崩壊
何事もなかったように家に帰る。
母が笑顔で「学校はどうだった?」と聞いてくるので、
「ああ、普通だったよ」と答える。
「あなたいつも答えは、ああ、ばっかりなのね?語彙がないの?語彙が?」
「・・・」
「帰ってきたテストどうだった?ほら、あったでしょ?模擬試験が。」
「あ・・・それ、まだ帰ってきてないんだ。」
「帰ってきたら早く見せてね。
あ・・・先生がね」
ドキッとした。
まさか、ばれたのか。
「今、あなたの成績が下がっているって。ここが踏ん張り時で、ここを逃すともう這い上がれないって。どこもいける大学がないって。」
(「ここが踏ん張り時。」「ここで頑張らなかったらもう終わりだ」というセリフは、小学五年生の時も、小学六年生の時も、中学一年生の時も、中学二年生の時も、中学三年生の時も、高校一年生の時も、毎学期必ず言われた。
きっと、これからも未来永劫言われ続けることだろう。)
「うん」
「さっさと勉強しなさい。寸暇を惜しんで!いい?光陰矢の如し!チャンスの女神さまは前髪しかないのよ!」
わけのわからない、名言で励まされ、逃げるようにしてリビングを出ていく。
夕飯の時間、母が上機嫌でこう伝えてくる。
「ハル君、聞いて聞いて。あなたの絵が、コンクールに準入選したってね。良かったじゃないの。ま・・・絵で食っているわけじゃないけれど。」
なんとか、ばれずに済んだようだ。
ほっと胸をなでおろすと、自分の部屋に行く。
やはり、何も怖くない。僕は無敵だ。無敵なのだ。
確信しきっていた平安は、一つの現実のほころびでいとも簡単に見えなくなり、そして失われてしまう。
その晩、くたくたに疲れていたにも関わらず、神経は昂ぶり、僕は眠りにつくことができなくなった。床に就いて目を閉じても、巨大な石が自分の胸につっかえているようで、呼吸ができなくなる。布団の上を呻くように、目を瞑っては、目ざめ、目を瞑っては、目ざめを繰り返しながら、右から左へと転がる。
海ではっきりとつかみ取ったあの不動とも思える感覚を思い出そう、取り戻そうとする。
ノートに書き記した言葉を読み返しても、心はその言葉の境地には程遠く、たどり着くことがどうしてもできない。
そんなことを、三時くらいまで繰り返していた。
夜中の四時、やっと落ち着いて眠気がやってきた。ベッドの中でうとうとと眠りにつく。
「バンバンバン!」
目が覚める。
部屋の扉を蹴る音だ。母だ。
僕はすべてを悟った。
「何の嫌がらせでお前はこんなことするんだ!
お前は学校をさぼって喫茶店でフラフラ遊んでいたらしいじゃないか!
学校から電話があったよ。
学校に、通報があって、おたくの学校の制服を着た子が、海の見える町の喫茶店から出てきたって。それで、無断欠席者を調べてみたら、おまえだって話。」
「・・・・」(やっぱり、誰かが通報したんだ!いったい誰が、どこで?)
「なんとか答えろ!」
「・・・・」
「情けないったらありゃしない!!ふざけてるの?あなたは!」
母の怒りが尋常でないことを悟った。
きっと、その叫び声は、何軒も先まで響いていたに違いない。
母は、硬貨かドライバーか何かで、扉の鍵をこじ開けようとしてくる。
僕は一言も語らないまま、扉を押さえつけて、歯を食いしばりながら鍵を開けられまいとする。
一時間ほどそんな問答が続いたあと、母は去っていった。
それでも、いつどんなタイミングで「奴」が来るか分からない。
扉の前で、うなだれるように三角座りを決め込む。
結局、一睡もすることなく朝を迎えた。
*
朝、起きて一階のリビングに行くのが怖かった。
そこを通らなければ、家の扉を開けることができない。
そろーっと、リビングの扉を開けると、テーブルの上にはいつものようにパンとかスープとかが乗っていて、台所では母が家事をしている。
「おはよう。朝ご飯できているわよ。食べなさい。」
そういって、母は微笑む。
言われるがままに、無言で席につき、皿の上に載せられたものを口に詰め込んでいく。
味が全くしなかった。
とにかく早くすべてを詰め込んで、いち早く家を出ようと、立ちあがったその瞬間。
「ふうううううーーーーーっ」という深いため息。
「ねえ、その食事、だれが作ってやったと思ってるの?
あなたのその服も誰が買ってやったと思ってるの?
こんないい家に住まわせてもらって、ごうせいにもご自分のお部屋まであたえてもらって、
デンワなんかもたせてもらって・・・それ誰のおかげ?ねえ?
