サボリ
ある日、僕は心のなかであることを決意した。
いつも降りる駅に僕たちを詰め込んだ電車が到着する。
僕も満員電車の端っこに座っていた一人だった。
扉が開く。
「○○駅―○○駅―。」
周りの乗客はぞろぞろと開いた扉から流れ出していく。普通だったら、僕も一緒に流れ出していくようにこの社会のルールに従う形で簡単に条件付けされていたはずだった。
ところが、僕はその条件付けに逆らってみたのだ。
方法は簡単で、「そこで動かない」「なにもしない」という選択肢を選ぶだけだ。
すべてを自分の手から離してやろうとふっと思う。
膨大な欲求不満をため込んでいたダムが決壊して氾濫を起こすときなんて、端緒はいつもこんな小さな亀裂に違いない。
「もうそろそろ少し楽になりたかった。疲れ切っていた。休みたかった。」
それだけだ。
ため込みすぎて行き場をなくした心の中の言い表せない鬱屈は、捨てることのできないまま、コップにたまっていき、あるとき、表面張力の限界をこえて、一滴をこぼす。
そして、そこから、それを追うようにして中身が次々と外に流れ出していき、コップごと壊れてしまいかねない。
思うに、若者総じての無気力、無関心、無感動、しらけ、学級崩壊や、不登校なんていうのは、誰しもが異常な社会の中で、鬱屈の決壊や氾濫を防ぐためのひとつの儀式として機能しているんじゃないか。そして、大人たちは、それを嘆きながらもあきらめ半分で、まあいいかと、その日常の儀式を淡々とこなしていく。それに加担するようなインターネットだとかの文明の利器も、次々と発明されていき、人間の主体を殺していくのに一役買っていく。
暴動も戦争もデモも内戦も飢えもないこの半ば理想郷のような社会の形に、もうこれ以上何も求めるものなどない。形式だけでも守っていくために全員が結託して、自分自身を抑え込んで、殺しながら生きている。
この世の中で立派に生きていくってことは、感受性を麻痺させて愚鈍になって生きていくってことだ。
心臓が高鳴る。意図的に野暮ったい気持ちを高める。
「もう、どうでもいい。どうでもいいや、何もかも」
すべてを流れに任せる。
ドアがプシューッという音を立ててしまり、電車が動き出す。
(ああ、ついにやってしまった・・・。)
しらっとした顔で外の景色が流れていくのを見ている。
僕の心も時速80キロで流れていく。
日常の変わらない光景は僕の心にとっては嵐だった。
電車は終点の駅に到着する。
ふと、僕は、いつも想いを寄せているあの港町に行ってみようと思った。
電車を乗り換えて、海の方まで向かう。
見慣れない制服を着た地域の学生のなかに、一人だけどこにもない違う制服を着た僕という学生が混じっている。
通勤のサラリーマンや、少なくなってきた学生の群れも、どんどん少なくなっていき、海に近づくころには、あの満員電車からは人がいなくなり、車両には制服を着た僕だけがただ独り座っているだけだった。
電車は海沿いの線路を走っていく。
「いま、自分は犯罪的行為に手を染めているのだ・・・!」
十組の多くの者がやるように、万引きに手を染めたわけでも、無賃乗車をしたわけでも、タバコや酒を飲んだわけではない・・・!
