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しゃぼん

 風が吹いている。昨日、気象台が梅雨明けを宣言した。

 さらりとした空気が心地よい休日、俺は一週間分の洗濯ものを干し終え、ふうと息をついた。

 妻の美月は先月から実家に帰っている。出産のためだ。

 ひさびさに味わう独身気分も悪くない。そうだ、ビールでも飲もうか。

 冷蔵庫のとびらに手をかけて、やめる。美月が電話で言っていたのだ。もういつ生まれてもおかしくない状態らしいと。やっぱりやめだ。酒なんか飲んだら、万一の場合、車で駆けつけることができない。それに、まだ家に持ち帰ってきた仕事がたんまり残ってる。

 アパートのベランダから見える遠くの山は青さを増して、空との境い目はくっきりとしている。夏の風をうけて洗濯物が揺れている。俺は手すりにもたれかかって、ビールのかわりに冷えた麦茶を飲みながら、それらをぼんやりと眺めていた。


 実家に帰る前、美月は何枚もの、ちいさな布きれを洗濯していた。

「何、干してるの」

 俺が聞くと、

「マナの肌着。生まれたらすぐ着せてあげられるように、水通ししておいてるの」

 美月は得意気に言った。マナ。赤ん坊の名前。漢字はまだ考え中だ。

「すげえ。こんなちっちゃいんだな。人形の服みたいだ」

 薄い、やわらかなガーゼの肌着。思わず、妻の大きくせり出したお腹を見やった。信じられない。ここに小さな生き物がいて、それはきっと俺にそっくりで、しかも、もうすぐ生まれてくるなんて。美月は満ち足りた笑みを浮かべている。母の顔、ってやつだ。未だ実感がわかないなんて言ってる俺はすっかり蚊帳の外だ。

 こんなんで、ちゃんと「父親」になれるのか、俺は。


 麦茶を入れたグラスは汗をかいている。無数の水滴がひかりを浴びてきらきらしている。俺はごくりと喉を鳴らしてそれを飲み干した。

 そのときだ。

 俺の目の前に、まるい透明なものがふわりと落ちてきた。それは空中をゆったりとただよっている。しゃぼん玉だ。晴れた空やここから見える町並みやこんもりとした木々なんかを、まるい玉の中に閉じ込めて、ゆらり。もうひとつ、ふわり。ぱちん。干したシャツにぶつかってはじける。上の階の子どもがしゃぼん玉をとばして遊んでいるのだろう。

 しゃぼん玉は次から次に降りてきた。さあっと風がふいて、小さな魚の群れみたいに、たくさんのかよわい丸い玉が飛んできてどこかに流されてゆく。

おとうさん。

小さい声がした。高い、甘えるような、子どもの声。空耳か?

おとうさん。

もう一度。俺はあたりをきょろきょろと見回した。目の前を大きなしゃぼんの玉が通り過ぎる。虹色にひかるうすい膜の中に、なにかいる。

俺は目をぱちぱちとしばたいた。目がどうかしてしまったんだろうか。

赤ん坊だ。小指ほどの大きさの赤ん坊が、しゃぼんのあわの中でキャッキャッと笑っている。

ふわり、ゆらり。赤ん坊がまっすぐに俺の目を見つめる。丸くて、澄んできらきらと輝く瞳。赤ん坊の瞳に俺が映っている。吸い込まれそうになる。一瞬、今がいつでここがどこなのかわからなくなる。自分が誰なのか、さえも。

おとうさん。頭のなかに直接響くような声。マナ。俺は直感した。マナなんだな。もうすぐ会えるんだな。

おまえはどこからやってきたんだ?

しゃぼんの中のマナはにっこりと微笑んで、ぱちん、と消えた。


干し終えたばかりの洗濯物が揺れている。何もなかったかのように。いまのは、白昼夢か?

そのときポケットのなかの携帯が鳴った。俺はあわただしく家を出る。美月の病院へ。マナに、会いに。


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