ここまで、至れり尽くせりしていただいて・・・
裏切るんだねえ。
あ な た は。
飼 い 犬 に 手 を 噛 ま れ る、 とは、 こ の こ と だ な あ。」
うつむいた母が顔を上げたかと思うと、
「お前なんか産まなきゃよかった!死ね!死んでしまえ!!」
と泣き叫ぶ。
皿に端正に盛られた、「手作り」で「愛情たっぷり」のロールキャベツやサラダなんかがひっくり返されて、こっちに飛んでくる。
椅子から立ち上がり、場所をずれようとすると、包丁を持って、母が追いかけてきた。
「本気で殺される!」
僕は、逃げるようにして、家の扉を開け、靴を拾ったまま、靴下で道路に飛び出した。
母のが鳴り声が、路上まで聞こえる。
母は追いかけるように、扉を開けてこちらに呼びかける。
「はるくーん!食器をちゃんと、流しに出してから登校しなさい!」
という言葉の聞こえるころには、僕は自転車を何十メートルと漕ぎ出していた。
靴下のままで。
靴は籠に入れて。
どこまでもどこまでも、ダッシュで道路を漕いだ。
周りの人びとが不思議そうにこちらを見ている。
もうここまで来れば、奴も追っかけてはこないだろうというところに、自転車を止め、改めて靴を履く。
たった数百メートル全力疾走しただけなのに息がやばいほど上がっている。
心臓の鼓動が高鳴り、収まらない。
これは、きっと全力疾走をしただけではないことは明白だ。
息を整えようと、大きく息を吸い込もうとした瞬間、
「うっ!」
何かが胃からせりあがってくるのが分かった。
うっ・・・うえええええ。げほっげほっ。
はあっ・・・はあっ。」
その場で僕は、朝食べたものをみんな戻してしまった。
周りの人たちは、一瞬は心配そうに目を向けるが、すぐに歩き始める。
サラリーマン風の男性が、「大丈夫ですか」と心配そうに声をかけてくれるが、反射的に「大丈夫です」としか言えない。
仮に、「大丈夫ではないです。」と言っても、誰も何もできない上に、きっと誰かに迷惑をかけてしまう。
「あ、大丈夫でしたか。それなら、何よりです!無理しないでくださいね。」と笑顔で立ち去っていく。
そんな状態でも、もはや、「体調が悪い」とか言い訳して学校を休むことはできなかった。
「僕が、何か悪いことをしたのだろうか。
ただ、この息の詰まる日常から逃れようとしていただけなのに。
いつも、僕はロボットのように親に、学校に、友人の空気にコントロールされている。
自分自身でありたい。自分らしくありたい。
でも、誰もそのことを許してくれないようだ。
でなければ、死ねとでも言うのか。」
誰かにわかってほしい、助けがほしいと、勇気を出して、電車の中でデンワを開く。そして、事情をHearTに書き込んで投稿する。
タイトル:「もう辛い」
昨日、学校をさぼりました。
そのことが母にばれて、恐ろしく叱責されました。
もう、限界です。誰か助けてください。
反応が帰ってきたのは数十分のことだった。
何人かの友人が僕のもとから離れて行ったということを知った。
何件かコメントが来たという通知が届く。
一縷の望みを託して開いてみた。
・え?学校さぼった?ありえないよ。何考えてるの。そんなの自業自得でしょ。私だった らそういう息子がいたら、ぶん殴るわよ。叱責されるだけまだ甘いなって思う。
・そういうことを自慢気にアピールして、被害者ぶるのって、あまりにも自己中心過ぎない?
・典型的甘ったれた現代の十代の若者の典型だな。甘えてないで学校行けよ。会社だったら、さぼったってだけで即クビだぞ。
・え?それって当たり前じゃない?自分のわがままで学校さぼってばれて叱られたってだけで限界になって絶望って、メンタル弱すぎwww
・イタすぎるwww
心が凍り付いて、胃がきりきりと痛む。
・・・誰にも相談できない。
・・・誰も助けてくれない。
駅に付き、スマホの電源をオフにして、カバンにしまう。
そして、ぞろぞろと、あの通学路の坂を上っていく。
「なあなあ、ハル、そういや昨日なんで休んどったん?」
ふいにクラスメイトが後ろから話しかける。
とたんに僕はびくっとする。
「いやいや、そんなにオーバーなリアクションせんでもええがな(笑)」
心臓が高鳴り、胸の奥がせりあがるのを悟られまいとしながら、平生を装って
「ああ、ちょっと体調が悪くてね」
と答える。
「へえー。ま、大人になったら体調管理も仕事の一つで自己責任っていうしな。」
・・・誰とも会いたくない。誰とも話したくない。
とはいっても、
「そんなことでどうするんだ?何もできないぞ!」と叱責されることは目に見えている。
仮病でもなんでも使って、誰とも会わなくてもよい状況を作ろう。
保健室に行く。
「少し、休みたいんですけれど。」
「理由は?体調悪いの?熱?」
「はあ、ちょっと、疲れていて。」
「本当にぃ?嘘ついてんじゃない?顔色もよさそうだし、熱もないじゃん。」
と保健室のババアは、
「疲れ、ねえ。寝不足とかでしょどうせ?」
「はあ、まあ、そんなところです。」
「また、どうせ、徹夜でゲーム?デンワ?いじってたとかぁ?」
「あ、まあ、確かに。はい。」
「疲れてるのとか勉強がしんどいのはみーんな一緒!
あなたまだ学生だからいいけれど、あと何年かして社会人になったらね、体調管理も仕事のうちだから。病気になったら、それだけでみんなに迷惑かけるの。
あなただけ特別扱いすることはできないわ。ちゃんとよく寝て、食事も三食取って、ほら!元気出して!ファイト!」
「はい。わかりました。」
「私もこれから会議で忙しいから、ここ開けなきゃならないの。悪いけれど、教室戻ってくれる?ほい!がんばれ!」
あまりにも笑顔だったので、何を伝えていいかわからないまま、僕もその場を去った。
教室に入る。
教室では、何もなかったように(あたりまえか)、生徒たちが談笑している。
僕は、自分の席につき、一時間目の授業の支度を始める。
隣の席の友人が、また同じ質問をしてくる。
「そういや、ハル、おまえ昨日休んでたのはなんで?」
「え、ああ・・・まあ」
「さぼりか。」
瞬間、すべての時が凍り付いたようだった。
全身から血の気が引き、背中から汗が垂れるのが分かる。
(なぜ、この男は、人を傷つけるようなことを何のためらいもなく簡単に言えるのだろうか。)
クスクスという失笑があちこちで聞こえる。
最高レベルの学力を持つ一組だからと言って、何も眼鏡をかけてやせ細り勉強ばかりしている学者のような生徒ばかりではない。(というか、ごく少数派である。)
プライドの塊で他人を見下すような奴だって少なからずいるのだ。
「そうでしょ。聞いちゃった。聞いちゃった。
職員室で、昨日、うちの制服着てたやつを街で見かけたって通報があったと、問題になってたけど、それって、まさかおまえじゃないよね。」
返答に困り、下をうつむきながら目をきょろきょろさせる。