孤立
孤独
不安
恐怖
そして、高揚。
背中にぎっしりと「後ろ髪を引かれる思い」がはりついている。
ひとり、海沿いの港の小さな無人の駅に降り立つ。
駅を降りると、改札口からは一面の海が見えた。
風が吹く。海の香りがする。
こういう空気は嫌いじゃない。
無人の改札口。
自動改札機すらもなくて、僕はそこを通り抜ける。
誰一人いない海水浴場の砂浜を横目にみながら、町並みを歩いていく。
喫茶店に入る。
「いらっしゃいませ」と、一人のおばさんが抑揚もなくカウンターで皿を洗いながら言う。
五、六人の先客がすでにおり、それぞれくつろいでいるようだった。
ほっとした。
店のおばさんが不愛想に
「あらあ、学生さん、あなた今日学校はどうしたの。」
・・・と聞いてきたらどうしようかとオドオドしていた。
できるだけ目立たない隅のほうの席に座り、コーヒーを頼む。
僕にとって、喫茶店で過ごす時間こそが一番の至福の時だ。
おもむろに買ったばかりの真っ白なノートを開いて、深呼吸をすると、日記を書き始める。
「○月×日
今、僕は、浜辺の町の喫茶店にいる。」
ところが、数行書いただけで、何も書けなくなってしまった。
言葉が出てこない。
きっと、僕の全身は今置かれている事態を察知して、ゆったりと文藝などにうつつを抜かす余裕など判断したのだろう。
それでも、僕は、気を紛らわせるために、そのノートに何でもいいので落書きをはじめる。
落書きがやけにアヴァンギャルドでグロテスクだ。
店においてある漫画を手に取って、読み始めるのだが、何一つ頭に入ってこない。
テーブルの上に突っ伏して、眠ることにした。
今頃、自分のいない教室ではいつも通りの日常が繰り広げられているのだなあと思う。
たった一人きりで、周りには誰も知っている人がいないのに、よけいに他人の目線が気になって仕方がない。忘れよう、振りほどこうとしても、その目線は僕の脳裏に居座って僕を支配する。
誰か、傍にいてほしい。
誰か、自分に気が付いてほしい。
話し相手になってほしい。自分を受け止めてほしい。
衝動を抑えきれなくなって暴れだしそうなのを理性でかろうじて抑えながら、じっと席にうずくまる。
お昼をまわったころに、喫茶店を出る。
街を散策することにした。
買い物帰りの主婦たちが、談笑をしながら歩いていく。
幼稚園帰りの親子連れが、楽しそうに手をつないだり抱っこされたりしながら、通りを歩いていく。
それを見て、なぜだか知らないが、涙がこぼれそうになって、じーっと目で角を曲がっていくのを見ていた。
抱かれている幼児がこちらを振り向き、笑顔で手を振る。
僕も、微笑みながら振り返す。
母親がぺこりと挨拶して、そそくさと角を曲がっていく。
「愛されたい。いまさら我が儘だと思うけれども、愛されたい。」
*
そう思って、顔を上げたとき、遠くに「橋」が見えた。
山から、白い一本の道がアーチ状に高く伸びていて、それは、水平線の向こうのはるかかなたの「新大陸」にまで伸びているようだった。
「新大陸」の島影すらも、水平線の向こうであって、見えない。
ただ、一本の白く細い橋が日光に反射してキラキラと輝いていた。
なぜ、気が付かなかったのだろう。
僕は、自分が学校をさぼったことも逃げてきたことも忘れて、すっかりその風景に見とれていた。
その時、とても幸せで平安な気持ちに包まれていた。
学校をさぼり、ここまで逃げてきたこととかが実は小さなことのように思われた。
今、現実に起こっていることは、本当は夢のようなことで、嵐の海の表面にしか過ぎない。
しかし、今、僕の心はその嵐の海面から遠く離れた穏やかな海底にいるのだ。
呼吸は穏やかになった。
そして、身体も軽やかだった。
今ある具体的な状況はきっと何も変わっていない。
けれど、この心の平安は真実のものだ。
それは、距離を取って逃げてきただけではない。
現実に意識がしがみつくのをやめて、すべてを手放してみた瞬間だった。
「なるようになれ」とすべてを捨てた。
その瞬間、ひどく楽になった。胸のうちから笑いが込み上げてきた。
何千億もの海の波のキラキラが目に飛び込んでくる。
これらの広大なすべての風景は、自分と完全に違う巨大な対象物だと、僕は今まで思い込んでいた。
ひょっとすると、そうではないのではないか。
目に見えるもの、耳で聞くもの、肌で触れるもの、すべては僕の中にあるのではないか。
僕が、風景を見て感じて嗅いでいるのではない。
僕が、風景なのだ。
風景が僕なのだ。
風景の真ん中にある空白を確かめたら、それは僕という意識にしか過ぎなかった。
この果てしない砂浜も、水平線のかなたまである水も、照り付ける太陽も、僕とひとつのものだ。
学校では、天体について学ぶ、海について学ぶ、脳について学ぶ。
きっと、ほとんどの人がそれを事実や真理だと認めるだろう。
しかし、それ以上は学ばない。つまり、「について」以上のことは学ばない。
海そのもの、風そのもの、太陽そのものを受け取ることは一切除外されている。
愛するということは、そのことについての知識を知ることではなくて、そのことそのものと対面することだ。
ここには、何の説明もあってはならない。
海や風や山と僕はひとつながりで、同じ力が、すべてのうちに働いている。
僕は、砂浜に座って、ひたすら風を感じ続けていた。
ザザーンという音が無限に寄せては返しをする。
学校をさぼった現実も、身の置かれている状況も、海の波のキラキラも波の音も、太陽も空もすべてが混然一体となって、うごめく様に変化しながら、流れていく。
あるがままに任せることにした。
無敵になったような気がした。
何があっても大丈夫なんじゃないかと思い込めた。
家に帰るまでの電車のなかで、心はとても落ち着いていた。