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蒼の魔女

作者: Sissy

 ずっと人の目が苦手だった。目は心そのものだ。外には出さずとも、瞳は全てを教えてくれる。素直に。そして残酷に。

 なのに。彼女の瞳には不思議と吸い込まれていた。

 まるで本能だとでも言うように、宝石のように輝く、海より深い蒼い色に惹きつけられる。

「……貴方は、誰?」

 突然の来訪に驚いた素振りも見せず、彼女は淡々と聞いた。その顔は、どこか呆れているようにも見える。

「えっ、えっと、僕は……!」

 急に話し出した彼女に驚いたのか、ルーはいつも以上にどもる。

「緊張しなくて良いのに」

 小さく声を上げ、彼女は微笑んだ。人形のように整った顔立ち。澄みきった美しい声。どこか人間離れした雰囲気を持つ謎の美少女。

「ぼ、僕はルー・ダナーン」

「そう。私はラピスラズリ」


 ■


 ルーのアトリエはいつも散らかっている。魔法具を修理する道具やら、使用済みの布。そして衣服がそこら中に散乱していた。アトリエの光景を眉間に皺を寄せながら、ユリウスがやってきた。

「調子はどう、ユリウス」

 久しぶりの幼馴染の訪問に、心が弾むのか嬉しそうに聞くルー。

 ユリウスは、普段通り燃え盛るような赤髪を後ろに流し、銀縁の眼鏡をかけていた。その朱色の瞳は呆れの色を滲ませていた。白百合の紋章が施された黒の軍服を着ている。いつもみたく新調されたようにきっちりと着こなされている。

 ユリウスは一層眉間に皺を寄せると、鼻をつまみ頷いた。

「最近は港湾地方が軍事力をつけているせいで、ゆっくり出来ないんだ。俺の所にやたら仕事が回ってくる」

「はは。それって君が領主様に信用されている、ってことでしょ? ところで、今日は何の用?」

 ルーは客人用のまだ綺麗なカップに、お茶を注ぐとユリウスに差し出した。

 カップを受け取ったユリウスは顔をしかめながら、中を覗き込むと恐々と口をつける。

「年中引きこもっているお前に、領主様から有難い仕事の依頼だ」

「領主様直々?」

 ジャケットの裏ポケットから一枚の紙を取り出しそれを渡した。

 そこには、随分と綺麗な字で内容が書かれていた。

「時計塔が不具合を起こしてしまっている。そこで腕だけは信用出来るルグが抜擢されたってわけだ。お前に修理して欲しいとハールーン様がおっしゃっている」

 目を覆い隠すほど伸びきった前髪の下でも、驚き見開いているのが分かる。

 ルーはこの観光地方の魔法工芸修復士である。対人恐怖症で必要最低限のこと以外は外に出ないという引きこもりではあるが、腕はたつ。この地方では軽く有名人である。領主ハールーンがルーに依頼するのも不思議ではないが、統治者からの仕事は初めてだった。

「ほ、本当に僕に?」

「ああ。報酬は弾むぞ、よろしく頼んだ」

 そう言い、ユリウスは散らかった机上に空のカップと幾らかのお金を置いて行くとそのままアトリエを去って行った。

「時計塔の……修理……」


 ■


 様々な葛藤を胸にルーは観光地方最大名所である時計塔にやってきた。やはり不具合が生じているためなのか、地方警察によって閉鎖されていた。普段観光客で賑わっているこの場所も今は静寂に包まれている。

「……久しぶりの仕事が領主様からか。圧力がかかるなあ」

 ため息と共にルーは時計塔内部へ入る。時計塔の中は薄暗く、ステンドグラスから入る陽光以外には光源が無い。そのためか少し肌寒い。たくさんの歯車は噛み合いながら動いているはずなのだが、1つも動いていない。中枢がやられてしまっているのだろうか。ルーは動きを止めた歯車を見やりながら、幅が狭い階段を登りはじめる。

 この時計塔の歴史は古い。しかし、未だ解明されていない部分も多く、いつ誰が何のために建設したのか謎のままである。すぐ足を踏み外してしまいそうな階段をゆっくり上がっていくと、最上層に出た。

「…………あっ」

 そこは、広くはないが非常に明るかった。時計盤から入る光が充分に中を照らしている。床には読みかけの絵本や、玩具やぬいぐるみが散らばっており、ついさっきまで描いていたのか絵がそのままにされていた。

 違和感を持たずにはいられなかったその光景に、少し不気味さを感じる。

 誰かがここに住んでいるのか? 辺りを見渡そうとしたその時だった。

 目が、合った。

「……何か?」

 時計盤の裏にある歯車付近に座り込むようにして少女がいた。彼女は真っ直ぐにルーを見つめる。恐ろしいはずなのに目が離せない。彼女の視線を受け、体も動かなくなったように固まってしまった。

