悪魔の爪
アリアの朝は早い。侍女に起こされる前に目を覚まし、自分で着替える。エリザベスであった頃は毎日ドレスを着なければならなかったが、今は貴族でも洋服だ。素晴らしい時代になったとアリアは満足していた。女の子はスカートと言う概念は拭えないが、ドレスよりいい。一から十まで侍女に任せきりだった昔に比べ、ある程度は自分でする事は今の時代だと当たり前なのだ。顔を洗い軽く髪を纏めて朝の準備を終えてから侍女がくる。
アリアは全く手のかからない子供だった為、侍女の人数も最小限なのだ。アリアの専属と呼べるのは二人。
下級貴族であるリリーと平民のジゼル。
下級貴族の娘や次男以下が上級貴族に勤める事は多い。娘や息子を預け、信頼関係を強固にするという意味もある。公爵家と顔つなぎ出来、男女の出会いの場でもあるのだろう。夫婦で屋敷に勤めている者もいる。特にベルナールド家では、適齢期になると望めば嫁ぎ先を斡旋してくれると密かに人気だと侍女達が話しているのを聞いたことがあった。
リリーは、十八歳で恐らく斡旋目的の侍女である。ミーハー気質だが、ちゃんと仕事をしているためアリアに文句はない。
ジゼルは、十四歳で屋敷に勤めて二年になる。学院に通う身ではあるが、給金のいいベルナールド家で働いていた。学院が終わる平日の夕刻からと学院が休日の日に働いている。淡々と仕事をこなす真面目な子だという印象だった。
お堅い貴族ならば平民がーーなどと言う者も一部いるだろうが今の時代そう言った事は緩くなっている。事前に身辺調査はされるが、仕事が出来れば平民でも孤児でも雇える。
アリアは、お茶の準備をする今日の侍女へと目を向けうっすら口元を緩めた。
「ねぇ、ジゼルの家族ってどんな人なの?」
「えっ…。あ、私の家族ですか?」
きょとんとしたジゼルにアリアはこくこくと頷き、無邪気な笑みを見せた。
「両親は既に他界しておりまして。お、弟が一人おります」
「あっ、ごめんなさい」
「いえ!両親が死んだのは随分前ですし、私には弟がいますので」
「じゃあ、ジゼルの家族の話聞いてもいい?」
遠慮がちに見上げれば「もちろんです」と頷いたジゼルに「じゃあ座って座って」と正面の席に座る様に促した。ジゼルの立場上アリア席に座るなど言語道断だ。「今は私とジゼルしかいないから、大丈夫!」というアリアに負けジゼルは席へと座った。
両親が亡くなった後、叔父と叔母に世話になっているらしくジゼルは今十四歳であり屋敷で働きながら学院に通っている。
普段、両親との接触が少ないアリアに気を使ってか話の中心はジゼルの弟の話だった。
私より二つ年上の七歳で小さい頃からやんちゃで勉強嫌い。姉の欲目もあるだろうが、街の子供達のリーダー的存在なのだという。アリアはきゃっきゃと楽しそうに話を聞く為ジゼルの口も止まらなかった。
「友達と騎士ごっこばかりしているんです。将来は騎士になりたいらしくて…っ。今はーー」
ジゼルが言葉を詰まらせ瞳を伏せた瞬間をアリアは見逃さなかった。
「病気で床に伏せているのよね」
ハーブティーを一口飲み、ジゼルに真っ直ぐに目を向けたアリアは猫を被る事をやめた。
「いつからなの?」
「ふ、二月ほど…前です。お医者様には、魔風病だと
言われ、ました」
戸惑いながら途切れ途切れに答えたジゼルにアリアは優雅な笑みを見せた。ジゼルは、目の前に上流階級の淑女がいる様な錯覚を覚えた。礼儀作法も知らないハズの子供なのに、身体に緊張が走る。
「魔風病ね。不治の病と言われている病気なのね」
アリアはゆっくりとジゼルに近づいていき、ジゼルの両手を握った。動物を愛でる時の様に子供をあやす時の様に優しく優しく笑う。
「いい?今から動いちゃダメよ。私の問いにちゃんと答えれたらご褒美をあげるわ」
ジゼルは、カラダが石像になったかの様に動けなかった。身体中が生暖かい何かに縛られている感覚。見つめられる翡翠の瞳を逸らすことさえ出来なかった。
