天才
そうやって、詩や芸術に対する腐ったような気持ちの悪い未練を断ち切ろうとしていたころ。
そういう、状況的にも精神的にも出口のない中で、ある日・・・
僕は、見てしまった。
一人の天才を。
ショウ。
名前だけ知った。
教師が事務的に、「校誌」を配る。
十組の教室は、興味なさげに私語を繰り返す。
僕は、配られたその冊子を読む。
何気なくパラパラとめくった文章と詩にひとつの非凡さを感じた。
ハッと息をのみ、頭が真っ白になる。その感受性に雷のように打たれる。
ショウの名前のあるところだけ、まるで、凡庸な平地に巨大な山がそそり立つように輝いているように見えた。
のだが、おそらく、大半の人間はそれに興味などない。
彼は、濁りなき目を保ちながら、言葉を単なる記号や表象以上のものとして、現実を描く絵筆としてくっきりと、瞬間の生命を捉え、形にしていた。
その言葉は、現実の奥を描きだしながら、現実を生み出す生命であった。
彼の世界に引き込まれ、周りのものが全く見えなくなった。
「紛れもない、天才・・・。
きっと、紹介した教師も、この文章を書いた人間の内奥のとびぬけた深さをきっと理解してはいない。これを書いた奴は、誰だ・・・どこにいるのだろう。」
しばらくして、思い当たる節があった。
文化祭の時、人前で自ら作詞作曲した曲でライブをやってのけ、同年代のティーンを熱狂させていたやつがいた。
そうか。
ああ、彼が書いたものだったのか。
*
下校中、ギターを持ち、駅で歌っている彼を見た。
よく、路上で見るギターの引き語りの一風景。そこに彼はいた。
しかし、それは明らかに普段なら通り過ぎるそこらへんの路上の演奏とは明らかに違っていた。
髪の毛をいつも固め、逆立て、肩のあたりにはタトゥーじみたものが。
いつもチャラチャラしているような奴・・・そうとしか思っていなかった。
歌声は、高校生離れした、まるでプロのように透き通る美しさを持っていた。
ギターに至っては、その完成度は洗練されていたと言ってもいいだろう。
歌詞は、―その典型的に堕落しきった若者のルックスとは裏腹に―あまりにも、深く、哲学じみており、それでいながら、聞く人に共感を覚えさせるようなものだった。
あまりにも美しい感受性を持った曲だった。
彼のパフォーマンスは、一つ一つが祈りに似た何かを感じさせた。
彼の創り出した「空間」―「世界」といってもいい―を僕ははっきりと感じ取ることができた。
そして、僕はすっかりその空間と世界に巻き込まれ、我を忘れていた。
演奏が終わる。
ゆっくりと、手をたたく。
一回一回に精一杯の驚嘆を込めて。
周りから、「すごーい!」という嘆息が漏れる。
「あ、たしか同じ学校だったよね!」
クールと無邪気さが混ざったような笑顔を見せながら、演奏を終えたショウは挨拶をしてくれた。
「それは、誰の歌?」
「ああ・・・俺が作詞作曲したやつだよ。」
「全部・・・?」
「何曲か、他人の曲はあるけれど・・・基本的にほとんどは俺の。」
「・・・いったいどこで、そんな技術を身に付けたの。」
「独学じゃね?普通。」
彼は気障っぽくはにかんで言った。
背中じゅうの毛が逆立つようだった。
「ショウ・・・この人は、カリスマだ。天才だ。
紛れもないカリスマだ・・・。」
何度も心の中で反芻を重ねる。
勝てない・・・
そういう問題ではなく、生きている世界が違う。
「じゃ、また・・・」
とその場から遠く離れるのだが、一種の憧憬を持ちながら、彼の後姿を見送った。
ショウは、カリスマ性と天才性を持ち併せながらも、決して大人社会に対しては反抗することはなかった。
少なくとも、表立っては。
つまり、人の顔色を読むこと、その場の空気に合わせるということに長けていた、と言ってもよい。
人をうまく引き付ける術を心得ていた。
それは、後天的に身につけた技術というよりも、もはや天性のものだ。
髪を逆立てながらも、タトゥーは学校では決して見せることはなく、私語もない。
筋金入りの「真面目な生徒」だった。
教師連からも好かれていた。
彼は、人間の奥底にある複雑怪奇さを理解しながらも、それに流されることなく、かつ、表立って戦うこともなく、大人たちや学生が何を求めているのかを敏感に察知して、心地よくなるようにそれを提供できる人間であった。
ショウがふと哲学的でまじめで立派なことを書き始めると―それも、教育者好みの青少年らしい感受性のものに限るのだが―教師はそれを取り上げてしみじみとして皆の前で紹介する。
まるで、教科書に書かれたような模範的な優等生の作文。
この学年の一組二組三組には、少なからず、詩作や芸術で才能のある人間が、埋もれている。
僕の中には、同種の人間や友を見つけたような安堵を覚える。
と同時に、ある種の屈折したプライドが目覚める。
才能のあるものに嫉妬する。
「自分は感受性を鈍感にさせて何をやっていたんだ!」とひどく焦りを覚える。
「それくらいのことだったら、自分だってもっと深いことを考えているよ。」と。
しかし、それを披露する機会もなければ、認められ共感される機会なんていうのも絶望的になかった。
つまり、言ってみればなんだ。
僕の中には下心があった。
「純粋に見られたい」とか、「評価されたい」とか、「認められたい」とか。
そのためには、自分の内の邪悪な部分やどろどろした部分、低俗で俗な部分は意図的に切り離して無視を決め込み、素晴らしいもの、純粋で理想的な感受性を飾るようにして一つの作品のように仕立て上げて文章や詩にする必要があった。
どうも、僕の言いたいこと、本音は、それを語る言葉も場所も持てないようだ。
定型的で素晴らしく真面目な表現に僕の心は押し込められてしまい、何も吐き出すことができないまま、僕は僕の中を堂々巡りするしかないのだ。
一つの不幸!
