初めてのデート
第五話 初めてのデート
記憶を取り戻し数日が経ち、僕は無事に退院することが出来た。病院にいるあいだは栞とあの頃のように話をしたり、中庭で散歩をしたりした。長かったはずの入院生活は栞のおかげであっという間に過ぎ去っていった。そして、僕たちの関係が曖昧なまま退院する日がやってきた。僕は栞に簡単に逢えなくなるのが寂しくて仕方がなかった。そんな僕の事を思ってなのか、次の休日にデートをしようと誘われた。デートということは、そう言う事なのだろう。僕は内心ではかなり喜んでいたがそれを栞に見せるのが恥ずかしくていつも以上にそっけなく言葉を返していた。
そして、今日が約束の日曜日。僕は清々しい青空の下、僕は商店街の時計塔で栞を待っていた。昨日は柄にもなく一日中、今日来ていく服について考えたり、どこに行けばいいか考えたり、まるで修学旅行前日の小学生のようにはしゃいでいた。しかし結局は何も決まらずいつもどおりの服装で予定も考えず今に至っている。そんな事を思い返しながらふと、時計を見ると約束の時間から一時間以上経っていることに気がついた。流石に心配になって来たのだが、連絡手段がないのでどうしようもない。栞は今時の高校生には珍しく携帯電話を持っていなかった。病院生活が長いことも影響しているのだろう。僕は仕方なく、上風総合病院に直接電話をしようかと、辺りを見渡してからポケットに手を入れた。すると遠くの方に走ってくる女の子の姿が見えた。栞だ。
「はぁ、はぁ、はぁ、ごめん一時間も遅刻しちゃった」
息絶え絶えに栞が僕に謝ってきた。僕は栞の謝罪の言葉何かそっちのけで栞の姿に見惚れていた。病院の服やパジャマ姿しか見たことがなかったので私服姿を見るのはこれが初めてだった。服装が変わるだけでこんなに印象が変わるものなんだと驚いた。
「まぁ、構いませんよ。ではどこに行きます?」
僕は顔が赤くなっていることを栞にバレるのが恥ずかしかったので、後ろ向きのまま、いつもよりそっけなく言葉を返した。そんな僕が可笑しかったのか栞はクスクスと笑っている。
「何を笑っているんですか?さぁ早く行きましょう」
僕はまだ、クスクス笑っている栞の手を取ってたくさんの人で賑わっている商店街を歩き出した。
ところで僕は何処に向かっているんだろう。行き先も決めずに商店街を手を繋いだまま歩き回っていると、急に栞が歩くのを辞めた。何かあったのかと思い慌てて栞の方を向く。しかし栞の方を見てもほんの少しだけ息を切らしているだけで特に問題は無さそうだった。僕が不思議そうな瞳で栞を見ていると栞はひと呼吸置いてから話し始めた。
「ところで何処に向かってるの?」
栞の言葉を聞いて今この状況を改めて整理してみた。
確かに、何をやってるだろう?僕は……何も考えていなかったとしても栞の体への負担を考えれば何処かのファミレスやら公園にでも行けば良かったのに。僕は自分の事しか考えていなかった事を後悔した。
「すみません……栞、実は何も考えていなかったんです。何処に行こうとか、何をしようとか……」
栞に申し訳ない事をしたと思い素直に謝った。すると栞は、もう一度クスリと笑い僕の方を向いた。
「私は、貴方と居られれば何処だって構いません」
栞は胸に手を当てながら、いつもとは違う口調で言ってきた。僕の事を愛しそうに見ている栞の表情を見て僕はドキッとした。僕は一人で何を空回りしていたんだろう。ただ、その人と一緒に居られるだけでも幸せになれる。その事を改めて実感した。
「でもぉー」
栞は僕の様子を見ながら取って付けたようにこう続けた。
「遊園地……行きたいかも」
『遊園地』その単語を聞いたのが小学生以来だったのでとても懐かしく、何故か寂しく感じた。そんな僕の表情をみて申し訳ないと思ったのか。
「あはは……無理だよね。高校生にもなって、それにもうお昼過ぎだし」
栞は無理に笑顔を浮かべて僕に謝ってきた。そんな栞の表情に感化されたのか、それとも自分もただ行きたくなったのか。僕には分からなかったけど。栞に向き直してこういっていた。
「行きましょうか。遊園地」
そんな僕の言葉に驚いたのか栞は口を開けたまま、目をパチパチさせている。もしかしたら僕の失った記憶の一ページが『遊園地』にあるのかも知れない。そんな思いもあったが、なにより一番は栞に寂しそうな顔をして欲しくはなかった。時々影のさしたような表情をする栞を見て。美南と重なっているのを、もう無視することは出来ないのかも知れない……
自分のためにも、この笑顔の為にも……