 非常に美しい少女だった。青藍のような色合いの瞳は、光の具合によってウルトラマリンにも見える。磁器のように白く、唇は薄い桃色に色付いて下唇がふっくらとしている。髪は月白色で細く長い。まるで上質な絹糸のようだ。幼い顔立ちをしているが、少し大人びた表情を貼りつけている。どこか虚ろな印象を与え、人形めいた神秘さをもつ。細い首には不釣り合いな、厚みのある革製の首輪をしていた。真ん中には彼女の瞳と同じ色の魔法石が嵌め込まれていた。

「あっ、えっと……ごめん……その、どうして君は時計塔にいるのかなって」

「変かしら?」

 2人の間に沈黙が訪れる。

「貴方こそどうしてここに?」

「えっと……時計塔が壊れたみたいで、その、直すためにここに……」

 ユリウス以外の人間と話すのは何年ぶりだろうか。言葉が全く続かず、緊張が高まっていき、舌が回らなくなる。

「そう。貴方達は大変ね」

 少女は微笑んだ。花が綻ぶようなその笑みにルーは思わずどきりとしてしまう。

「た、大変? どうして?」

「だって、貴方が壊したわけではないのに……。どうして壊した人間がしないの?」

「ま、まぁ、僕の仕事はそういうものだから……。それに、ずっとアトリエに籠っている僕に、仕事があること自体幸運だから」

 ルーがそう言うと、少女は不思議そうに首を傾げた。

「変わっているわね、貴方」

「そ、そうかな……はは」

 乾いた愛想笑いを浮かべるルーを彼女はまじまじと見つめる。

「……貴方は、誰?」

「えっ、えっと、僕は……!」

「緊張しなくて良いのに」

「ぼ、僕はルー・ダナーン」

「そう。私はラピスラズリ。よろしく」

 こうして引きこもりの魔法工芸修復士と、時計塔の不思議な少女は出会った。


 ■


 時計塔内部を入念にチェックすると、不具合を起こしていた部分は動力源である魔法石の欠損が原因だと分かった。まるで、鋭利な何かで抉られたように欠けてしまった魔法石は、一部分を失うことで保持していた魔力が減少し大きな歯車を動かすことが出来なくなってしまったようだ。そのため、全ての歯車は止まり時計塔の時計盤の針も動かない。

 隅々まで確認するルーに、ラピスラズリは尋ねる。

「貴方は何の仕事をしているの?」

「ぼ、僕は魔法工芸修復士だよ。魔法石を使用した工芸品を主に扱っているんだ。……あ、でも現代の魔工具も直せるよ」

 この世界には魔力という神秘な力が存在する。個体差はあるが、人々は魔力を源に不思議な力を行使する事が出来る。しかし中には魔力量が非常に少なく、魔法を自ら発動させることが出来ない人がいる。そうした人々の為に開発された道具が、魔工具。魔力を秘めた魔法石を使用し魔法を繰り出すことが可能だ。それは家具にも適用され、人々の生活は便利なものになってきている。魔工芸品というのは、魔工具を使用した工芸品である。

「魔工具……。魔法を使えなかったり、魔力が無い人は不便なのね」

「そのために技術者がいるんだ。そして僕のような職人もね」

 普段の様子とは異なり、饒舌になったルーを見てラピスラズリは言い放つ。

「魔工具の事になると、人が変わるのね。貴方は」

「ご、ごめん……つい」

 自分の好きな話題になると、水を得た魚のようになる癖がある。幼馴染のユリウスにも、お前は楽しそうに話すが、こちらのことも考えてくれ、と指摘されることもしばしばあるのだ。

「それより、時計が壊れた理由は分かったかしら?」

 彼女は、一気に興味の矛先を変えた。どういう経緯であれ、時計塔にいる彼女にとっては一番気になるのはそこなのだろう。

「うん。動力源の魔法石の損傷だ。他にざっと調べてみたけれど、怪しい所は無かったからこれを直せばまた動くはずだよ」

「修復はどのくらいかかるの?」

「うーん、古い石だし魔力を注いで修復するしか無いんだ。早くて三週間、遅くて一ヶ月かな」

「……どうやって直すの?」

 ラピスラズリの純粋な疑問にルーは答えた。

 古い魔法石というものは、新しい魔法石と違い魔力の質が決まっている。新しいものは、今回のように、欠けた部分を補修する際別の石の一部をはめこめば完成だ。まだ魔法石になって年月が経っていないものは、馴染やすいのだ。それに比べ、古いものは術者の魔力を少しずつ流し込み、質を合わせながら欠損部分を補うという修復作業だ。これは、術者の魔力量・技量に大きく左右される方法でもある。

 ルーは、歯車の間に埋め込まれるようにしてある魔法石を慎重に取り外す。

「とりあえず、アトリエに持ち帰って修復するよ」

 興味なさげにラピスラズリは答えた。

「そう」

 そっけないのは薄々感じていたが、明らか興味を持っていないという表示をされると少しだが、傷つく。ルーは肩を落とし階段を降りようとした。

「……ねえ」

 凛とした声に思わず振り返る。真っ直ぐにその蒼い色の瞳を向けていた。

「私、貴女の話は結構好きよ。だから、また来て」

「……うん」

 頼りなさげに階段を降りていく彼の後ろ姿はどことなく、嬉しそうだった。


 ■


 ルーは調査の為、もう一度時計塔に足を運んでいた。あの動力源である魔法石にどれだけ魔力を込めれば良いのか、時計塔の大きさで数値を出す為である。時計塔は石作りの立派なものだ。少し空いた隙間から苔が生えているが、それも風情を感じさせる。