まわりが笑いながら、固まる。
「え、まじかよ。」
誰かが大声で叫ぶ。
「おおい!こいつ、学校さぼって、遊びに行ってたんだってよ!」
周りの人の何人かが、「それ言っちゃだめだろ!」というような顔をしながら顔を伏せる。
その場で、いたたまれなくなって席を立って教室を出ていけたら良かった。
ドラマや映画なんかではそういうシーンってあるじゃない。
なぜか、僕はそのままうつむいて、何事もなかったように席に座って、平生を装うように、教科書を準備したりだとか、筆箱の中身を確認するだとかようなことをはじめる。
頭が固まる。
胃のあたりが不快感に襲われる。
心臓の鼓動がひっきりなしに、非常事態を告げる。
手から汗がにじむのが分かる。
平気な振りをしてなくちゃいけない。
何もない振りをしていなくちゃいけない。
とにかく、動揺しているそぶりを見せちゃいけない。
とにかく、動いていなきゃいけない。
周りでひそひそ声がひっきりなしに聞こえる。
それらの言葉が耳に入っていても、僕の頭は勝手にそれをシャットダウンする。
僕の存在を一つの会社や工場にたとえると、大脳が社長で、筋肉が企画部。内臓とか心臓は、物言わず工場のルールをひたすらこなし消化と生産を続ける従業員だ。
今、外部から僕を潰そうという情報を、脳という社長が察知した。社長が社内に「緊急事態だ」という宣言を出すもの、行動の指示を出せず、企画部も従業員もどうしていいかわからず、大地震の中、とにかく自分自身の持ち場を守ろうと働く。
*
予鈴が鳴り、朝礼に校庭に向かう。
僕の体内は戦時中にも関わらず、脳という優柔不断な社長は常時と同じ行動をとるようにさせる。
その日の朝礼で話をするのは、よりによってドク。
「はい、みなさんおはようございます。
本日の話は、校内の風紀の乱れ、とーくーにぃ、無断の遅刻とか欠席といったことについて。
えー、誰とは言わんがね、わが校の制服を着た生徒が、あー、本来であれば、学校に行っているは ず の 時間帯にぃ、街で遊 ん で い た という現場を目撃したという通報があった。」
周りがざわめく。
「え?まじかよ?」
「誰だよー、そいつやばいな。」
といったひそひそ声が。
何人かがこちらを向く。
僕は目を合わせないように無表情を装いながら下方を見ていたのだが、こちらを向いてきた奴が卑屈な笑顔だったということはハッキリわかる。
「はいはい、静かに。」
(決して、遊んでいたわけじゃない・・・。)
「こういうことはねぇ。
ま、まずありえないということ。
無断欠勤及び、無断での遅刻というものは!ありえないっ!
論外である。
決して許されざれない行為であり、社会であれば犯罪行為に等しいということを、数年後社会に出ていく諸君には身をもって知ってほしい。
たとえ、いかなる理由があるにせよ、だ。
“しんどいからちょっと休みます”なんてのは甘えであって、どれだけ多くの人に迷惑をかけ、そして、仕事に穴をあけ、重大な遅延を組織や社会に対する損害をもたらすかということをよくよく考えてもらいたいっ!
たとえ、電車が遅れようが、40度の熱が出ようが、二日酔いで朝から頭痛がしようが、子どもが急に熱を出そうが、それらのことを言い訳にして、会社を休むなどということは、甘えであり、社会人としての自覚が足りないと判断される。
いいかい?根性さえあれば風邪もひかないし、体調不良などしなくなる。
根性のないものが義務を果たさず権利ばかり主張して通りをのさばるのだ。
そして、当然その分給料はもらえなくなり、自業自得、苦しい生活が待っているのだ。
そして、一度でもそういう真似をした瞬間、社会から永久追放となる。」
(こいつは、自分の辛さがどんなものか分かっていないんだ・・・死ねっていうの?
今こうして生きていること自体が限界なのに、そこから抜け出すことも許されないの?)
「大人であれば、誰でも!誰でも、辛いことに耐えながら、愚痴ひとつ言わず、甘えず、仕事をこなす。それが当たり前なのだ。
勉強もそうだっ!
必死で寸暇を惜しんで勉学に励んだものは高い身分を当然の権利として手にするが、やる気がないとかつまらないとか言い訳を連発して遊び歩いていた連中は当然の報いとして搾取されるだけの過酷な人生が待っている。
しかし!それは自業自得。
社会の役に立たぬばかりか、秩序を乱す人間たちにはそのような処遇が望ましい。
いいか、学校というのは、社会という大海の荒波に比べたら、温泉のようなものだ。」
(・・・僕はこの腐りきった温泉で窒息死しそうですよ。)
「諸君に課せられた義務も責任も限りなく軽い。
ところが、権利だけが肥大し、裕福な親にたんまり学費をまかなってもらい、家や食事、洗濯までしてもらい、あまつさえ、何ですか、ゲームだのスマホだのパソコンだの遊び道具までも、至れり尽くせり、まるでお客様のように扱われる息子や娘たち!
子どもたちはそれをごくごく当然の権利だと思い込み、少しでも気に入らないことがあると、わめき散らす。
どこまで我が儘なのだ。
こんなことが社会でまかり通ってしまえば、近い将来滅びる、この国は!
社会とはお金をいただきながら自分から率先して学ばねば生き延びることができぬ厳しい場所。
しかし!
学校とは、お金を出してもらい、わざわざクーラーつきの部屋で学ばせていただいている。
そのための優れた環境も十分に整っているというのに!
それには、何百万円という巨額の大金がわざわざ君たちのためにつぎ込まれている。
それも、貴重な市民の血税を使ってだ。
・・・のに!
なぜ、君たちはそれを湯水のように当然と思って浪費し、あまつさえ、溝に捨てるような真似を平気でやってのける!
恥を知れ!恥を!
その!親御さんが汗水流して、お前たち一人一人のために稼いだ金を!
何ぃ!?学校がつまらないからという、ただそれだけの理由でさぼって、繁華街だか、なんだか知らないが、大金はたいて豪遊してた、と。
ふざけるな、という話だ。
私が、もしその場にいたら、足腰が立たなくなるまでぶん殴って腐った根性を建て直しているところだ。
世の中なあ、どこにいこうが、大変なんだよ!
つまらないのが当たり前なんだよ!
いつまでも遊んでいられると思うな。」
(・・・ちげえよ。勝手に憶測で決めつけんなよ。)
一組から三組の男女たちは、きっと神妙な顔でそれを聞いているんだろうきっと。離れているから見えないけれど。
十組とその上数クラスの男女たちは、「うぜえ」という顔で、皆一様にうつむきながら、この話がいち早く終わるのを今か今かと待ち構えてそわそわしている。中には眠ったり笑っているものも多い。
気まずさと緊張感の続く中、ドクはさらに長々と続ける。
「ちょっとくらいうまくいかないことや思い通りにならないことがあるからと言って、すぐにふて腐れて挑戦しなくなるのが、最近の若者の悪い癖であるッ!