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電車とバスを乗り継ぎ、目的地に着いた頃には、先程までの蒸し暑さはなく、僕達を包み込むように茜色の空が広がっていた。
「あぁ、なんで忘れていたんだろう……遊園地の事」
遊園地の入口に立った瞬間、様々な過去たち(おもいで)が頭の中を駆け巡った。以前のように倒れなかったのは僕が強くなったからなのか、栞が側にいてくれたからなのか……
「思い出したんです……ここで遊んだ事、僕と栞と栞の母親の三人で遊びに来たことを」
僕は途切れ途切れになりながらも、栞に向かって言葉を紡いだ。
「そっか……」
僕の事に気を使ったのか、ただ一言それだけ言って、僕が落ち着くまで側にいてくれてありがとう……僕は恥ずかしかったので心の中で栞にお礼を言って、栞の手を握って遊園地へと入っていった……
その時の僕達の顔は、本当に幸せそうな顔をしていたと思う。たとえ、もう一度記憶を失うことがあったも、この日の事、この栞との初めてのデートだけは絶対に忘れないようにしよう、そう心に誓いながら……
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「でも、よかったの?」
遊園地に入ってからしばらくすると栞が訊いてきた。
何の事かというと入場料の事だ。僕は自分の分と栞の分を係員さんに言って半ば無理やり買って入ってきたのだ。
栞は心配そうに僕を見ている。
「私、始めから遊園地に行きたかったし初デートだからって多めにお金持ってきたのに……」
そんな栞の話を聞いて僕はクスクスと笑った。栞は何故、僕が笑っているのか分からないと言った顔をしている。
「だって、僕も初デートだし、男だからって多めに持ってきたんですよ」
僕が笑いながらそう言うと、栞は少しの間、ポカンとした表情をしてから、私たち似た者同士だねって言いながら、僕と同じく笑い出した。
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遊園地に入ってしばらく経ち、僕達は夕食を食べる為に園内に逢ったレストランへと足を運んだ。
「短い時間だったけど、まるで幸せだった頃に戻ったみたいで楽しかったよ。ほんと、このまま時間が止まってくれればいいのに……」
注文も終わり、料理が来るまでの間に栞は何の前触れもなく話し始めた。
まるで、これが最後の刻のように……その言葉を紡いでいる栞の表情は儚く、そして美しかった。
僕はそんな栞に見惚れていた。しばらくして我に返って気がついた。栞の体調が崩れ始めていることに。僕は浮かれすぎていた。初デードだからって。初恋の人とただ一緒にいられるそれだけで……浮かれるのは仕方がなかったかも知れない。でも、栞の、大好きな人の体調が崩れていることに気がつかなかったなんて、自分が情けなかった。また、あの頃のように全てを失いたくない二度も大切な人のことを失いたくない……そんな事を頭の中を駆け巡った。
僕は直ぐに栞の手を取りレストランを出た。栞は驚いた表情をしている。体調のせいか、何かをいう訳でもなく抵抗する訳でもなく、僕に引っ張られていた。遊園地の入口付近まで来て僕はようやく栞の手を離した。
僕は何をしてるんだろう……栞の思いも考えずに、自分の我が儘で。どんどん自己嫌悪に陥っていく。
僕のそんな表情を見てなのか栞はゆっくりと僕を抱きしめてきた。
「大丈夫だよ……」
栞が言った、たった一言、それだけで僕は大きな安堵感が生まれた。あぁ、なんていい子なんだろう、僕の事をこんなにも考えてくれる……
僕は心の中でそんな事を考えながら、ゆっくりと栞から離れた。離れると同時に先程まで雲に隠れていた月がゆっくりと姿を現した。
次第にはっきりと見えてくる栞の顔……そして表情。月明かりに照らされた栞の表情は慈愛に満ち溢れている。
「ねぇ。キス。しよっか?」
栞の言葉。キス。きす。キス。何ていい響きなんだろう。僕は吸い寄せられるようにゆっくりと栞に近づく。そして、僕はゆっくりとキスをした。
ただ、唇を合わせるだけの行為に何の意味があるのだろう。そんな事を昔から思っていた。でもこれで理解した。キスはとても心が安らぐ。触れることにより、自分の存在を、そして相手の存在を認識できる。僕自身がここにいる事を証明したくて……僕は何度も繰り返しキスをした。この行為を続けていくうちに、自分の目に涙が溢れていることに気がついた。それだけではなく、何度もキスを交わしていくと美南の悲しそうな表情が頭の中に浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返していた。涙が止まらなかった。こんなに幸せなのに苦しいなんて。そんな僕の異変に気がついたのか栞は直ぐに僕から離れ申し訳なさそうに謝った。
