講義パート、【近代】入門二限目。担当教員、日本文化研究学部国文学科棚橋戯作准教授
◆登場人物
担当教諭:棚橋戯作准教授
日本文化研究学部国文学科の准教授。
以下は棚橋と表記する。
ディスカッサント:能因草子
浅野ゼミ非公式ゼミ生。文学に対して多くの知識を有する公立高校一年生。
以下は能因と表記する。
ディスカッサント:白崎華代
草子と同じ公立高校に通う一年生。成績は草子に次ぐ二位だが、文学に対する知識は人並み。
以下は白崎と表記する。
ディスカッサント:ロゼッタ・フューリタン
乙女ゲーム『The LOVE STORY of Primula』の悪役令嬢に転生した転生者リンカーネーター。前世は草子達の地球とは異なるパラレルワールドの県立大学に通う歴史文化学科に所属の学生、薗部美華。
以下はロゼッタと表記する。
ディスカッサント: 湊屋千佳
草子達の地球とは異なるパラレルワールドの県立大学に通う国語国文学科所属の学生。薗部美華の親友。
以下は湊屋と表記する。
ディスカッサント: レーゲン=イーザー
ミント正教会によって【勇者召喚】された一人。ミント正教会の真実を知ったことで秘密裏に暗殺される。女神オレガノによって蘇生され、以後彼女が作成した魔獣として行動する。唯一無二の魔獣に転生したため固有能力を有する。転生先のジェルバルト山で草子達と出会い、以後草子達と行動を共にする。
以下はレーゲンと表記する。
※講義パートは本編とは直接関係はありませんので、読み飛ばして頂いても構いません。本編では絡まない登場人物の絡みと、本作の肝となっている文学に対して理解を深めて頂けたら幸いです。
ちなみに、本講義――【近代】入門を履修した皆様には二単位を差し上げます……冗談ですよ。レポートの提出も期末試験に向けた勉強も必要ありませんから、気軽にお読み頂けたら幸いです。
棚橋「本編の方は大変なことになっているけど、こっちはいつも通りに行こう。改めて日本文化研究学部国文学科准教授の棚橋戯作です。さて、ここでは最初に講義を行い、最後に確認テストのようなものをやるのでよろしくお願いします」
棚橋「今回は近代文学の流れ――近代文学史について板書していく」
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◇明治時代の文学
・言文一致運動が起こる。(初代三遊亭圓朝の『怪談牡丹灯籠』の口述筆記、二葉亭四迷の『浮雲』)
戯作文学
江戸時代後期の戯作の流れを継承しつつ、文明開化後の新風俗を取り込むことで、人気を博した。(仮名垣魯文 『西洋道中膝栗毛』(1870年))
翻訳文学
明治10年代頃、盛んに西欧の文学作品が移入され広まった。(川島忠之助が翻訳したヴェルヌの『八十日間世界一周』(1878年)、坪内逍遥がシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』を翻訳した『自由太刀余波鋭鋒』(1884年))
政治小説
自由民権運動の高まりとともに明治10年代から書かれるようになる。政治的な思想の主張・扇動・宣伝することを目的としている。(矢野竜渓『経国美談』(1884年)、東海散士『佳人之奇遇』(1885年))
↓
1885年、坪内逍遥が日本で初めての近代小説論『小説神髄』を発表。
二葉亭四迷が『小説総論』(1886年)を発表。
・写実主義的な近代小説が充実
・井原西鶴や近松門左衛門らの古典文学への再評価が高まった。
1885年、尾崎紅葉、山田美妙らが硯友社をつくり、「我楽多文庫」を発刊。
(尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』(1889年)、『金色夜叉』(1902年)、山田美沙『武蔵野』(1887年)、『蝴蝶』(1889年))
幸田露伴は『露団々』、『風流仏』(ともに1889年)、『五重塔』ん1891年)などの小説のほか、評論や古典の解釈など幅広く活躍した。
・紅葉と露伴の活躍した時期は「紅露時代」と呼ばれる。
近代化が進むに順って、自我意識の目覚めが人間性の解放をもたらし、開放的な自由を求めるロマン主義文学が登場する。
・森鴎外のドイツ三部作(『舞姫』(1890年)、『うたかたの記』(1890年)『文づかひ』(1891年))
・樋口一葉『たけくらべ』、『にごりえ』(ともに1895年)
・泉鏡花『高野聖』(1900年)、『歌行燈』(1910年)
・国木田独歩『武蔵野』(1898年)
・徳冨蘆花『不如帰』(1899年)
→独歩はロマン主義から自然主義的な作風に変化。
20世紀初頭になると、ゾラやモーパッサンといった小説家の影響を受け、自然主義文学が起こった。
島崎藤村『破戒』(1906年)に始まり、後に田山花袋の『蒲団』(1907年)によって方向性が決定づけられたとされる。
・国木田独歩『忘れえぬ人々』(1898年)、
『牛肉と馬鈴薯』(1901年)、『鎌倉夫人』(1902年)、『春の鳥』(1904年)、『竹の木戸』(1908年)、
・徳田秋声『新世帯』(1908年)
・正宗白鳥『何処へ』(1908年)
・田山花袋『田舎教師』(1909年)、『少女病』(1907年)
・島崎藤村『家』(1910年)、『新生』(1918年)
自然主義文学に反して反自然主義文学と呼ばれる潮流がある。夏目漱石や森鷗外、後には耽美派・白樺派・新現実主義が反自然主義に分類される。
余裕派
夏目漱石とその門下の作家。人生に対して余裕を持って望み、高踏的な見方で物事を捉えるという、「低徊趣味的」な要素を含む。この一派として高浜虚子、寺田寅彦、鈴木三重吉らが挙げられる。