被害者意識ばかり持って、権利ばかり主張し、我慢や忍耐するということを最近の若者は知らんのだ。
私たちのころであれば、少しくらい厳しくても、なにくそと思って勉強でも仕事でも励んだものだよ。
該当する生徒、もしくは、そういったことをなそうと考えている生徒がいたら、よくよく心から反省して心を入れ替えて、育ててくれた親や学校への感謝をするように。
親や学び舎に感謝もできず、尊ぶこともできないばかりか、それを足蹴にするような人間は人間の屑である。
屑で役立たずの人間が福祉だとか人権だとか言って甘やかされている。どうしようもない。
一層、感謝して勉学に励むように。以上っ!」
朝礼が終わり、生徒の群衆は無言のまま、校舎へと戻っていく。ため息が漏れる。
ドクの言いたいことは、僕でもよくわかった。
しかし、酷い言い草だ。豪遊なんて決してしていない。
ドクは、いや、彼だけじゃなくて、大人たちも、クラスメイトも、誰もかれも、僕の事情なんて知らないのだ。
*
「ま、ちょっとドク先生は頭が固いね。いいたいことは分かるけれど。
ちょっと言い過ぎだね。あー、若者のライフスタイルとかね、えー、もいちょっと理解してあげてもいいのに。
でも、君たちも、ね、しっかりせなあかんよぉ。」
生徒たちに迎合するように、やる気のなさそうな、髪の薄くなりつつある担任が授業前に雑談を始める。
「でも、あれでかなり指導力は高いし、何人も難関校入れてるからね。
ま、でも、みんなも覚えとけよぉ。
会社に入ると、本当に嫌で理不尽な上司とかいるだろうけれども、数年間は絶対服従、ね。
仕事ができるから、会社はその人をそのポストとして置いているわけだし必要な人間だからいるってこと。
長いものには巻かれろ、って本当のことですからね。
ま、みなさんね、あのね、若いし、言いたいことや意見もいろいろあると思うんですけれども、ね、みなさんはね、はい、結構ね、えー、世間のこととか、社会のこと、えー、よく知らないわけですから、素直さって大切ですよぉ。」
同じ話が繰り返される。
「どんなに横暴な大人だって、それなりのポストについている限りは、つまり、社会に必要とされているからその地位にいることが許されているわけであって、自分ではいかに正しいと思い込んでいても、能力がなけりゃ、他人とうまくやっていくことができなくちゃ、単なる必要のない人間どころか、生きているだけで他人に迷惑をかけるしかない社会のお荷物ってところですからね。」
Nowhere Man
という言葉が脈略もなく、一瞬浮かんだ。
僕はいない。
どこにも。
話題はきっと僕のことなのに、誰しもが僕のことではないことをしゃべっている。
僕は、この場所に、存在しているようでいて、実は、存在していない限りなく透明な存在なんじゃないかと思えるようになってきた。
クラゲみたいにただ漂っているだけの。
ノーウェア・マン―僕は、どこにもいない男。
だとしたら、きっと、あらゆる人間があらゆる人間に対してNowhere manだ。
先生の授業を聞いてる奴なんて誰もいない。
前に出て必死でスピーチしている奴のことなんて誰も聞きやしない。
教師も生徒を理解しようとしても暖簾に腕押し。
政治家の話など誰も聞いてやしない。
誰も、喋りながら実のところ語ってはしない。
誰も、聞いてはいながら実のところ耳には入っていない。
もし、感受性のアンテナを敏感にしてこの世界のリアルを感じ取ったら、きっと誰しもが狂ってしまうだろう。
それが賢いやり方だ。
*
職員室か面談室に呼び出されることは覚悟していた。
僕は、厳しく追及されたら、自分の状況や感情をすべてぶちまけて説明するつもりだった。
その先に何か救いがあるように感じられたからだ。
そう思うと、それまで悶々としていた僕の心は、一つの覚悟と決心を固めた。
ところが、そういうことはなかった。
廊下で担任が、
「ま、いろいろあるだろうけれども、な。まあ、数年後は受験だし、息抜きしたいのも分かるけれど、人に迷惑かけないことが大事ですよ。
休むときは無断じゃなくて、次回からちゃんと連絡入れてね。
じゃ、ま、そういうことで。」
とお茶を濁しこの件についてことを済ませ、立ち去ろうとする。
僕は拍子抜けして、「それだけ?」と思う。
担任が、少し立ち止まって、
「ほかに、何か困ってることとかある?」
(よしっ!)
「あ、あのっ。えっと、自分・・・」
担任は、こっちを見ながらうんうんと頷く。
口からうまく言葉が出てこない。それまでずっと考えてきたこと、これまでにあった山ほどのこと、何から話そうかと迷う。
「あの・・・全く勉強が手につかなくて・・・本当に全然進まないんです。」
あっさりと一言返された。
「あー、それはねえ、甘えだよ。甘え。
とにかく、二度とあんなことやっちゃだめだからね。
今朝、ドク先生も言ってたけれどさ。」
(えっ?)
「本当なんです。」
「うんうん。それは甘えだよ、甘え。
とにかく、ああいうことをしたらダメ。人に迷惑だし、少し考えたらわかることだからね。」
「あと、親との関係も・・・ちょっとひどくて。」
「ま、あなたくらいの年頃って誰でもそういう衝突はあるよー。
私だってあったんだから。誰でもある。うん。誰でもあるから、ね。
そりゃ、言い訳にしか過ぎないよぉ。君の言ってるのは、言い訳ね、言い訳。うん。」
「・・・違うんです。そんなんじゃなくて、寝ているときに扉をドンドンってしてきたり、他にも、勉強をしろってうるさく叩いてきたりとか。」
「ありえない、ありえない(笑)
え?見たところ、全然普通のお母さんじゃない?面談で話したときなんか本当にいいお母さんだったじゃない。
君にもいろいろごちそうしてくれてるんじゃないの?親が子に勉強しろってうるさく言うのは普通じゃない?