 ふわりと優しく風が頬を撫でた。

 鼻孔が甘く刺激され、目を閉じて風を匂う。甘い、花の香りだ。

 花の匂いにつられ、香りが強くなる方向へ歩くとそこにはクンシランの小さな、小さな花畑があった。

 時計塔の裏にこうした場所があったのは初めて知った。この観光地方の環境は、クンシランが自生するのには向かない。きっと、観光名所をより華やかにする為誰かが作り上げた人工の花畑なのだろう。

 一本、クンシランを手折る。

 真っ白な花弁は見事に開き、見る者を魅了する。ルーはその姿に力強さを感じた。そしてそのまま手に取ると、時計塔の中へ入って行った。

 内部の大きさ、歯車の大体の数など、調べることはたくさんだが、ルーは真っ先にラピスラズリの元に向かった。

 そして白い花を彼女の目の前に差し出す。

 不思議そうに見つめる蒼の瞳は、花からルーへ目線を変える。

「どうしたの、これ?」

「時計塔の裏に咲いていたんだ。綺麗だったから君への贈り物にしようと思って。あ、め、迷惑だった……かな?」

 みるみる自信を失っていくルーの姿に、彼女は声をあげて笑った。まるで鈴を鳴らしているようだ。

「いいえ、大好きよ。素敵な花……ありがとう」

 そう言って彼女は花を抱き込むように、ルーの手から受け取る。触れた彼女の指は、まるで氷のように冷たい。その感覚に思わず驚く。

「喜んで貰えたみたいで良かった」

 ラピスラズリは嬉しそうな微笑を浮かべる。

「ところで、君は1人でずっとここにいるの?」

 初めて会った時から気になっていた。時計塔の中で暮らしているらしいが、そんな人は滅多にいない。余程の物好きだ。彼女に何か理由がない限り、普通はあり得ない。

「ええ。ずっと昔から。外には出た事が無いの。……1度でいいから外の世界を見るのが夢なの」

 月白色の髪にクンシランの花をあしらう。見事に映える彼女は絵画の中にいるようなそんな気がする。

「誰が君を?」

「さあね、おとぎ話のように魔女が閉じ込めたんじゃないのかしら」

 ラピスラズリはそう言い、ふかふかの椅子に座る。そして、その深い蒼色の瞳にルーを絡め取ると、悪戯っぽく笑って言い出した。

「私の過去を話したのだから、貴方の話も聞きたいわ」

 彼女の過去、というのはずっと昔から誰かも分からない人に塔に閉じ込められている、ということなのだろう。それだけしか聞いていないのに、こちらも話さなければならない事にほんの少しだけ不公平さを感じたが、ルーが話さない事自体がフェアではない。そう思い、渋々頷いた。

「こ、答えられる範囲なら……」

「どこで生まれたの?」

 どんな質問が来るのか身構えるが、意外とあっさりとしたものだった。

「学術都市だよ。ここより東にある所」

「へえ。じゃあここが故郷ではないのね。それに、どうしてそんなに前髪を伸ばしているの? ほとんど見えていないじゃない?」

「そ、それは……」

 痛いところを突いてきた。ユリウスにも鬱陶しがられる程、ルーの前髪は長い。鼻筋まで伸びきって、目はほとんど隠れている。

 友人ユリウスからはいつも――お前は見えているのか――文句を言われる。

 彼女はどう答えれば良いか考え込んでいるルーの前髪を掻き上げ、目を覗き込んできた。

「わっ!? い、いきなり何をするんだ……!!」

「あら、美しいパールホワイトの瞳じゃない」

「…………」

 瞳の色を褒められてどんな返事をすればいいか分かるほど、ルーは人慣れしていない。赤く頬を染め、もじもじと動くしか出来ない。

「僕は……昔から人が嫌いだ。でも、目がもっと嫌いなんだ。だから……」

「見えないように伸ばしている、ってことでしょう。貴方の心もそうやって人々に対して隠してきたんでしょうね」

「え?」

「今の貴方の心は死にそう。本当は温もりが欲しいのに、手に入らない。そうでしょう?」

 あまりにも彼女が断言するので、不思議にさえ感じた。どこか遠くを見つめる彼女にはルーではない、何かが見えているのか。

「君は……どうしてそう言えるんだい」

「人は皆そうだもの。口では色々言うけれど、結局欲しいものは同じ。辿り着く先は一緒。今までそんな人を何度も見てきたもの」

「ラピスラズリ……」

 ふと小さな窓を覗き込む。

「ねえ、ルー。もう外が暗くなってきたわ」

「……本当だ。今日は帰るよ。じゃあ、また」

「ええ」

 そう言ってルーは階段を降りようとする。

「……人が嫌い、ね。やっぱり変な人」

 振り返った時、彼女はルーにそう微笑えんだ。どこかその笑みが寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。

