さくら、春風、赤い傘
降水確率八十パーセント、今日は各地で花散らしの雨となるでしょう。
テレビのなかのお天気キャスターが告げている。
「今日のさくらまつりは中止だな」と、パパが言った。
「でも、まだ、雨ふってないよ」
サナはむきになって言い返す。何日も前から、さくらまつりを楽しみにしていたのだ。
街の中心を流れる、鈴井川沿いの桜並木は今、満開をむかえ、その枝には赤い小さなちょうちんがぶら下げられている。さくらまつりは毎年恒例のイベントで、並木沿いに屋台や出店がたちならび、夜はライトアップされる。昼間には、子ども向けの催しもたくさんある。
去年のさくらまつりはたのしかった。幼稚園のおともだちと一緒にくじをひいたり、まとあてをしたり、ふわふわの綿菓子を食べたり、桜の花びらをひろって遊んだり。
だけど、結局、おまつりは中止になった。サナは泣いた。
「また来年、連れて行ってあげるから」
ママはそう言ってなぐさめてくれるけど、サナは泣き止まない。来年なんて、はてしなく遠い未来に思える。
桜が散って、あおあおと葉っぱがしげって、その葉っぱが赤茶けて散って、つるつるのはだかの枝を北風にさらして、ふたたびつぼみをつけて。そして、花がひらくころ、サナは一年生になる。
長い長い時間だ。とてもじゃないけど待てっこない。今がいい。今、桜がみたい。おまつりにいって遊びたい。
サナは掃き出し窓から庭に出た。空はどんよりと曇っていて、なまぬるい風がふきわたっている。道路の空き缶があおられてからからと音をたてた。
サンダルをつっかけたまま、こっそりと庭をぬけだした。こんなことをするのははじめて。サナはまだ、ひとりでは近所の公園にだって行ったことがない。ママがダメって言うから。
「知ってるよ。信号は青ですすむ、赤でとまる。手をあげて、右と左をみてからわたる。知らないひとにはついていかない」
強がりを言ってみるけど、心臓はどきどきしていた。ふりかえっちゃだめ、ふりかえっちゃだめ。じゅもんみたいに心のなかで唱えながら、鈴井川までの道を歩く。ママやパパがとなりにいないだけで、道路がとてもひろく感じる。
川までは、大通りに出たらあとはひたすらまっすぐに進むだけだ。あたし道おぼえてるもん、迷子になんてならないもん。そう思っていたのに、サナは迷子になった。
強い風がふいた。ここがどこだかわからない。ぽつりと、ほっぺたにつめたい粒があたった。降ってきたのだ。
湿気をふくんだ、ぬるい春風がサナのやわらかい髪をなぶる。
どうしよう。おうちはどっちだろう。このままずっと、ずっと、パパやママには会えないのかな。そう思うと、とたんにママたちのことが恋しくなって、サナは泣いた。しゃくりあげながら、来た道をもどればいいのか進めばいいのかわからないまま、よろよろと歩きはじめる。
顔をあげると真ん前に陸橋の階段があった。サナはのぼった。高いところからだったら、もしかしたら、おうちが見えるかもしれない。だけど。
柵をつかんで、いっしょうけんめい背伸びしてみても、ただ、道路をながれていく車の群れが見えるだけ。
風は強くなる。ぽつぽつと、雨粒がサナのシャツにしみをつくる。スカートがはらりとひるがえる。
と。うしろから、サナの肩を、とんとん、とだれかがたたいた。
心臓がびくりとふるえる。幼稚園の先生やママが言う、「わるいひと」だと思ったのだ。
だけどちがった。いつまでもふり返らないサナの横に、ひゅっと、風みたいにその子はあらわれたのだ。
サナと同い年くらいの、女の子だ。真っ黒いつやのある長い髪、白い肌にももいろのほっぺ。目はくりくりと丸くて、きらきらひかっている。白いワンピースを着ている。
女の子は、サナに、赤い傘をさしだした。びっくりしていたサナは、おもわず、それを受け取った。女の子は自分の青い傘をひらくと、それをくるりとさかさまにした。サナも赤い傘をひらいて、女の子のまねをして、さかさまにした。
どうするんだろう。ぬれちゃうよ。はてなマークを顔にうかべたサナに、女の子はくすりとほほえむと、柄をもったまま、ひらいた傘のなかに、ぴょんと、乗った。
えっ? と、いっしゅん、思った。だけどそれはすぐに「おもしろそう」という気持ちにかわって、サナもまねをした。さかさまの傘にとびのる。チューリップの花のなかにいるみたいだと思った。
女の子は傘の柄にすがりつくようにしてしがみついている。目で、サナにもしっかりつかまるように合図する。サナがうなずくと、あたたかな風がふいて、傘がふわりと持ち上がった。浮いたのだ。
「わあっ、なにこれっ」
サナはさけんだ。陸橋の柵をこえて、傘にのったふたりは春風に運ばれていく。くるくると回りながら、道路のはるかうえを、たちならぶ家並みのうえを、すいすいと飛んでいく。耳の横を風がかすめる音がする。
気持ちいい。こまかい雨がからだを濡らすけど気にならない。傘をさしているのに濡れるなんておかしくて、サナはわらってしまう。
やがてふたりは鈴井川に出た。川の両脇、遊歩道沿いの桜は見事に咲きほこっていて、こんもりと白いかたまりが曇り空の中に浮き出てみえる。女の子が傘の柄を前方へかたむけた。すると傘の船は降下をはじめる。サナも傘をかたむけてついていく。
川の、水面のうえ、すれすれをふたりは飛ぶ。風がふいて、ざあっと、桜の枝がゆれた。無数の白い花びらが雪のように舞いながらサナの目の前をかすめていく。
「すごい。花びらのふぶきのなかを、飛んでる」
女の子の青い傘が、サナの赤い傘が、花びらといっしょにくるくるまわった。
「あははっ、たのしいっ」
川にはたくさんの桜の花びらが浮いて、寄り集まってゆったりと流れていく。淡いピンク色に染まった水面に、雨の粒がしじまをつくる。
傘はふわふわと上がって、下がって、ときおり川から離れて桜の木々の真横を通り抜ける。片手で傘の柄をにぎりしめ、もう片方の手で桜に触れようとするけど、わずかにかすめるだけでつかめない。桜の枝が、まるでわらっているみたいに風にゆれて、花びらのまとった雨の粒が散ってきらきらと光った。
サナは目をとじた。夢みたい。夢、みたい……。
「あらあら。泣き疲れて寝ちゃったみたいね」
ママがサナのほっぺたをつつく。パパがタオルケットを持ってきて、サナのちいさなからだにかけた。
「笑ってるわ」
ママがほほえむ。パパは、あれ? と首をかしげた。
サナのあたまのてっぺんに、桜の、白い花びらが、いちまい。
ママがそっとつまんで、ふっと、息をふきかけた。花びらはくるくると回って、窓からふきこんだ風にのって、どこかへ運ばれていった。