あなたのほうが我が儘いってお母さんに迷惑かけてんじゃないの?
ちょっと頭を冷やして反省してごらん?
えと、お父さんはどうしてはんの?」
「今ちょっといません・・・。」
「いないってどういうこと?」
「自分の親のことなんだから、それくらい自分でしっかり知っておかないとぉ。
親孝行できない人は何やっても無理だからねえ。ま、とにかく、ああいうことはダメだからねぇ。言い訳せず、一度本気で勉強頑張ってごらん、ね?
分かって反省したならいいんだよ。じゃ、ま、がんばって!」
「・・・・」
(だめだ・・・この人。)
廊下を歩きながら、釈然としない気持ちが残る。
数十分たって、そのモヤモヤがはっきりと形を取って脳内に現れてきた。
(人の話もしっかり聞かずに、何が甘えだ!チクショウ!)
もう、あの担任に何か相談するのなんてやめよう。
放課後、電車の中でデンワを見る。
僕の投稿が、こともあろうに、拡散されていて、炎上していた。
ありとあらゆる非難のコメントが何十件も寄せられており、目を細めながら、そのひとつひとつを読まずに削除した。
言葉の針とはよく言ったものだ。
心理的なものかもしれないが、心臓と内臓内部に直接刺さるようにそれらはリアルな感覚として身体も痛めつける。
そして、同時に、SNSのアカウントも削除した。
*
電車から降りた瞬間再び僕は吐いた。
家に帰るのが恐ろしかった。
恐る恐る扉を開けると、リビングには母の姿が見当たらない。
「あれ?どこかに出かけたのかな?」
と思いながら、少し安堵しつつ、一息ついて休もうと、自分の部屋の扉を開ける。
僕の部屋の中が、散乱している。
母が部屋の中に座りこみ、ビニール袋をそばに置いて、いろいろと部屋にあった雑誌だとか漫画だとか本とかチラシだとかを投げ込んでいる。
「何勝手に俺の部屋に入ってきてんだよ!何やってんだよ!やめろよ!出て行けよ!」
「何よ!?私はね、あなたの部屋が汚いから掃除をしてあげているだけじゃないの。」
「俺の部屋だよ!」
「誰が、あんたの部屋ですって?この家は誰のもの?お金出してあげてんのは誰だと思ってるの?飯食わせてあげてるのは?
誰が赤ちゃんの時、あんたのおしめ替えてあげたと思ってんのよ?」
返す言葉が毎回のことながらないが、言いしれぬ怒りが内臓からこみ上げてくる。
(いろいろやってあげたから、すべてのことに従うことは当然だとでも?)
「やめろよ!」
「あなたがね!親に隠れてこそこそ自分の中にこもって何かやってるのは知ってるんだよ!」
「はぁ!?」
「今回のことだってね!なんで親にも学校にも秘密にするんだい?
あんたみたいにこそこそと隠れて悪さする子は、ちゃんとこうやって親が管理しとかなきゃいかんのよ。
まったく、私があなたのせいでどれだけ恥かいたとおもってるの!?」
「やめろよ!やめないと警察を呼ぶよ!」
「あほか、お前!たかだかこれくらいのことじゃ警察は来ないよ!」
「俺がどれだけ迷惑してるかわかってんのかよ!」
呆れかえって、部屋を出て行く。
トイレで、意を決して110番を押す。
「はい。警察です。事件ですか?事故ですか?」
「うちの親が、勝手に僕の部屋にきてものを漁ってるんです。出て行ってくれと言っても出て行ってくれません。」
「はあ・・・そういうのは。何?虐待とか受けてるの?お酒飲んだお父さんが暴力ふるったりとか、タバコの火を押し付けたりとか、そういうことされてるの?日常的に?」
「いえ、そういうことはないのですが・・・」
「そうじゃないのぉ?それくらいじゃないと、刑事事件にならないから、民事に関しては、警察って動けんのですよ。
それくらい、自分でどうにかしなさいよぉ。
君、高校生?いたずらでそういうことしちゃだめだよ。
あなたこそ、むかついたからとかいって、親を殴ったりとか暴力くわえたりしてないでしょうね。そういうのは刑事事件になるんだけど、民事の場合は警察は介入できんのですわ。
で、どうします?来ましょうか、やめましょうか?」
「・・・おねがいします。」
「あー、はいはい。ふぅー。で、一応住所は?」
十分後チャイムがなり、警察がやってきた。明らかに面倒くさそうな顔をして。
「こっちです。」
母は急に猫なで声になり、「あらぁ、お世話になっておりますぅ」。
僕は、うつむき加減で「母を、追い出してください。嫌なんです。」
中年の警察官が手帳にメモを取りながら言う。
「ま、気持ちはわかるんだけどね。こういうのは、民事だから、警察は介入できんのよ。
何?暴力とかがあったの?」
「いえ・・・。」
母が叫ぶ。
「あんたが勝手なことするから、老婆心でわざわざやってあげとるだけじゃないの!
私はねえ、親として、あなたのことを心配して思って言ってあげてるの!あなたのためをおもってのことよ!」
「だからって、勝手に人の部屋漁るなよ!」
年配の警官が「まあ、まあ」と止めに入る。
「ああ、そう。
まあまあ、こういうことはね、子どもの時は分からんで『なんやこのやろー、ちくしょー』って理不尽に思っていたことでも、いざ、働き始めて子を持ってみると親の気持ちがわかってくるもので、ね。
ほらあ、お母様も、あなたのためを思ってやってくれたことだから、さ、感謝して、許してあげて、ね。」
「そうよそうよ。あなたはねえ!親の気持ちを分かるべき!」
本当は言いたいことはあったが、反射的に
「・・・はい。」
と力なく言うしかなかった。
「また、当事者同士で話し合って、解決してください。
お互い、冷静に、冷静にね。
息子さん、くれぐれも暴力はふるうなよ。
では、また。
もっと、血みどろの争いか暴力か、虐待の現場かと思って心配したのですが、痴話げんかで安心しました。
では!」
もう一人の警官が記録として書いていたメモをもういいかと言った具合に閉じる。
警察官はパトカーに乗って去っていった。
母は、笑顔を作りながら丁寧にお辞儀をして警察官を見送った。
そして、パトカーが見えなくなると、無言で部屋に入る。
「バサッ」
ノートが自分の顔めがけて飛んでくる。
そのノートは見覚えがあった。それは、自分が中学生時代から文章だとか詩だとか日記を書き溜めてきたノートだった。
「お前がね!日記に秘密でお母さんの悪口を書きなぐってんの、知ってんだからね!