それは、「僕を見てくれる人がいない。」ということ。
「分かってくれる人がいないということ」。
孤独。
いや、違う・・・断じて違う。
そう思ったが、嘘だ。
そのこと自体が嘘だ。
僕に能力がないこと。
才能もなければ、努力もしていない!
運命に流されることを甘んじながら、「いつか」才能の芽がでることを棚から牡丹餅のように待ち望んでいる。しかし、勉学に追いたてられるしかない自分が、いつ、自分の才能を見つける時間が取れるとでも。何に逆らっていけばいいのか。
忸怩たる思い・・・!
何人かの人びとが、それぞれの大海に漕ぎ出し、自分の才能を開花させるための戦いを始めているというのに・・・僕は・・・・?
何一つ、何一つ、始めてもいない。
ああ、畜生!何が青春の日々なのだろうか!
青春が輝いていないこと、充実していないこと、才能の片鱗すらも自分自身にはないこと。
友人がいないこと、友情がないこと。
人生でたった一回の大切だと信じ込んでいるこの期間があまりにもみじめであること。
いや・・・!
違う!
違う!
違う!
すべてがいいわけだ。
何もしていない自分には、ホントウは特別な才覚があるのだと自分自身に言い聞かせて納得するための!
ほとばしる才能を持った彼らが、星や太陽だとすれば、僕は河原の石ころと同等な存在だ。
いや、河原の石ころだって、地味で目立たないし才能もないものの、しっかりとこの社会に組み込まれて、なんらかの役割は果たすことができる。
ショウの周りに、何人かの友人が取り巻いている。
彼は、輪の中心におり、楽しそうに騒いではしゃいでいる。
彼のことを理解しようと思っていた。
友人になりたかった。話がしたかった。
しかし、彼を理解してくれる友人は、もうすでに、何十人といた。
チヤホヤされる彼を見て、僕は幻滅と嫉妬を覚えた。
幻滅・・・彼が純粋な精神だけではなく、孤独でもないこと。つまり、大衆に迎合している術を身に付けているということ。
嫉妬・・・彼が孤独でなく、純粋な精神を保っていられる支えがあること。
彼には、友人など居て欲しくない!理解者など居て欲しくない!
取り巻きなど居て欲しくはない!孤独であってほしい。孤独であってほしいのだ・・・。
しかし、彼は、孤独でなくても、紛れもない天才なのだ。
彼とは話をする資格すらないように思われた。勝手に思い込んでいただけだけれども。
五メートル手前の友人は僕とははるかに遠い世界の住人だった。
彼は、こちらに歩いてきながら、軽く会釈をして去っていった。
彼の眼は澄んでおり、ほんの少しキザで、明るさもあり、礼儀も正しい。
どこまでも敬愛すべき人間に思われた。
彼は輝いていた。
はるかな高みを見つめていた。僕のようなみじめな奴には目もくれなかった。
「住んでいる世界が違う・・・。」
全身がグワングワンと揺さぶられ、いてもたってもいられなくなる。
若い天才・・・。
なぜ、この僕には微塵の才能すらも与えられていないのだろう。
競争をしている限りは、決して天才になることはできない。
誰よりも努力して、他人より抜きんでること、そうして自分の存在は他人より少し高級なのだということを確かめることのみが僕のプライドだったといってもよかろう。
陳腐なプライド。
幼いときから、親に勉強をさせられてきた。
学年で自分以上に机に向かうものはいなかった。
いつも、他人と自分を比較して、一番であることに安堵と誇りを覚えていた。
ある時、それはボロボロと修復がきかなくなるくらいにこぼれおちていく。
結局自分には何もないと気が付いた。
それはそうと、
よく聞く言葉。
「特別な才能のいる仕事は、よほどの天才でない限りそうなれるものではない。」
ああ、きっと彼は、そのほとばしる才能のみで、仕事をし、そして食っていく。
何千何万の自称アーティストが、埋もれたまま、「普通の仕事」をして一生を終えていく中、彼だけは、まがうことなき、「特別な人間」であり、「よほどの天才」に他ならなかった。
いつの間にか、彼はCDデビューを果たしていた。発売日から間もなく、彼の名前を店で見つけた。そして、意外なことに、彼の取りまきたちは、そのことを知らなかった。
「買ったよ。聞いたよ。」
ショウにそう告げた。
彼は、微笑んで、「ありがとう。」と告げた。僕は、自分から手を差し出した。彼は、握り返してくれた。
お互いにそれ以上、感想を訊くことも、伝えることもなかった。