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明晰夢

 わたしは知っている。これは夢だ。

 わたしは今、みずいろの、ぬるい海をたゆたっている。銀色の魚の群れが光の帯となって通り過ぎる。きらきら、きらきら。海上から差し込む陽のひかり。無数の水泡がたちぼる。

 わたしは高城美奈子二十七歳独身、歯科医院で受付事務をしている。今わたしは眠りのなかにいる。これが夢であると自覚しながら見る夢、たしか「明晰夢」と言うのだっけ。ぼんやりと考えながらふわふわ漂っていると、さきほどの銀色の魚の群れが恐るべきスピードで向かってきた。あっという間に、わたしのいる海水ごと銀の魚に飲みこまれ、わたしの意識は消えていく。ああ、もうすぐ目が覚める。


――覚めた。

 覚めてもわたしはまだ高城美奈子二十七歳ではない。まだ水の中に居る。海水ではない。もっと浅い、もっと淀んだ……。のっそりと四肢をうごかし、ぬめる岩の上を這い、水から上がる。泥と緑のにおいがする。川なのか池なのか湖なのかわからないが、しずかな水辺と陸のみぎわにわたしは居て、ずるずるとぬめるからだを這わせて進んでいく。どこへ。

 ふと、わたしのからだを大きな影が覆った。いけない、と、高城美奈子のものではない、この生き物の直観のようなものが告げる。天敵だ。やられる。そう思った直後、大きな翼がからだの真横で竜巻のような風を起こした。ああ、食べられてしまう。

 もうすぐ目が覚める。


――覚めた。

 今度こそわたしは高城美奈子のすがたで、いつもの部屋のいつものベッドで身を起こし、アラームを止め、大きなため息をついて洗面所に向かうのだ。

 そう思ったのに、こんどは。

 木の上にいた。乾いた木の幹にしがみつくわたしの足は、従兄弟がむかし飼っていたあれにそっくりだ。――とかげ。

 ああ、嫌。夢だとはわかっていても、自分がとかげの姿になっているだなんて。爬虫類は苦手だ。わたしを悩ませる、あの男を思い出すから。

 幹をつたって、枝先のほうへと器用に進んでいく。重なり合う葉がひかりを浴びて呼吸している音がする。ああ。

 と、わたしのからだは射すくめられたように唐突に動かなくなった。しかしそれは一瞬で、すぐにわたしは四肢を動かし、逃げまどった。天敵だ。やられる。また鳥だ。するどいくちばしが狙っている。ああ、食べられる。殺される。目が覚める。


――覚めた。

 わたしは仲間とともに草を食べている。まがった角をもつ、からだだけは大きいけれどその性質はおだやかな、牛のような生き物。仲間のすがたを見れば、今自分がどんな生き物になっているのか見当はつく。いったいいつ、わたしは本当に目を覚ますことができるのだろう。

 それにしても、わたしの食む草はやわらかくみずみずしい。今まで食べたどんな野菜よりもずっと。ゆっくりと草を噛みつぶしながら、移動をはじめた仲間についていく。

 ゆったりと時間は流れる。

 何度目が覚めても、高城美奈子のすがたに戻れないのは。ひょっとして、わたし自身が、目覚めることを望んでいないからかもしれない。わたしはそう思いはじめていた。高城美奈子は疲弊しきっている。あの男のせいだ。

 あの男の、ぎょろりと光る、目。うっかり思い出してしまい、草食動物の大きなからだが、ぶるりとふるえた。

 男はわたしの勤務先である歯科医院の患者だ。治療がすべて終了しても医院を毎日のように訪れ、待合のソファに腰かけ、受付カウンターをひたすら凝視する。男の標的はわたしだった。彼の、自分のなかだけにある妄想の世界で、どうやらわたしは彼の恋人であるらしかった。待ち伏せされ、個人情報を探られ、隠し撮りした写真を送りつけられた。メールや無言電話も続いている。院長や警察に相談もした。しかし事態は変わらない。身を守るため、男性スタッフに送迎をお願いするくらいしか、なすすべがない。

 と、となりを歩いていた仲間が突然びくんとからだをふるわせ、足を踏み鳴らした。それは群れのあいだに信号のように伝播し、示し合わせたように、いっせいに駆けだす。

 天敵が追ってきているのだ。獅子かハイエナか虎か、どんな獣かはわからない。とにかく獰猛な肉食獣だ。わたしは駆けた。もう食べられるのは嫌だ。目を覚ましたい。だけど殺されるのは、もう……。

 するどい爪がわたしの背に刺さり、わたしは倒れた。ごう、と獣のうなる声がする。

 もう駄目。わたしは殺される。目が、覚める……。


 無機質な電子音がひびいて、わたしは目を開けた。朝の白いひかりがカーテン越しに射しこんでいる。まだ脳はぼんやりしているのに、手は勝手に動いてスマホのアラームをとめた。

 うすい掛布団、糊のきいたシーツ。使いなれた枕。

 高城美奈子二十七才。息を大きく吸い込んで、自分の顔に両手で触れる。にんげんの、肌。

 ゆっくりとベッドから這い出る。キッチンで、トースターにパンをセットする。やかんを火にかけ、お湯を沸かしはじめる。

 まだ夢のなかにいるような心地がする。この夢はいつまで続くのか。

 洗面所に向かう。顔をあらって、鏡にうつるわたしの顔を凝視する。たまご型の輪郭、長い髪、腫れぼったいまぶた、薄いくちびる。ああ、いつもの、わたし。

 と。

 鏡のなか、わたしの後ろに。異物がまぎれこんだ。ここに居るはずのない人物。ぎょろりと大きな目を光らせた、男。

 固まって動けないわたしの肩に、男はかさついた手のひらを置いた。

「いつも男と一緒に帰っているね。裏切りだよ? ミナちゃん」

 つぎの瞬間、背中に衝撃がはしった。目覚める直前、わたしの背を裂いた、あの肉食獣の鉤爪にも似た、するどい何か、が。刺さっ、た。

 痛みは感じない。知っている。痛みはあとから広がり、わたしを覆いつくし、やがて消えていくのだ。

 ああ、もうすぐわたしは目を覚ます。つぎはいったい、わたしはどんな姿になっているのだろう。薄れゆく意識のなか、そんなことを、考えていた。


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