あと、コソコソと人に隠れて、カバンに学校に関係ないくだらない本だとか持っていってるんでしょ!
インターネットでもくだらないこと書きこんで・・・どうせ、メンヘラ女か何かと知り合って陰でこっそり密会でもしてるんでしょ。
あなたねえ、そんな年でセックスしようっていうの?
ふざけんなよクソガキ!」
ネットで別の女と会話をしたことはあるが、密会などしていない。
日記に、母のことを書いたのも、カバンに小さな文庫本、そして、たまに漫画を入れてるのは事実なのだが・・・
問題は、きっとそんなことではない。
「やめろよ!」
「え?何?悪いのはあなたでしょ!
あなたのほうが警察に逮捕されて少年院でも入るべき人間じゃないかしら。
ほら?さっきのお巡りさんも言っていたけれど、これは、正しいことなの。」
それから、部屋にあるもの、コップだとか本だとか花瓶だとかペン立てなどを手あたり次第投げつけてくる。
「お前馬鹿じゃねーの!!
情けなくて、お母さんは、涙が出て仕方ないわっ!!
こんな子に育てた覚えはありませんっ!!」
渾身のビンタが飛んでくる。
なぜか、歯を食いしばりながら被害者面して泣き叫ぶ母。
「あんたねえ!もっと親の気持ちになって考える能力というものがないの?
思いやりのない子だねえ。
あんたみたいなっ!世間に迷惑をかける子をもって、お母さんは恥ずかしいったらありゃしない。」
分からない、分からない。
いったい自分が何をしたのか・・・ということは多少自覚があるにせよ、やりすぎだ。
(ダメだ、自分が暴力をふるったらだめだ。もし、ふるってしまったら、自分の中の大切な何かが壊れてしまうような気がする・・・。)
と、衝動的に手を出したくなるのを抑える。
自分の中には、暴力や怒りを振るわない間、耐え忍んで我慢している間は、いつかどこかで守ってきたものの中から未来が切り拓けると信じたかった。
だから、我慢した。
どんなに自分が踏みつけられても、嫌な目にあっても。
「私はねえ、うちの子が犯罪を犯すようなことがあったらねえ、世間に顔向けができないと、息子を殺して自分も死ぬと決めてるの!」
「おいおいおい!犯罪、犯してない、犯してないよっ!
はあっ?お前のほうこそ、息子の気持ちを分かれよ!」
「親に向かってお前とは何ですか!?」
「・・・っ!もういいよ!!」
僕は、そのまま家を出ていった。
「こら!勉強はどうするの!?
親がねえ!せっかく高い学費を出してやってるんだから、勉強をしなさい!」
という文脈に沿わない声が聞こえてくる。
何か言いたかったが、きっと何を言っても滅茶苦茶な論理で言いくるめられて、きっと不毛な議論に終わってしまうことは予想が付いた。
だから、その場をやり過ごすか逃げるくらいしかなかった。
そうでなければ、きっと、僕はどこかでキレて暴力をふるっていたかもしれない。そうすると、警察がやってきて、僕は少年院かどこかに送られ、学校も退学になる。
*
もう、家には帰れない。
夜の公園に出ていく。
たくさんの家に明かりがともっている。
その中から、子どもの笑い声が聞こえてくる。
公園でずっとブランコを漕いでいた。
どこにも行き場所がなくて、住宅街をさまよっていた。
コンビニで時間をつぶそうとするが、雑誌という雑誌にはテープが貼られており、「立ち読み禁止」。
公園に戻って、小さな灯りの下ブランコを漕ぐ。
寒くて仕方がない。
寂しい。
誰かと話したくて仕方がない。
デンワの電源はすっかり切れてしまっていて、誰とも繋がらない。
ブランコというものは下を向きながら漕いでいるうちに酔ってくるものだ。
ブランコを止めながら、放心状態になる。
風の通らない部屋、明るい部屋でゆっくり過ごしたい。
布団で眠りたい。
怖い、怖い、怖い。
怖くて仕方がない。
「神さま、いるんですか。
いるんだったら、助けてください。
なぜ、僕だけがこんな目にあわなければいけないのです。」
と心の中でつぶやく。
今まで幾度となく祈るようにして心の中で思ったこと。
そのつぶやきが聞かれることなんて今まで一度もなかった。
*
やはり暇で暇で公園を出る。
道路にパトカーが止まっているのを見た。そばに警官が立っている。
直感で悟った。
「きっと、母が、僕が家出をしたことを知って通報し捜索願を出した」と。
「僕を追っているんだ!」
そうでなくとも、こんな真夜中に少年が出歩くことは条例で許されてはいない。
気が付かれないように身をそーっと引く。
「かくれんぼ」「缶蹴り」「どろけい」という遊びを小学校の時よくやった。
今僕が直面している状況は、リアルだ。
見つからないように見つからないように、そう思っているときに限って、タイミングよくその恐れていたことは起こるものなのだ。
どうも、人生全般には、「絶対にこうなってほしくない」と願っている最悪の状況のすべてがいつか身に降りかかるようにできているのだ、きっと。
幼少の時から薄々この人生の法則に気が付いていた。
低学年だったかのころ、お友達の家にお泊りに行ったときに絶対に失敗しませんようにと祈った時に限ってオネショをしてしまい、笑いものになる。
みんながやっていると思って、テストの裏に落書きをすると、そのときに限って誰もしておらず、自分だけ担任に呼び出され、全員の前で注意されたあげく、家庭に電話され、こっぴどく怒られる。
出来心で自転車を止めた場所が駐輪禁止区域でその時に限って見回りに来たオッサンにキレられる。
挙げていったら万事きりがない。
そんなことを考えている暇もなく、ふと振り向いた警官が、
「そこの君、ちょっとまちなさい」と近づいてくる。ダッシュで角を曲がり、公園の草むらに逃げ込む。警官はパトカーに引き返して、サイレンを鳴らしながら前方に走っていった。
パトカーの走っていったのと反対にダッシュし、駅に向かう。
ちょうど電車が来ていてそれに乗り込む。
定期券の圏内の繁華街の街に逃げ込む。
よく考えると、繁華街のほうが補導は多そうなものだが、孤独に耐え切れずに出て行った。
そこまで大都会とは言えないものの、夜の街には、少なからず人通りがあった。
広い公園を見つけ、ベンチに座りながら、遠くでダンスをしたりギターを鳴らしている若者たちを遠めにみる。
時折、何人かのサラリーマンが目の前を行きかう。
通りをさまよっていると、おっさんが声をかけてきた。
髪の薄く見たところ普通の人。
「わかいお兄さん。なんで、こんな時間にこんな夜の街をフラフラしとるのお?
