自分で立ち上がろうとして、力が張らなくてすとんとまた座り込む。
「ほら、立てないっしょ。掴まんな。今日は取りあえず私と一緒の部屋ってことで……我慢して」
肩に支えられ、部屋から出た。広く長い廊下だった。学校の廊下よりも長いそこには赤の絨毯が敷かれ、調度品の花瓶に見たこともない綺麗な花が飾られている。灯りも天井ではなく壁に有り、所々に階段が見える。
「ここは……どこ」
「山奥の屋敷。どの方向に行っても山越えないと行けないから遠くからでも分かんないよ」
「そんなとこなのに、アタシを背負ってここまで来たの」
「女の子一人くらい軽い軽い。それにホロウコピーにやられる寸前だったから、しばらく隠れてた方がいいよ。さっきみたいにしつこいのは襲ってくるから」
「そう」
ホロウコピー? だったらさっきの影はなんだ? ホロウコピーとは違う、嫌な感じよりも怖さが勝った。暗闇の中を高速移動していてはっきりとは見えていないが、絶対に違うと何かがそう告げている。
「なんかいきなりこういうことになるともっと慌てると思うんだけど、もしかしてこういうの慣れてる方?」
「ついさっき結構焼かれて死にかけたばっかだし」
なんでそんな言葉が口から出たのかは分からない。でも、自分の記憶のように脳裏に焼き付いている炎がある。
「そうだったねー……夏の日差しに焼かれて危うく干物になるとこだったかーあはははっー」
彼女は違う方に受け取ったようだ。
「笑うとこ?」
「こう見えてもね、私そこそこ危ないことはやってる方だからさ。熱中症で死にかけるとかださいことは笑いたくなるの」
「人が死ぬかもしんないってのに」
「まま、気にしないでそこが私の部屋だから」
開けられたドア。
「……廊下で寝るから、いいよ、アタシ」
中を見た第一声はそれだった。
「お部屋は汚部屋だけどほら、床のもん壁にごそっと動かせば」
「…………。」
なぜ部屋の中に太い木の枝や削りカスが散乱してナイフみたいなのが散らばっているのだろう。考えてすぐに、あぁそうか槍使いだったと思い至る。
「……槍?」
「うん、そうだよ……あの、さ? 変なこと思わないで、よ?」
部屋に連れ込まれるといい香りがした。ベッドに座らされ、彼女は床に散らかったものを壁際にざっと追いやる。
「この匂いは」
「檜。知らないの?」
「初めてだと思う」
「こん……都会人め!」
投げつけられた袋を受け止めると、檜の匂いが溢れ出した。
「よく覚えときぃ。そんが檜の匂い、突き刺す槍の材料にはいいんよ。叩き付けるなら松がいいんよ」
「なまり?」
「はい気にしないー、気にしなーい。あ、そうだ、なんか飲む? いろいろあんよ」
部屋の隅にある小さな冷蔵庫。中身は……ドクペ黒酢サイダーおしるこコンポタ炭酸コーヒーとんがらCエトセトラエトセトラ。
まともそうなもの……というか知っているものが少ない。
「なにそれ」
「知り合いのとこがねえいろんなもん扱っとーからね」
「普通のはないの普通のは」
「普通って何」
どうもアトリと彼女とでは〝普通〟の定義が違うようだ。
「ポカリとかアクエリとか」
「てぇーっと……こんなんありますけど」
「それはいらない」
経口補水液なんてものは本当の非常時以外に飲みたくない。薄めた海水みたいな味がしたのは覚えているし、あの味は飲みづらい。
「あとはない、好きなん飲め」
「えぇ……」
冷蔵庫の中を覗いてみても本当にまともなものがない。
「お茶とかなら、とーじょーさーん!」
大声で誰かを呼んで、すぐに走ってくる音がした。
「誰?」
「私らの中で一番強い人」
バンッ! とドアが開けられ、男が入ってきた。
「なんだ大声で」
「お姫様がお飲み物をご所望でーす」
「あー……」
目が合った。
「こいつの冷蔵庫の中身は凡人が飲めるものが入ってねえから」
「これだからお子ちゃまは」
「味覚が完全崩壊したやつに言われたくない」
「はぁっ? 飲んでみろって」
「要らんそんなゲテモノ。ところでお前、名前は」
「自分から名乗るのが普通っしょ」
「少し黙ってろ。俺は東條、まとめ役をやってる。お前は」
「……八條」
名前をいうといぶかしむように眉をひそめた。
「鶇の関係か」
「従姉妹、何年か全然会ってないけど」
「ここに潜り込むために演技してる、なんてことはないよな」
「何のために?」
素で意味が分からなかった。だから素直に返した。
「そもそもアタシは気付いたらここに連れてこられてたんだし」
「そうだったな。誰かさんが勝手に運び込んで」
「悪うございましたねぇ」
「無関係なやつを連れ込んで仲間を危険にさらすようなことになれば、責任は押しつけるからそのつもりで」
「なんで! 女の子一人助けてなんで」
「俺たちは一般常識の外にいるんだよ。目の前で人が倒れていたら助ける前に敵かどうか、接触して後の危険はないのかあれこれ考えないといけない」
「そんなことしてたらこいつ死んでたかも知んない」
「それが? 助けて禍もらいましたじゃシャレにならん。さっきもホロウコピーが一匹入ったようだし」
「んなこという訳。助けたのに」
「だったら助けた以上そいつに関係する厄介ごとはテメエが始末しろ。俺はもう寝る、真夜中だってのに屋敷中起こすような声で呼びやがって」
いらだった声で言うとドアを乱暴に閉めて出て行った。
「ま、いつものことだから」
一息つけるか、なんて思ったらノックも無しにドアを開けお茶を一本放り込んで帰って行った。
「明日はちょっとやることあるし、まだ調子悪いっしょ」
「う、うん、まあ」
「早めに寝よっかねぇ。冷房まだ強く出来るけど、どーする」
「じゃあ強めで」