・夏目漱石『吾輩は猫である』(1905年)、『坊ちゃん』、『草枕』(ともに1906年)、前期三部作『三四郎』(1908年)、『それから』(1909年)、『門』(1910年)、後期三部作『彼岸過迄』(1912年)、『行人』(1912年)、『こゝろ』(1914年)
高踏派
森鴎外、堀口大學が挙げられる。
耽美派
道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮。19世紀後半、フランス・イギリスを中心に起こり、生活を芸術化して官能の享楽を求めた。その後日本に入る。谷崎潤一郎、澁澤龍彦、江戸川乱歩、夢野久作、沼正三、中井英夫、三島由紀夫、泉鏡花、永井荷風、北原白秋が挙げられる。
白樺派
創刊の同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思潮のひとつ。作家では志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らが挙げられる。
新現実主義
白樺派の理想主義が主観的・空想的に過ぎ、現実を見失っているのではないかという疑問から、新しい視点で現実を見直そうとする動きが生まれた。『新思潮』に参加した芥川龍之介、菊池寛、山本有三、久米正雄が代表として挙げられる。
◇明治時代の詩歌俳句
・詩では外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎によって『新体詩抄』(1882年)が刊行され、新体詩が盛んになる。
・ドイツから帰国した森鴎外は翻訳詩集『於母影』(1889年)を、北村透谷は『楚囚之詩』(1889年)を出版した。透谷の「文學界」に参加していた藤村は『若菜集』(1897年)を、藤村と並称された土井晩翠は、『天地有情』(1899年)を刊行。これらロマン主義的な詩は浪漫詩と呼ばれる。
・象徴詩では薄田泣菫、蒲原有明が活躍し、その後を受けて北原白秋、三木露風らが台頭。「白露の時代」と呼称された。
・短歌では与謝野鉄幹が「明星」を創刊、与謝野晶子は『みだれ髪』(1901年)を発表。この一派であった石川啄木、窪田空穂も活躍を見せたが、特に啄木は自然主義に転じ『一握の砂』(1910年)と『悲しき玩具』(1912年)を刊行した。
・竹柏会を主催した佐佐木信綱は、「心の花」を創刊。正岡子規は『歌よみに与ふる書』(1898年)を発表し根岸短歌会を開き、伊藤左千夫、長塚節らが参加した。
・北原白秋、吉井勇らはパンの会を起こし、耽美派に繋がる歌を詠んだ。
・俳句では、正岡子規や「ホトトギス」を中心に、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが輩出された。
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棚橋「板書は写せましたか? それでは、確認テストを開始します」
棚橋「まずは白崎さんに問題です。道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮。谷崎潤一郎などが挙げられるのを何と言うか?」
白崎「耽美派です」
棚橋「正解です。続いて、ロゼッタさんに問題です。坪内逍遥以前の小説を三つ挙げてください」
ロゼッタ「戯作文学、翻訳文学、政治小説です」
棚橋「正解です。続いて、湊屋さんに問題です。夏目漱石の前期三部作と後期三部作を挙げてください」
湊屋「……えっと、前期三部作が『三四郎』、『それから』、『門』、後期三部作が『行人』、『こゝろ』、後は………………『彼岸過迄』です」
棚橋「正解です。続いて、レーゲン君に問題です。新現実主義の作家を四人挙げてください」
レーゲン「芥川龍之介、菊池寛、山本有三、久米正雄です」
棚橋「では、最後に草子君。……草子君に関しては確認テストではなくても問題ないよね?」
能因「……棚橋先生、差別ですか?」
棚橋「まあ、答えられると思うから大丈夫だ。菊池寛は1916年に京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。1923年に私費で雑誌『文藝春秋』を創刊し大成功を収め、多くの富を手にした。その後は、日本文藝家協会を設立や芥川賞、直木賞の設立をしたりと小説家を支える側として活躍していく。……さて、その功績の一つに芥川賞、直木賞の設立があるが、このうちの直木賞について名前の元になった作家の名前をエピソードをつけて答えてくれ」
能因「直木三十五、本名植村宗一ですね。「直木」は「植」の字を分解したもので、「三十五」は年齢を元にしたものです。31歳のときに直木三十一の筆名で『時事新報』に月評を書いたのが文筆活動の始まりで、以降誕生日を迎えるごとに「三十二」、「三十三」と名前を変えていきましたが、34歳の誕生日を迎えた時、本人は「直木三十四」と書いたものを編集者が勘違いから「直木三十三」と書き直されてしまい、当の「直木三十四」はそれを訂正せずに「直木三十三」を使っていましたが、「三十三」は字面が良くない、あるいは「さんざん」と読むことができたり「みそそさん」と呼ばれることを本人が嫌い、直木三十五と名を改め、それ以降は改名することはなかったというものですね。理由としては「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌だったから、菊池寛から「もういい加減(年齢とともにペンネームを変えることは)やめろ」と忠告されたからだとも言われています」
棚橋「流石は草子君だ。さて、全員が正解できたところで今回はここまでにしよう」