お兄さんみたいな若い子が一人でこんなところ歩いてると危険だよお。」
一瞬、びっくりした。警察でもない。そうだ、都会には家出した子どもを捕まえて売り飛ばすヤクザがいるというが・・・。
「ボクはねえ、ここら辺に住んどって、夜中いつもこの公園を散歩しとる者なんだけどね。」
「そうですか・・・。僕は、えっと、親と喧嘩して家で中みたいな感じでして。」
「あらー、なんと。泊まるところはあるのお?」
「いえ・・・。」
「ま、家出と言うんだからないわな。泊めてくれる友達とかはおらんのか?」
「いえ。」
「こんなところで寝とったら危ないよお。そうだ、近くに、安い漫画インターネット喫茶がある。そこにしいね。」
「ありがとうございます。」
「ああ、じゃあちょっと案内するよお。」
男についていく。
「・・・あ!そこは、ちょっと君くらいの子には高いと思うんだけれども・・・。お金あるの?」
「・・・いえ。」
「そうかいそうかい。・・・もし、それで泊まるところがないんだったら、うちにとまりいな。」
渡りに船だ。
世の中、悪い人ばかりではない。
こうやって困っているときに助けをくれる暖かい人もいるのだ。心が安らいだ。
「ありがとうございます!」
と、オッサンについていく。
数分ほど歩く。裏路地の小さな六畳程度のアパートでオッサンは、独り暮らしをしていた。
「飯は食うたか?」
「いえ、まだです。」
おにぎりやカレーを作り、それをふるまってくれる。
「まあ、食えよ。遠慮せず。」
こんな親切な人もいるのだと少し救われた気持ちになった。丁寧に目の前の料理に対して手を合わせる。オッサンは煙草を吸い始める。
「兄ちゃん、お前も吸うか。」
生まれてはじめて煙草を吸う。
不良みたいなことをしてしまった。まあ、どうでもいいや。いけないことをするというのは、どうも気持ちがよい。
肺の中まで吸うことをしらないで、頬に煙を含んで吐き出した。
口の中が煙たい。やはり、むせて、咳をしそうだったが、悟られないように平生を装いながら、煙を吐き出す。本当は肺まで入れるようなのだが、こんなものを吸い込むだけでどうなるかということか。
「若いんだから、あんまり吸いすぎるなよ。辞められなくと後悔するから。」
オッサンは陽気に肩に手をかけ、膝を叩いてくる。
いろいろと、自分がなぜここに来たのとか、学校ではどういう風に過ごしているかとか、そういうことを話した。
ただし、僕は自分の名前は明かさなかった。
オッサンは、社会に入ってから、学校の勉強など一度も使ったことがないということだとか、会社での人間関係が辛いだとか、どこに行ってもブラックな会社が多いという話ばかりしていた。
どうも、ヤクザとかその関係の人ではない、安心した。
「そろそろ寝るか。」
オッサンは、布団を敷いて、自分も隣に毛布を敷く。
「おい、こっちに来るか。」
何も考えず、布団に入った。
・・・ところ、オッサンに抱きしめられて、口づけを迫られた。
一瞬何が起こっているのか、目の前のことが全く理解不能だった。
「ちょっ、ちょっ、ちょっと・・・!」
思わず、身体をこわばらせ、オッサンの迫ってくるのを引き離す
・・・こともできず、なすがままにされるしかなかった。
そのまま制服を脱がされ、だきつかれ、舐められ、出され。
「へー、これが、男同士の肉体関係というものか」
と冷ややかな目で何も感じずにことを済ませた。
「兄ちゃん。よかっただろう!」
と汗ばみながらおっさんは言う。
「いや・・・僕、そういうのじゃなくて・・・・
あの・・・すみません。僕は、えっと、ノーマルなので、そういうのはちょっと。」
「え?なに、兄ちゃん、やりたくて夜の町うろついてたんじゃねえの。」
僕はこの時人生で初めて、同性愛者という存在を知った。
「いや、失礼。すまなかった。」
もう一度起きだして、オッサンからいろいろな話を聞く。
「自分は、どうしても女に情欲しねーの。
男に対して情欲を感じるというのに、それを誰にも言えないで、肩身の狭い思いをしていたよ。差別もされたし、白い目で見られたりもした。
兄ちゃんもてっきり、なんだ、雰囲気からして、そういうパートナーを探してこの街をうろついていたのかと思ったよ。」
「ちなみに、僕は、断じてゲイではないですから。」
「まあいい。いずれ、目覚める時が来る。」
「いいえ!やめてください!」
(僕の人生の初の口づけというものが、同性になってしまった。
どうしよう、どうしよう。)
少し面白い体験をしたと思いこもうとはしたが、じきに、後味の悪いものを感じ、身体が震えはじめてくる。
「・・・こんなのは、やっぱ、だめですよ。」
「え?よかったでしょ。」
「・・・嫌でした。」
「いやいや、そんなこと言っちゃって。」
「・・・・本当に、嫌でした。」
「・・・そうか、ごめんね。」
その謝罪の言葉を聞いて、僕の震えはわずかばかり収まった。
女性がレイプされたとかいう事件を聞き、心にひどい傷を残すというのが分かったような気がした。
自分が汚されたような気がした。
<男性→女性>であれば、世間のだれもが同情して、苦しむ被害者に対して慰めを与え、犯人を憎むだろうが、こういうケースは逆に僕が笑いものになるに決まっている!