 彼女の髪に咲き誇るクンシランの花が、風に揺られ手を振っているように見えた。


 ■


 豪華な意匠が施された家具や、絨毯などで飾り立てられた部屋に1人の男がいた。亜麻色の腰まで伸びている長髪をそのまま後ろに流し、切れ長の目は金色に輝いている。まるで蛇のように、相手を伺っているような表情は彼が只者では無い事を意味していた。

 彼の後ろに大きくその存在を示すように、白百合の紋章が刺繍された旗が揺らめく。

 扉を軽く叩く音が響いた。

「入れ」

「失礼します」

 扉をノックしたのは、真面目そうな表情をしたユリウスだった。

「ユリウスか、どうだ?」

「今の所、順調です。アレは驚く程彼に馴染んでいるようです」

 ユリウスの言葉に、男性は挑発的な笑みを浮かべた。氷のような冷たい眼差しをユリウスに向ける。

「今回は君が頼み込んだから任せた訳だが……。そう上手く事が進むのかな? 君は彼に何も言っていないんだろう?」

 まるで全てを見通しているかのような彼の物言いに、ユリウスは顔を強張らせた。

「ええ。あいつには何も。ですが、それも俺の策です。信じてお任せください」

「でもいいのか? 君のやっている事は、君の大事な友人にとって“裏切り”だ」

「何かを成し遂げるには犠牲は付き物です」

 男性はユリウスに近づいた。長身のユリウスよりも背が高い彼は、近づいてきただけで威圧感を放つ。

「それほど君が友人に執着する理由は分からなくもない。……私は君を評価している。期待しているよ」

 そう言い、彼はユリウスの肩に手を置いた。

 ユリウスは嬉しそうに頬を紅潮させ、はつらつと言った。

「はい、ハールーン様!」

 ユリウスが出て行った後、1人になった彼は喉の奥から笑い声を漏らす。

「……君に失敗されては観光地方最大の名所を封鎖した意味が無くなるからね……」


 ■


 相変わらず散らかったままのルーのアトリエに、ユリウスはいた。

 片付けられた痕跡が見られない部屋を眺め、ため息をつく。

「いい加減掃除しろ」

「これはこれで整理されているの」

「はあ?」

 不服そうに頬を膨らますルー。

「せっかくの休みなんだったら、そんなピリピリしないで寛いでいきなよ」

「出来るか!」

 ユリウスは、時計塔の魔法石に魔力を注入しているルーに怒鳴り散らす。昔からルーはだらしがなかった。彼が独り立ちするようになってからは、その性格に磨きがかかっている。

「……それ、時計塔のものか?」

「うん、傷が入っていたみたいで魔力バランスが崩れたのが原因みたいだ」

「ほう……魔工修復士は何でも出来るな」

 ユリウスの言葉にルーは嬉しそうに微笑んだ。その笑みを見て、ユリウスも少し顔を緩ませる。

 2人の間に訪れた妙な沈黙。それを破ったのはユリウスだった。

「……俺はお前にもう1度会う事が出来て、本当に良かったと思っている。あの時の俺は無力で、連れ去られるルグを止められなかったからな」

 突然過去を話しだすユリウスに、ルーは苦い顔をする。

「……その話は止めてくれ、ユリウス」

 絞り出すように告げたルーの言葉に、ユリウスは動じなかった。

「聞け、ルグ。娼館に買われたお前が悲惨な道を辿ったのは知っている。だからこそ、俺は止められなかった自分が憎い」

「……ユリウスのせいじゃない。あの時代、孤児は売られるのが当たり前だよ」

「あの時、俺にもっと力があれば、権力があれば……俺達は院長から虐待されることもなく、ましてやお前は男娼にならずに済んだんだ!」

 ルーは、口元を押さえると、急いで洗面台に駆けて行く。吐けるだけ吐くと、ルーは震える手で口を濯ぎ、ユリウスの方に向き直った。

「ユリウス。僕は君に過去の事で自分を責めて欲しいとは思っていないよ。過去は過去、今は今だ。今日の君は少しおかしいよ」

「……そう言うお前も、過去に縛りつけられているだろう」

 冷たい空気が流れる。お互いをじっと睨みあう。沈黙が訪れた。

「……最近、僕さ女の子と出会ったんだ。君みたいに気軽に話せる子だよ」

 先程の事が無かったように振る舞うルーに、ユリウスもいつも通りに接する。

「ルグが女性と仲良くなるのは初めてじゃないか? もしかして、そいつの事が好きなのか?」

 ユリウスはわざとらしく眉を上げた。

「うん、でも好きは好きでも恋愛の意は無いんだ。こう……、自分を見ているような。そんな感覚」

 ユリウスは、無表情に考え込むようにして顎をさする。まるで名案を思い付いたかのように、目を輝かせるとルーに告げた。

「そうだ。今度その子をどこかに連れて行ってやれよ」

「え、どうして?」

「もっと仲良く出来るぜ」


 ■


 ルーが魔法石に手をかざし、ゆっくりと魔力を流し込むと淡く光り出す。時計塔の動力源である魔法石を修理し始めてから暫く経った。ラピスラズリに花を渡して以来、1度も彼女の元に行っていない。久しぶりに顔を出せば、彼女は怒るだろうか。ルーはそう考えながら修理を進める。

