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灯台にて

 玲の長い黒髪が、潮風になびいている。赤いロングスカートが風をうけてふくらむ。白いふくらはぎがそのたびにちらりとのぞいて、どきりとしてしまう。

 鈍行電車に揺られて、ひなびた海沿いの町まで来た。俺たちは海岸線をぶらぶら歩きながら、小さな岬の先端を目指している。左の視界には海がある。潮は引いて、磯の、黒っぽくて海草の張り付いた岩礁があらわになっている。

「着いた」

 玲が立ち止まる。海は凪いでいる。


 灯台の絵を描きたいと言い出したのは玲だ。よく晴れた土曜日の朝、当然講義はないし、ふたりしてバイトも休み。ゆうべ玲の部屋で飲んで、そのまま朝をむかえて、せっかくだからどこか行こうという話になった。ひとの多いところはいやだ、潮風が吸いたい、そうだ灯台へ行こう。玲はいつも、ひとりですいすいと物事を決める。

 俺たちはバイト先で知り合った。玲は美大に通っている。俺は私立大学の文学部。まだ就職先は決まらない。玲にいたっては先のことなんか何も考えていないようだ。


 九月の太陽はまだ強く、明るい光を放っている。まとわりつく磯の香り。

 俺たちは、灯台へとつながる突堤を歩く。突堤というか、コンクリートでできた、海に掛けられた頼りない橋げたといったほうが適当だ。今日のように潮が引いていると、橋の土台があらわになる。ドミノのように、規則正しく並べられたコンクリの板の上に道がひかれているのだ。

「ギリシャの遺跡みたいだな」

 俺はつぶやく。

「何か言った?」

 振り返った玲が右手で髪を押さえながら叫ぶ。

 俺は勿論ギリシャなんか行ったことはない。だけどギリシャと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、小さい頃もらった古い絵葉書のなかにある遺跡。叔父から、旅の土産としてもらったのだ。風化した記憶の中の風景。

 今俺の目の前にある、岩のごろごろ転がる海岸を縦断する白っぽいコンクリが、なんとなく、記憶のなかの朽ち果てた宮殿と重なった、それだけのこと。

「ここに決めた」

 玲がL字型にした両手でつくったフレームには、天に刺さる真っ白い灯台がはまり込んでいる。先に向かって細くなる円柱形の灯台。

 玲は陽光で暖まったコンクリに腰を下ろし、脇に抱えていたスケッチブックを開いた。

 玲はまず水平線の位置を決める。シャッシャッと鉛筆が紙をこする音がする。玲のまなざしは、彼女だけのフレームの中の世界を見つめている。玲はその世界に、ゆっくりと沈みこんでゆく。彼女の周りから音が消えたのがわかる。かもめの鳴く声や、遠い汽笛の音。波が打ち寄せて砕ける音や、俺の声さえも。

 俺は取り残されて、でくの棒のようにその場に突っ立っていた。いつもこうだ。玲が絵を描いている時。没頭している時。彼女はいつも何を見つめて、何をとらえようとしているのだろう。

 思わず、自分の手のひらを見つめる。ゆうべの玲の、切なげな、かすれた吐息。俺の腕の中でじっとりと汗ばんでゆくしなやかで白い体。つい数時間前のことなのに。そのやわらかな感触が、確かだった筈のぬくもりが、今はもううまく思い出せない。


「灯台まで行ってくる」

 絵を描かない俺はそう告げて歩き出した。玲の返事はない。俺のことももう見えないようだ。拗ねた子どものような言い方になりはしなかったか、と苦笑する。

 灯台は白くて陶器のようにつるりとしている。潮が満ちたら、どのくらいまで海に浸かってしまうのだろう。コンクリの道の先端は円形の土台になっていて、そこに灯台がすっくと立っている。

 俺は灯台のぐるりを周り、水平線が綺麗に見える場所を探して腰をおろした。海側にぶらりと足を投げ出す。波がきらきらしていた。俺は目を細めた。夏のさなかは、もっと海と空の境目はくっきりしていた。夏を過ぎるとどんどん空が澄んで、高みに昇ってゆくかのように見える。海はそれに追いつけない。

 俺の足元、わずか一メートルほど下はもう海だ。波が打ち寄せて、白いしぶきをあげる。潮の流れが灯台の土台にぶつかって、ぐるぐると渦を巻いているのがわかる。そのぐるぐるをずっと見ていると、酔ってしまいそうになる。船に乗っているみたいだ。

 きいんと、耳鳴りがする。普段は拾わない音を耳が勝手にキャッチしてしまったようだ。俺は、本当に自分がはるか波の彼方へと運ばれているような気がした。

 いや、気のせいではない。

 俺は運ばれている。

 今俺が居るのは船のうえで、舳先が海面を裂いて白いしぶきをあげながら進むのを見ているのだ。

 かもめが飛んでいる。何羽も、何羽も。まとわりつこうとして、また離れて、海風にのってどこかへ去っていく。

 俺はひとりだ。この船には誰も居ない。玲も。ふり返れば、今しがた俺たちがいた灯台ははるか遠くにある。玲は俺が旅立ったのにも気づかず、ひとりで絵の世界に入り込んでいるんだろう。

「玲」

 俺のかすれた声は海風にまぎれて消えていく。

 

「リョウ」

 玲の声。はっと顔をあげる。太陽の位置がだいぶ下がっている。スケッチブックを抱えた玲が俺の顔をのぞきこんだ。

「何ぼうっとしてるの。寝てたの?」

「寝てた……? ああ、そうなのかな」

 さっきまで船に乗ってどこかへ向かっていた気がするが、きっと夢だったんだろう。

「もう描き終わったの?」

 気を取り直して聞くと、玲はこくりと頷いて俺の隣に腰をおろした。波の音がする。規則的に繰り返される音は、かえって静けさを助長する。

「海って、いつまでも見てても飽きないね」

 玲がつぶやく。

「そう? 俺は、なんだか怖くなるよ。足元に深い海が広がって、渦を巻いているのなんか見てると」

「でも、なぜか目をそらせないのよね」

 玲はうつむいて白い波を見ている。

「玲。笑うなよ」

 俺は水平線を見つめたまま言う。

「俺、今、この世界に存在してるのが、俺と玲だけだったらいいのにって、思ってる」

 玲は俺を見上げて静かに微笑む。困らせてしまったかな、と少し後悔する。

 俺はどうしても舵がうまくとれない。玲とふたりで、どこへ向かえばいいのかわからない。

 俺はきっと玲を置いてどこかへ進んでいく。いや、玲が俺を置き去りにするのか。

 玲が澄んだ目で俺を見る。玲の頬に触れると、少しひんやりする。俺の手のほうが熱いのだ。

 強い風が吹いて、玲のスケッチブックがぱらぱらとめくれる。

 海はひとつなのか。玲のフレームにある海。それは、いま俺が見ている海と、同じ海なのだろうか。この世界でふたりきりになったとしても、きっと俺には玲の海は見えない。俺はそれを、口に出せずにいる。









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