しかも、相手が暴力を振るう奴だったらまだしも、かのオッサンはか弱い一人の善人で寝床を提供し、食事まで用意してくれたというのだから、恨むに恨むことはできない。
差別はいけないとわかりながらも、僕は、あのオッサンを心の中で白い目で見て軽蔑していた。
あのゲイのオッサンに悪気がなくて、たぶん、僕と同じように寂しかったのだろうということまで余裕にも頭に回る僕がいた。
しかし・・・!この世に純粋な思いやりなんて存在しない。
やっぱり、神様なんていないのだ。
「許してやりなよ。相手にも事情があったんだよ。」という僕の中の誰かの声が、僕の中で響く。
「人を裁くな。裁く人は、同じように裁かれる。もっと広い心を持ちなよ。」「恨むな。新しくカルマを作りたいのか!?」と続いて、それは告げる。
許そうとするのだが、それでも、いかんすかない自分がいる。
「被害者意識というのを捨てることだね。」とさらにその声は告げる。
僕は、このモヤモヤを抱えた自分自身の心の「小ささ」を許せないでいる。
再び真夜中の夜の町を歩く。
あの唇の感覚と、たばこの煙が頬の中にへばりつくようで気持ち悪い。
(きっと・・・罰だ・・・。これは、因果応報だ。
過去に、僕も数えきれないほど、自分本位に女の子たちに迫りよって、迷惑がられたことがある。好きだった女の子にいたずらもたくさんしてきた。
きっと、彼女たちは怖がっていただろうし、悲しんできたに違いない。きっとそのことに対する天罰なのだ・・・)
なぜ、あそこで、僕は多少値がはっても、漫画喫茶に入る選択をしなかったのだろう。
なぜ、あそこで、僕は都会に出てくる選択をしたのだろう。
・・・どこにも選択の余地はなかった。
人生というものが選択の連続によって作られているとしたら・・・。
僕の人生には、必然的に、どれを選んでも被害者として弄ばれる選択肢しか残っていないのではないか。
あらゆる男という男対して疑念と恐れがわく。
誰しもが弱い人間だ。誰しも悪くなることを望んでおらず、いい人でありたい。
それでも、人は誰かから傷つけられて、その傷を癒すために、誰かを犠牲にし、迷惑をかけ続けなくてはいけない。
いったい誰が、こんな状況の中で、利己的であることをやめることができる?
「仕方がない仕方がない」とぼやきながら、一番弱い立場の人間が踏み台にされて、虐げられていくのだ。
愛されているとは何だ。
都合の良い人間だということか!?
*
夜の街はさらに暗くなる。
ネオンライトだけが明々と輝いている。
大きなトラックが時折ミシミシと音を立てて道路を走り抜ける。
地下のネットカフェに入る。
カウンターで、きっとまだ慣れていなさそうな新人の茶髪じみたバイトが眠たそうにそっけなく対応をする。
たぶん、年齢はごまかせた、ように思う。
幸いにも財布はあったことが救いだった。
天井のむき出しのパイプの配線や石綿。
違うブースから聞こえるとてつもないいびき。
薄暗く狭く寝返りも打ちづらい個室。
漫画を読んだり、ネットをしていて、たくさんの情報は僕の眼から脳内にインプットされて、その刺激は一時的に何かをごまかすような形で忘れさせてくれる。
気を抜くと、暗い部屋の中に一人ぼっちでいる自分が、ますます孤独で不安ばかりが募る。
心臓がどきどきと鳴るのを抑えられない。
抱き付かれた感覚、親が自分をつけ狙っているという恐怖、クラスの人間たちの視線
それらの観念とか映像が脳内でグルグルミックスされて、頭から離そうとしても無理で、
心臓が何か黒いものに掴まれて支配されたように締め付けられる。
いかなるところに逃げ込むように行っても、きっと安心もない。幸せもない。
「ズゴゴゴゴゴゴゴゴ」
「グガガガガガガガガガガ」
ブルドーザーのごときいびきが鳴り響き、結局今晩も一睡もできなかった。
いたるところにゴミが散らばり、カラスが飛んでいる朝の街並み。
その中を惨めな男が身体を引きずるようにして歩いていく。
少しずつ少しずつ、自分というものが、削り取られていく。
誰からも、自分は誰かの欲望を満たすための都合の良いオモチャにされる。
人間、誰もかれもが我が儘だ。
僕はいつも誰かの操り人形。
誰も助けてはくれない、誰も。
人通りの中、誰しもが、今ここにこれほど苦しんでいる人間がいるとは思わないだろう。
まるで、僕はこの世界に居ながら、この世界から隔絶され、地獄の穴底に放り込まれた気分だった。
それに、きっと、誰もどうすることもできないのだ。仮に誰かが、僕のことを知って、僕に多少の哀れみをかけてくれたところで。
知っている。
知っている。
警察だって、学校だって、保健室だって、どうすることもできなかったのだから。
とっかえつっかえ、誰かが「お前のことを心配している」というふりをしてきて、僕を支配しようとする。
この社会のすべてがそういう構造になっていて、誰かは誰かの道具になっている。そして、その誰かも、知らない誰かの道具になっている。誰もが誰もに対して道具になっていて、本物の人間なんてこの世界にはきっと一人もいないんだ。
どこに行っても、逃げ場所なんてない。
他人の人生を生きている。
愛されることすらも怖い。
僕は、その愛に応えたいとおもうのだが、その愛を裏切ることが恐ろしくてたまらなかった。
僕は、愛に縛りつけられて、「愛の奴隷」になっていたのだ。
人間とは、安心できない存在だ。
僕は、人を信じることをやめ、心を閉ざしてしまおうと思った。
それでも、やっぱり平気な振りをして、学校に行く。それ以外に考えつくことができなかった。
結局僕は、この期に及んでどこまでもノーマルであろうとしたい。
何かをなす勇気がないのだ。
(まだ、大丈夫、まだ大丈夫。いままでしんどくても何とかなってきたのだし。)