 その時、アトリエの扉をノックする音が聞こえてきた。

「どうぞ」

 誰かと思いながら返事をすると、1人の男性が本を持ってやってきた。亜麻色の長髪に、金色に輝く瞳。微笑を浮かべてはいるが、どこか冷たさを感じる。

「ルー・ダナーンのアトリエはここかな」

「えっと……そ、そうです」

「君がルーか。この古書を修理して欲しいのだが、お願いしても良いだろうか」

 そう言い、彼は手に持っていた本を渡す。

「えっと……い、今僕は……別の仕事をしていて、これを直すのは後になると……」

 男性はにこやかに笑うと、大きく頷いた。

「ああ、いいさ。全く問題ない。それじゃあ頼もうか。それと、中が気になったら別に読んでもらって構わない。それじゃあ」

 風のように去って行った男性に手渡された古書を持ちながら、ルーは立ち尽くす。

 本の状態を見てみると随分古いが、保存状態が良かったのだろう、大きく損傷している所は無い。表紙部分に装飾として埋め込まれている魔法石が外れかかっている位だ。

 ふと興味本位で中を開いて読んでみる。

 そこには、五色の魔女と題名が書かれた伝承が書かれていた。


 昔、全ての魔法を生んだ魔女がいた。

 魔女は世界を壊す為、五人の魔女を生んだ。

 しかし、時の英雄によって魔女は封印される。

 そして、生まれた五人の魔女も封印された。

 五人の魔女は『五色の魔女』と呼ばれ、『五分塔』に幽閉された。


「……五色の魔女?」

 そこから先は、五色の魔女が幽閉された場所が書かれているみたいだった。しかし、そこの部分は他よりも劣化が酷く、文字が擦れて読めない所が多い。五色の魔女は、赤、蒼、黄、白、黒とそれぞれ呼び名があり、それぞれ別々の所に幽閉されているらしい。誰がどこに幽閉されたのか肝心な部分は、字が薄れて読めなかった。

 ルーは損傷の少ない古書を先に修理しようと、早速取りかかった。

 しかし、集中力が切れたのか上手くいかない。ふと自分の手を見てみると、大きく震えていた。


 ■


 美しく輝く銀製の食器を、彼は満足そうに眺めては葡萄酒を口に含む。自身の趣味でもある銀製品の収集は、今や個展を開ける程に数が増えた。至福の一時に彼が酔いしれていると、慌ただしく誰かが入ってきた。

 音のする方向に顔を向けると、息を切らしてこちらを鋭く睨むユリウスがいた。

「どうした? 今日は随分騒がしいな」

「ハールーン様! あいつに古書を渡したそうですね?」

 予想よりも情報が早く回ったな、とハールーンは思う。

「ああ、そうだが」

 しれっと言うと、ユリウスはますます顔が赤くなり、息も荒くなる。

「失礼を承知ですが、勝手な事は謹んで頂きたい!」

 吠えるユリウスに、宥めるように言う。

「そう怒るな。彼がどんな人物か気になっただけだ」

「しかし、蒼の魔女についてあいつが知ってしまったらこちらの策は水の泡になってしまいます」

「それは無いだろう。彼は人付き合いをしない、世を見ようともせず自分の殻に閉じこもっている人間だ。世間知らずとも言えるな、この私が尋ねても気付かなかったのだから。そんな奴が、アレが魔女と気付かないだろうし、それに我々がアレをどう利用しようとしているのか見当もつかないだろう」

 感情を露わにするユリウスに対して、冷静に物事を述べるハールーン。彼の態度に少し頭が冷えたのか、ユリウスは静かに言葉を紡ごうとする。

「ですが……」

「そういえば、賊の連中にアレの首輪の件を吹き込んだそうじゃないか」

 ハールーンの冷たい指摘にユリウスは黙る。

「早く出世して地位が欲しい気持ちは痛い程分かる。だが、事を急に押し進めては、成功するものも失敗してしあうぞ」

「ですが、港湾地方は着実に軍事力を高めています。こちらもアレを早く兵器化しなければ」

 ユリウスの言葉を遮るように、ハールーンは言い放つ。

「急がば回れ、だ。しかし、もう手遅れのようだがな」

「それはどういう……」

「最後の作戦に移るぞ、ユリウス」


 ■


 魔法石の修復が無事に終わり、最終調整のため久しぶりに塔に足を運んだ。元あった場所に嵌めこんで動くか、少しの微調整を終えれば仕事は終わりだ。

 かつては観光名所として賑わっていた時計塔も、修復すれば前のようにまた人が来るだろう。そしてその時計塔を直したのは自分だという事実に、ルーは嬉しさを感じていた。

 初めは少々厄介な仕事と感じた事もあったが、不思議な少女に出会えて、仕事に対して誇りを持ち充実した日々を送れた気がする。そういう意味では観光地方領主に感謝しなければ、とルーは思った。

