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深海の人魚姫

 いつものようにドアを開けると、冷えた空気がからだを包んで、背中の汗が一気に引いた。蝉の声も届かない。

 いらっしゃい、と長島さんがカウンターの奥から声をかけてくれる。軽く会釈をすると長島さんはにっこり微笑んでくれた。


 ここはコミュニティセンターの二階にある小さな図書室。市立図書館の分館で、職員は長島さんひとり。夏休み、私は毎日のようにここへ涼みに来ている。部活もしてないし塾にも行ってない、遊ぶ友達もいなくてヒマなのだ。

 私は窓際の席に座り、一応、持ってきた教科書とノートを広げた。

 窓から見えるのは、入道雲のたちのぼる、すこんと青い夏空。それから、隣接する公園の桜の木と、その木陰のベンチでふざけ合っている中学生グループ。部活帰りの、ジャージ姿の男の子たちに囲まれて笑う、背の低い、ポニーテールの女の子。

 羽田さんだ。そう気づいた瞬間、私はすぐさま荷物を片付けて、反対側にある児童書コーナーの席に移動した。彼女に気づかれるはずはないのに。

 同じクラスの羽田さんは、いつも取り巻きの女の子に囲まれて、男子にも人気がある、リーダー的存在。羽田さんの笑顔に隠された、冷たい目を思い出して心臓がぎゅっとなる。私は知っている。あの子がいつも私を見て笑っていること。私を指さして、暗いとかださいとか陰口を叩いていること。

 ため息をついて視線を落とすと、象みたいに太くてみにくい足が目に入った。ああ、いやだ。この見た目がいけないんだ。

 私は太っている。顔もみにくい。まぶたは腫れぼったいし、眉は濃くて太くて小さな目とのバランスが悪い。おまけに二重あご。最悪だ。なんて不公平なんだろう。私だって羽田さんくらい可愛く生まれてきていたら、もっと堂々とふるまえるはずなのに。

 立ちあがって深呼吸した。読書でも、しよう。と、適当に棚から引き抜いた本の、繊細でうつくしい装丁に、はっと目を奪われる。アンデルセンの「人魚姫」。この話、なつかしい。ゆっくりとページを繰る。


 私はお姫様が出てくるお話が嫌いだった。美しいお姫様が王子様に見初められて、最後は結婚してしあわせになる。うそくさい。でも人魚姫はちがう。姫はその美しさにもかかわらず、最後はふられて海の泡になる。そこが好きだった。でも。でも、なんだかなあ。綺麗な主人公だと、悲劇すらも絵になってしまう。

 私は席にもどった。大学ノートをひろげて、シャーペンを走らせる。

 できた。ぶさいくな、人魚姫。

 私が描いた人魚姫。目は小さくてげじげじ眉毛。顔は下ぶくれで、二重あごで、三段腹。ふきだしの中のせりふは、「ダイエットしなくちゃ王子様に会いに行けない」。へんなの。ぶさいくなのにどこか愛嬌があって、私は彼女が好きになった。それから新たなキャラを書き加えた。姫の執事。綺麗な熱帯魚とかじゃなくって、へんなのがいい。たとえば、ひらめ。前々から思ってたけど、目が寄りすぎてて、かなりおかしなルックスだ。それから……、タコ。実物はかなりグロテスク。

 ぶさいくな人魚姫と、おかしな仲間たち。

 段々愉快になってきて、こうなったら仲間をたくさん増やそうと思い立った。「海の生き物」の図鑑を持ってきてへんな生き物をさがす。ひかりの届かない深海に棲む、気味の悪い、あやしい生き物たち。ウミグモ。ヌタウナギ。ホウライエソ。それぞれ、透けてたり、凶悪な顔してたり……、まるでエイリアンみたい。

 あんたたち、おかしいね。こんなにみにくく生まれてきて、冷たい、暗い海の底でひっそり暮らしてるなんて。そう思うと、なんだかよくわからない愛しさのようなものがこみあげてきて、少し泣けた。

 そのとき、風もないのに、広げていた図鑑のページが、はらりとめくれた。

 図鑑の中からチョウチンアンコウがぬらりと飛び出してきて、私の目の前を泳ぎだず。

「どういうこと?」

 思わず口に出してしまっていた。

 見る見るうちに図書室の人々や本棚が消え、視界が青く染まり、その青は深く濃くなり、ついには宇宙のような暗闇となった。

――怖い。どうなってるの? 私がお魚さんたちのこと、気味が悪いだなんて言ったから、それでこんなことに?

 非現実的な思考がぐるぐるまわる。海の底に閉じ込められたの? 私。

 ふと、目の前で、小さな光がふわんと点滅した。なに? 蛍みたいだけど、ちがう。

 それはさっき図鑑から出てきたチョウチンアンコウだった。淡いひかりに照らし出された大きな口がゆがんで、笑っているように見える。発光しながら泳ぐアンコウ。つられるように、暗闇のなかにぽつぽつと光がともりはじめる。図鑑のなかの生き物たちにまじって、私が描いた生き物たちもいる。私が描いた、人魚姫もいる。いのちの光のなかで、みんな、ゆらゆらと気持ちよさそうに漂っている。

 私は魅入っていた。まばたきするのもわすれて、しずかな深い海のなかをたゆたっていた。

――星空みたい。みんな、星になって光ってるの。


 きゃはは、と、背後で甲高い笑い声がひびいて、びくりとからだが震える。それで私は一気に昼間の図書室に引き戻された。すうっと、深宇宙のような光景は消えていった。

 何だったんだろう、いまの。

 五歳くらいの子どもたちが騒いで、長島さんが、しずかにーと注意した。子どもたちは何やら口答えしている。

「だって、おもしろいんだもん。ナガシマさんも見てよ、このお姉ちゃん」

 お姉ちゃん? 私のこと?

 長島さんが、子どもに手を引かれてこちらにやってくる。と、背後で、へえ、と低い声がした。とっさにノートを隠す。

「隠さないで、もっと見せて」

 長島さんが私のノートを覗き込んだ。ねー、おもしろいでしょ、と子どもたちがはしゃいでいる。

「ほんとうだ。おもしろい。ユーモラスで愛嬌があって」

 感心したような長島さんの口ぶりに、胸のなかがほんわりあたたかくなる。照れくさいよ。

 お姉ちゃんもっと描いてよ、と子どもたちにせがまれる。

「いいよ」私は微笑んだ。「そのかわり、みんなしずかに、ね」

 やったあお姉ちゃんだいすき、と子どもたちが笑う。

 図鑑のなかのアンコウが、一瞬だけ、ぴかん、とそのちょうちんに光をともした。ような、気がした。

 


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