かいしんのいちげき!零はたおれた
自己評価というものは所詮自身が鏡越しに、濁った眼鏡を通して見た『誰か』でしかない。
それを理解したつもりになっていることもまた、自己評価に含まれるのだろう。
『自分が見えるのは鏡越しの自分だけ』
僕はそうなのだと思う。どこまで行っても人間は自身や他人のことを『過大評価』するか『過小評価』するか、どちらかしかできない。
それは僕たちが知恵も誇りもある以上仕方がないことだと思う。
故に。
恋とはとても難儀な病だ。
その相手のことを無条件に『過大評価』し、それを様々な理由をつけて正当化し、それを疑わない。いや、疑う余地すらなくす病こそが恋なのだろう。惚れた弱みってやつかもしれない。
先程、びしょびしょに濡れてきた先輩に対して、いつもの僕ならあの程度では済まなかっただろう。もっと色々なことを正論っぽく言い、相手の心をえぐりに行っていたように思う。
それをしなかったのは、やはり惚れた弱みなのだろう。
閑話休題。
つまり僕が言いたいのは、人は思った以上に人を理解できていないということ。
そして今僕は、それを思い知らされている。
中の様子が、気になる。
女性の体を見たいというのは男性としては当たり前の欲求なのかもしれないが、今まで興味すらわかなかった僕からすればそんな気分にならなかったわけで。
そんな僕が初めて恋心を抱いた相手が中で着替えているとなれば、それを覗いてみたくなるというのは当然なのではないか。そんな風に自身の感情を正当化しようとすらしている僕がいる。
だが、やはり仕方ないのでは?
透けた布地を見た後に聞かされる衣擦れの音。しかもその音を発しているのは憧れの先輩。
むしろ理性を保っている僕は褒められるべきなのかもしれない。
「着替えたから入っていいぞ。」
中からそんな声が聞こえてくる。
「わかりまし……っ!!!?」
僕はまた過ちを犯したのかもしれない。
そこにいたのは、『せんぱい』
漢字で『先輩』ではなく、平仮名で『せんぱい』
この差は大変大きいものだと思う。なぜなら、それだけ目の前の相手の服装が印象的だということ。
まず、かわいい。
明らかにサイズが大きくだぼだぼなジャージを袖も捲らずに着ているせいで完全に手は見えないし、ファスナーを一番上まで上げているので、何かが危うい感じになっているわけではないが、その明らかなサイズがあっていない感じがかわいさを引き出している。
いつもは『美しい』イメージのある先輩だからこそ、このギャップはずるい。
もはや、何も言えなかった。
「ど、どうしたの?ボク、そんな変?」
と、心配そうな声で、上目遣いで言ってくるせんぱい。
当然僕は無事ではない。
「がふっ!」
僕は完全に心を撃ち抜かれたため、膝から崩れ落ちる。
これは駄目だ。もうだめだ。
「だ、大丈夫!?」
せんぱいが慌てて駆け寄ってくるが、それは逆効果でしかない。
僕のHPはもうないというのに、さらに追い打ちをかけられる。
「だ、大丈夫、で、す……」
「いや、そう見ても虫の息だぞ!今、先生を……」
そんな風に慌てふためくせんぱいを見て、何故かしっかりしなくてはいけないという使命感に駆られた。
僕は何とか片方の膝を立てることに成功する。そしてそのままの勢いで立ち上がることまでは成功する。
「きゅ、急に立ち上がって大丈夫!?」
「はい。」
「本当?」
「本当です。」
「じゃあ、顔色を見るからこっちに顔を向けてくれないか?」
「すいません、あと三十秒ほど時間をください。」
僕はそう言うと、深呼吸を三度ほどして、心の中の煩悩を消す……のは無理そうなので、強引に抑え込む。
心が落ち着いたのを感じてせんぱいのほうを向いた瞬間、手を伸ばした先輩が僕の顔を両手で挟み込むように抑えた。
強制的にせんぱいを直視させられた僕は、言葉すら出ない。
心配そうに僕を覗く二つの瞳。
ジャージに隠れて見えないが、確かに両頬からは先輩の手の平の体温が伝わってくる。
「……せんぱい?」
僕は何も言わないせんぱいに対して、そんな疑問を投げかける。
「うん。顔色もいいし、大丈夫そうだ。でも、具合が悪かったらすぐに言ってくれ。」
せんぱいはそう満足そうに言うと、両手を離して僕の顔を解放した。
僕は暫くフリーズしていたが、せんぱいが僕の前で手を振ったことで意識が現実世界に帰ってくる。
「本当に大丈夫?」
「……少し考え事をしていただけなので安心してください。」
「そうか……ならいいんだが。」
「心配かけてすいません。」
「ああ、本当に反省してほしいものだ。キミはボクにとってかけがえのない存在なのだから、もっと自分を大事にしてくれ。お願いだ。」
「は、はい。」
落ち着け、落ち着け自分。
この場合のせんぱいのセリフには、大事な言葉が抜けている。
『キミはボクにとって(この部唯一の後輩という)かけがえのない存在』
この( )の部分を付け足した形が本来の正解なのだろう。
だから、せんぱいは僕を好きだとかそのような勘違いをしてはいけない。
いかなる場合でも、心を落ちつけて。
「せんぱい、ずっと気になってたんですけど、その袖邪魔じゃないですか?」
だから、話題を変えることにした。
「ああ、そうなんだがな……両方の袖がこうだから、うまく袖を捲れなくて……」
「じゃあ僕が捲りましょうか?」
「じゃあお願いするよ。」
せんぱいはそう言うと、僕に両腕を差し出してくる。
「うわぁ……ちょっとこれ大きすぎますね……」
「仕方ないだろ。ボクはそんなに大きくないし、キミは180センチくらいあるんだから。」
「そんなにありませんよ。176くらいです。4センチの差は大きいと思いますよ?」
「え?本当?キミはどういうわけか頼もしく見えるから、大きく見えてしまったのかもしれないな。」
「その理屈はよくわかりませんけど……っと、終わりました。」
「ん。ありがとう。」
そう言って先輩は捲られたジャージの袖をまじまじと見る。
「うん。ありがとう。」
「何で二回言ったんですか?もう十分伝わりましたよ。」
「何となく言いたい気分だった。」
「そうですか。」
やっぱりよくわからない人だ。
彼氏ジャージ!(改めて言うと、彼氏ではない)
どうでした?
今回はなかなか零君がはっちゃけたように見えるかもしれませんが、彼も初めての恋に混乱していると思って生暖かく見守ってあげてください。