「知ってる?『悪魔の爪』はハーブティに混ぜると効果が薄くなってしまうの。飲ませるなら、原液を飲ませるのが一番効くのよ。あとは、そうね。私なら血に混ぜるわ。飲ませるだけなら身体が弱くなる程度なのだけど、血に混ぜると血が止まらなくなってしまうの。その後に軽い怪我でもさせれば死んじゃうわ」
くすくすと優しい笑みは変わらない。ジゼルは、アリアが先程まで飲んでいたハーブティに『悪魔の爪』を入れていたのだ。今回が初めてではない。アリアはジゼルが『悪魔の爪』を入れ始めてから「ハーブティーは身体にいいの」と毎朝のお茶がハーブティに変えていた。すぐに分かったが、何も言わずに平然と毒を口にしていた。
ジゼルはアリアの言う意味に気づき、顔色が血の気を失い真っ青になる。バレていたのだ。最初からバレていたのだと、唇を震わせた。
「一月ほど前に頼まれたのかしら?「弟の病気をしてあげる」とでも言われたの?」
ジゼルは、アリアの問いに頷いた。誤魔化すことは出来る。誰かに罪を擦りつけることもできる。けれど、ジゼルは素直に頷いたのだ。
今、この場で嘘などついてはいけない。と直感なのか、タダの馬鹿か、計画的にかはアリアには分からないがジゼルの瞳はアリアを真っ直ぐに捉えていた。
「どんな人か覚えている?」
「は、い。黒いローブを着た妖しい男でした。顔はーーすいません。記憶が朧げで分かりません。
お屋敷から帰る途中に声をかけられたのです。「弟の病気を治す方法を教えてあげようか」と当時色々な所で魔風病の事を聞き回っていたので、何処かから聞いたのだと思います。
その時に、弟の薬を渡されたのです。弟に薬を飲ませると少し症状が軽減したのでもっと欲しいと言うと『悪魔の爪』を渡され、お嬢様に飲ませろと言われました」
震える唇を一生懸命動かしてジゼルは答えた。
「その男とは何度か会っているの?」
「週に一度。弟の薬を貰い、確認の為か瓶を回収していきます」
「そう。ーーでは、貴女に二つ選択肢を与えてあげるわ」
アリアは、ジゼルから手を離すと先程まで動かなかった身体が動く様になっていた。身体の変化に戸惑う間も無くアリアの言葉に耳を疑った。
「このまま、屋敷を去るか私の侍女のままでいるかどっちがいいかしら?」
「……は…?」
可愛らしい笑みにジゼルは空いた口が塞がらなかった。何を言っているのだと理解が追いつかない様な顔をしている。
ジゼルが行った事は決して軽い罪ではない。公爵家の令嬢に致死量ではなくとも毒を盛ったのだ。間違いなく一生投獄か自分は平民であり最悪処刑でもおかしくはないのだ。
そもそも、今の状況だけでも可笑しい。先程までは、身体が動かなかったが今は自由に動く。ジゼルがヤケを起こしてアリアを襲う事だってあるのにアリアは無防備すぎる。
「問いに答えたらご褒美をあげると言ったでしょ?」
確かにアリアはそう言っていた。ジゼルは甘い甘いご褒美に喉が鳴った。どちらを選んでも自分には好都合、屋敷をさってもジゼルは十四歳で公爵家の屋敷で働ける程優秀で、このまま侍女でいればアリアが喋ってしまうリスクはあるが高い給金が貰える。
このままーー手を伸ばしそうになりグッと堪える。
ジゼルは床に座り、アリアへと頭を下げた。
「お嬢様、ありがとうございます。
しかし、私の罪は赦される事ではありません…。旦那様に御報告下さいませ」
ジゼルは、誠実な女だった。弟の件で目が眩んだが、両親を亡くし優しい叔父夫婦に育ててもらい恩返しの為に屋敷で働いていた。働いてもう二年になる。十二歳という年齢で平民出身の自分を雇ってくれた事にも感謝している。これ以上、皆を裏切ればきっと自分が許せなくなる。
「あら、いいの?」
「はい。もしも、ご褒美を頂けるのであれば家族に迷惑が掛からない様に断罪していただけると有難いです。愚かな私の所為で叔父と叔母には迷惑をかけたくはありません。…勿論、私にこの様なワガママを言う権利はありませんので…できれば、ですが」
「ジゼル、顔を上げて?」
躊躇いながらもアリアの言う通りに顔を上げるとアリアと目が合った。
「ーー合格よ」
目を細めて、嬉しそうに笑ったアリアの今の顔をジゼルは生涯忘れる事はないだろう。
侍女のジゼルがアリアと言う小さな悪魔に捕まった瞬間だった。