 塔の中に入ろうとした時だった。妙な胸騒ぎがする。何かは分からないが、とにかく急がないといけない、そう本能が告げる。ルーは急いで階段を駆け上る。すると、最上階から若い男の声が聞こえてきた。

「こいつを領主様の所に連れて行けば、報酬をたんまり貰えるぜ」

「そうなったらオレとお前で山分けだな」

 下品に笑い声をあげる彼らはおそらく泥棒だろう。会話の内容はよく理解出来ないが、最上階にはラピスラズリがいる。

 急いで階段を上がり、最上階に辿り着くと若い男2人がラピスラズリの髪を引っ張って、げらげらと笑い合っていた。その様子に強烈な怒りが湧き上がる。

「やめろ!」

 ルーの叫び声に男達は振り返った。

「ああ? オレ等の獲物を横取りするつもりか?」

「その子を離せ」

 ラピスラズリの髪を掴んでいた男が、その手を離しルーに近づく。

「何なんだ、お前」

 恐怖を必死に抑え、負けじと相手を睨みつける。目を見るのは怖かったが、それでも彼女を守りたい一心だった。

「僕は……彼女の友人だ」

 その瞬間、ラピスラズリが目を見開いた気がした。

 昔の自分に似ている彼女をいつの間にか大切にしたい、守ってあげたい、と思える存在になっている事に気付いた。

「ルー……」

 彼女が自分の名前を呼ぶ。勇気が湧いてくるような気がする。

「どうでもいいけど邪魔者は消えろ!」

 若者が短剣を取り出し、斬りかかってくる。身を反り、刃を避けようとした。しかし、刃先がルーの前髪をかすめ、毛が足元に落ちた。

 真珠のような白い瞳がぎらりと光る。

星光(シャイン)

 ひとさし指を若者の眉間に当て、詠唱する。すると、ルーの指は目も開けていられない程の強烈な光を放つ。間近でそれを食らってしまった相手はひるむ。その隙をついて、鳩尾を全力で蹴る。壁に叩きつけられ、気を失った男は口から泡を吹いていた。その様子を見たもう1人の若い男は、怖気づきながらも斬りかかろうとする。

「キルケ・ツォルン」

 後ろで見ていたラピスラズリの詠唱と共に、どこからともなく水が溢れる。そして水は塊を作るとその姿を女性へと変えた。意志を持ったように自在に動く水の女性は、体当たりをして2人の若者を窓から放り出す。激しい波に飲まれ、抵抗も出来ず彼らはあっさりと返り討ちにされた。

 あまりの衝撃に呆気に取られるルー。ふと自分の服を触ると、あれだけ水に触れていたのに濡れていなかった。きっと彼女が魔法でどうにかしたのだろう。

 ラピスラズリを見ると、悪戯っぽく微笑んだ。

「びっくりしたかしら?」

「うん、すごく」

 彼女が実はかなり上位の魔法を駆使出来るということを初めて知った。

「君はとても強いんだね」

「あら、貴方だって魔法を使えるとは知らなかったわ」

 襲われたのにどこか楽しそうなラピスラズリ。

「あ、あのさ……」

 ふと、このタイミングで言ってしまって良いのかという思いが頭によぎったが、ここで言わなければこの機会は一生無くなる気がした。

「君に見せたいものがあるんだ。ついてきてくれる?」

 すると、彼女は悲しそうに目を伏せた。

「行きたいけど、この首輪のせいで塔からはあまり離れられないの」

 彼女の首には魔法石が埋め込まれた首輪が付けられている。

「大丈夫」

 ルーは優しく言うと、彼女の手をとる。

「目は瞑っていて」

 そう言うと、ゆっくり階段を降り時計塔の外へ出た。少し歩き、ラピスラズリに目を開けるように言う。

 彼女の瞳には、クンシランの小さな花畑が映り込んでいた。嬉しそうな色を浮かべ、花畑を眺める彼女の瞳は美しいと感じる。

「すぐ近くにこんな所があったなんて」

 彼女は笑った。

「あなたは優しいのね」

「そんなことない……ただの自己満足だよ」

「自己満足でも私は嬉しい」

 ルーは何も言わなかった。2人は静かにクンシランの花畑を見つめる。

 ふと、ラピスラズリが口を開く。

「私の首輪は塔から離れないようにする為に、誰かが付けたものなの。昔は私を縛りつけるこれがとても嫌だったけど、これのお陰で貴方に会えたものね。それだけは良かった、って今は思えるわ」

 ラピスラズリはルーを見上げるとそう言った。

「もしかしたら……僕に外せるかな?」

 彼女は返事をする代わりに後ろを向いた。髪を避け首輪を見ると、鍵穴があった。小さな鍵穴の上には、猫の目のような石が嵌め込まれていた。

 その目を見た途端、何故か体が勝手に動き、ルーは抵抗する事も出来ずに鍵穴へ口づけをする。すると、鍵の開いた音が小さく響く。

 鍵を守る番人のような目は、色を失い白く濁る。首輪はするりと自然に彼女の首から外れた。

 ルーとラピスラズリは驚き、そして嬉しそうに笑いあう。そんな2人に聞き慣れた声が話しかけた。

「さすがだ……誰にも出来なかった事をやってのける。それでこそ、俺の友人だ!」

「ユリウス? どうして此処に?」

 ギラリと光る朱色の瞳。彼に怯えたのか、ラピスラズリは体を強張らせる。

「お前は全て俺の策の上で転がっていたんだよ」

「ど、どういうこと……?」

「つまり、ソレの首輪を外す事がルグの役割だった、ということだ」

 普段の様子と打って変わって、狂気じみた笑みを浮かべるユリウスにルーは衝撃を隠せない。

「ラピスの……首輪?」

「ソレは禁忌として封印された蒼の魔女だ。そして、ソレを時計塔に縛りつける為の道具がその首輪なんだよ」

「……ラピスが、魔女? ねえ、ユリウス。魔女って……何なの」

 ルーの言葉にユリウスは答えた。

「世界を滅ぼす鍵だ。ソレ以外にこの国にはあと4人、魔女がいる。魔女は人並み外れた魔法使いでもある。何せ、根源の魔女に生み出された怪物だからな」

「生み出された、怪物……?」

 ルーはラピスラズリを振り返った。体を震わせ、不安そうにルーを見つめる。いつも微笑み、楽しそうに自分の話を聞いて、時には見透かしたことも言う少女。この美しい海色の瞳の持ち主が、怪物?

「ソレは人間じゃない。ホムンクルスだ。魔法を編み出した魔女が世界を崩壊させる為に作った道具。ルグも気付いていたはずだろう?」

 彼女が恐ろしいほどまでに美しいのはそのせいなのか。

 彼女の体温が氷のように冷たかったのはそのせいだったのか。

「ユリウスは……ラピスをどうしようって言うんだ」

 自然に声に怒りが混じる。低く震えた。

「港湾地方に対抗する為の兵器だ。蒼の魔女を兵器化する為にはその首輪を外さなければならない。しかし、誰がやっても失敗に終わった。そこで、俺はお前に目をつけたんだ」

「……ユリウス」

「ソレの首輪は、ソレの心と繋がっている。ソレが許した相手じゃないと外せない仕組みになっているんだ。生憎、ソレは人の心を何となく読めるらしい。だから俺達は近づくことも、首輪に触れることも出来なかった」

 ユリウスは一歩、また一歩と近付きルーとの距離を縮めた。

「ルグに場を設ける為、時計塔の部品をわざと壊したのも。お前とソレの距離を縮めるのに、賊に襲わせたのも。全部、俺だ。世間知らずなお前なら、ソレの正体を知らずに仲良くなれるだろうと思ってな」

 心にユリウスの言葉が刺さる。怒り、というよりも悲しみが大きい。複雑な思いをユリウスにぶつけようとルーは声を荒げた。

「何故だ、ユリウス! 僕達は親友じゃないか!」

「親友だからこそだ……」

 一瞬、寂しそうな表情をしたのは気のせいだろうか。

「なあ、ルグ。お前は蒼の魔女の指揮官として出世したくないか?」

 絶望だった。小さい頃から唯一、心を許せる友人として信じていたユリウス。自分を理解し、支えてくれていたはずだったのに。

 一番、聞きたくないことを彼の口から聞いてしまった。自分とラピスラズリの絆を、出世の為に利用されていたということを。

「そんなに地位や名誉が欲しいのかい。ユリウス!」

「ああ。力を付ければもう俺達は虐げられることも無い。俺はお前を守る事が出来るんだ……」

「そうか。僕は君とは分かり合えない。君がそんな人間になっていたなんて思わなかった」

 ルーの言葉にユリウスは目を見開くと、残念そうに頭を振った。腰から下げていた剣を抜くとルーに向かって突きつける。

 それがどういう事を意味しているか、嫌でも分かった。今のユリウスは本気でルーを殺しにかかっている。彼から放たれる殺気が肌を刺す。

 一瞬でユリウスは距離を縮めてきた。先程からあまり離れていなかったせいで、体をひねって避けるしかない。後ろにはラピスラズリがいる。下手に近付けさせるのも駄目だ。

 しかし、ユリウスを傷付けたくはない。彼を傷付けずにこの場から逃げる方法はやはり、自分の魔法を使うしかないだろう。

 ルーはユリウスの剣を必死に避けながら、指を彼の眉間に触れた。

「星光」

 詠唱が終わると同時に、まばゆい閃光がユリウスを襲う。一瞬怯んだ隙を見て、ルーはラピスラズリの手を引き走り去る。

 こういう時、普段から鍛えておけば彼女を抱き上げて走れるのに。とルーは後悔したがもう立ち直りそうになっているユリウスを見て、そんな考えは振り払った。

 裏道を使い、森の中へと逃げ込んだ。鬱蒼とした森は、動物達の鳴き声が不気味に響き渡っている。

「ねえ……ルー……」

 息を切らしながらラピスラズリはルーを呼び止める。

「何だい」

「……どうするつもり?」

 彼女の言葉の意味は分かった。

「2人で旅をしよう。君は念願の外の世界をやっと見る事が出来るんだ。きっと僕も君も観光地方にはいられなくなる。領主直属の部下であるユリウスの話が本当だとしたら、観光地方が君を狙っている事になる」

「そうね……そして、私を連れて逃げる貴方も罪人として追われる事になるわ」

「でも、きっと旅は楽しいよ。今まで外に出るのは怖くて仕方なかったけど、君と一緒なら大丈夫だと思うんだ」

 その言葉に彼女は花が綻ぶように笑う。

「そうね、美味しい物を食べて、夜は宿屋で泊まったり、たまに野宿をしたり」

「地方や都市を見て回って、楽しむ……」

「そんな日々も良いかもしれない」

 ラピスラズリとなら外も怖くない。そんな予感がした。ふいに彼女の月白色の髪が視界いっぱいに広がった。そこでようやく、自分が彼女に抱きしめられていることに気がついた。

「でもね、ルー。私は貴方をそんな目には合わせたくない。権力から追われる身は、安らぎなんて無いもの。私の願いは1つ、貴方が幸せに生きることなのだから」

「ラピス?」

「私に、貴方の人生を付き合せる事なんて出来ない。私に貴方を縛りつけることは出来ない」

 花の香りがする。匂いはだんだんと強くなる。

「貴方も気付いていたと思うけど、ユリウスは随分手を抜いていたわ。殺そうとしていたのも演技。彼が出世して、地位を欲しがっているのは貴方を守りたいからだと思うの」

「……ラ、ピス?」

 力が抜けていく。睡魔が襲いかかる。

「今までありがとう。短い間だったけど、とっても楽しかった。貴方の事は忘れないわ」

「……ラピス!」

 精一杯彼女の名前を叫ぼうとする。しかし、もう体に力は入らず地面に倒れ込む。意識が朦朧としてきた。

「さようなら、ルー」

 意識を手放す前に見たのは、美しい、ルーが好きだった蒼い瞳に涙を浮かべて笑みを浮かべるラピスラズリの姿だった。冷たい、人間ではない体温を感じながらルーは目を閉じた。


 ■


 中央都市、職人通り。

「おい、聞いたか? 港湾地方と観光地方が境界線でまた激突したらしいぜ」

 職人通りの酒場には、新聞が貼られた掲示板がある。酒場は人が集まる上に、そうした情報源もあるため、いつも賑わっているのだ。

 掲示板に群がる酔っ払い達を眺めながら、カウンターで静かに酒を飲む1人の男性がいた。彼はフードを深く被っているため、顔はあまり見えないがどうやらまだ若い。

「最近は物騒だねえ」

 食器を磨く女将が男性に話しかける。

「ええ。今月で何回目でしょうね」

 彼らが話しているのは、港湾地方と観光地方の争いだ。境界線を巡り、武力衝突をしている話題は、中央都市の新聞社を賑わしている。

 1年前から衝突が起きてから、ずっとこの調子だ。

「しかし、中央都市も止めないのかねぇ」

 女将の言葉に男性は首を振った。

「無理ですよ。港湾地方も、観光地方も魔女同士で戦わせているんですから」

 男性の言葉に女将は驚く。

「まあ、魔女を? 罰当たりだねぇ」

「ええ、僕も思います」

「港湾地方の魔女は確か、黄の魔女だったかしらね。観光地方の魔女は……」

「蒼の魔女、ラピスラズリですよ」

 五色の魔女、と呼ばれるホムンクルス達は五つの地域に分かれている。中央都市、田園地方、学術都市、そして港湾地方と観光地方。

 人ならざる力を秘めている魔女達は、そこらの兵器よりも強い。その力に目を付けた軍が魔女達を利用して境界線紛争に投入しているのだ。

 港湾地方も、観光地方も魔女を戦線に出している為、戦力は拮抗している。

「境界線付近だけとはいえ、早く平和になって欲しいものだわぁ。あたしゃ、観光地方の時計塔が大好きなのにこのままじゃ見に行きたくても行けないわね」

「……」

「あら、そう思わない?」

 女将の言葉に男性は苦笑すると、喉を鳴らして酒を飲み干す。

「僕は……魔女がホムンクルスとはいえ、心があると信じています。心がある彼女達をこうして利用する軍や、権力者達が許せないとしか思いませんね」

「魔女に心ね……そうかもしれないね」

 何となく男性の感情を読み取ったのか、女将は空になった容器に酒を注ぎ足す。男性の驚いた視線を受け、女将は片目を瞑ってみせた。

「今日はあたしの奢りだよ、ダナーンさん」

 そう言い、女将は盛り上がりすぎて店内を暴れる酔っ払い達を止める為にその場を去った。

 注がれた酒を一口、彼は飲む。

「……ラピス」

 擦れた声は彼以外、誰も聞こえていない。

 静かに涙が頬をつたっていた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

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