栞の表情は月明かりが影となって見えない。それでも何かを決意していることだけは雰囲気で伝わって来た。
「翔くん……貴方が私を通して美南さんを見ているのは知ってたよ、翔くん自身が気が付いてなかったのも全部……」
栞は心なしか早口で捲し上げる。栞はひと呼吸おいてから更に話を続ける。
「でも、今だけ、今だけは……私を見て、私だけを」
栞の言葉を僕はただ聞いてる事しか出来なかった。先程までキスをしていたというのに僕は栞に触れることはおろか、目を合わせる事すら出来なかった。
「そっか……やっぱり、私じゃダメだったんだね」
栞が俯きながら寂しそうに呟く。そんな栞を見て僕はようやく現実に戻って来れた。
「ごめん……栞。散々期待させて栞を裏切るなんて……おかげで僕やっと気付いたよ。まだ、美南のことが好きだって事。栞よりも。僕は無意識のうちに栞に対して壁を作っていたのかもしれない。敬語で話をしていたのに、今の今まで気が付かなかった」
昔、大好きだった栞よりもまだ、美南のことが好きだということに自分自身驚きながらも、栞に対する申し訳無さから無意識に言葉を紡いでいた。
「ようやく、素直になったね翔くん。行きなさい、美南さんの所へ」
栞は僕の目を真っ直ぐ見て僕の背中を押してくれた。僕が栞に言葉を掛けようと口を開いた瞬間、携帯が鳴った。
――井上からだ――
僕はゆっくりと通話ボタンを押し携帯を耳に当てた。
「久しぶりだな、天野……俺のこと覚えているか?」
井上からの着信だったのはディスプレイを見て分かっていたのだが、普段の井上とは似ても似つかないくらい声色も低く人を馬鹿にしたような口調に本人なのかどうか少し迷ってしまった。直ぐに僕は本当に井上なのかどうか訊いていた。
「そうだ。井上、嫌。進藤暁彦だよ」
『進藤』だって……まさか、井上が……
「驚いて声も出ないようだな、お前に栞と同じ苦しみを与えてやる。『大切な人を失う』苦しみをな。体育館に来い、そこで……待ってる」
井上は用件だけ早口で告げると一方的に通話を切ってきた。
「おい!!井上、井上!!」
僕は通話が切れるのと同時に電話越しに叫んだ。その様子を見て栞は驚いた顔をしている。
「どっどうしたの翔くん?何があったの?」
栞が駆け寄ってくる。僕はなんとか心を落ち着かせながら栞の方に向き直った。
「美南が井上に……嫌、進藤に捕まっている……僕に栞と同じ苦しみを与えてやるって」
絞り出すような声で途切れ途切れになりながらも言葉を紡いだ。
「進藤くん?ってもしかして小学校の時に仲の良かった?」
栞は直ぐに思い出したみたいで『進藤』という名前にかなり驚いている。
「僕はどうしたらいいんだろう」
美南が捕まっているというのに。あの進藤の状態なら何をされるか分からないというのに、僕はその場を一歩も動くことが出来なかった。そんな僕を見て栞は僕の方にゆっくりと近づいてくる。そして、歩いていた時よりも更にゆっくりとした動作で栞はゆっくりと手を振り上げた。パチンという乾いた音。遅れてきた痛みによって、僕は今何が起こったのかを把握した。
「翔くんがそんなんでどうするの?美南さんは助けに来て欲しいって思っているはずだよ。助けに来てくれるって信じてるはずなんだよ?」
栞は少し早口で捲し立てた。その瞳にはホンの少し涙が浮かんでいた。
「栞……」
僕は栞の今まで聞いたことのない叫びにも似た声に何も言えなくなっていた。
「行きなさい!!貴方の大切な人を助ける為に」
栞がいつもよりも少し強い口調で言ってきたのは僕の背中を押す為だったのだろう。
僕は迷っていた過去を取るか現在を取るか、どちらかを傷つけることになるのは目に見えていたので尚更決める事が出来ないでいた。
「僕はどっちも失いたくない……それは欲張りなことなのかな?」
誰に聞くわけでも答えを求める訳でもなく呟いた。
「翔くん……私は、ううん、待ってるから全て終わったらまた会えるから、今は美南さんのところに行ってお願いだから……」
体調のせいなのか、気持ちを込めているせいなのか分からなかったけど栞は胸に手を当てながら僕に言ってきた。栞が言った『また会える』という言葉にとても安心できた。
「そうだね……今助けるべきなのは美南の、嫌、井上と美南だよね。ありがとう栞」
思い返せば栞に敬語を使わないで話したのは再会してから初めてだった。その事に栞も気がついたのか嬉しそうな顔をしている。
「やっと、同じ目線に立ってもらえた気がする。本当に昔に戻ったみたいに……」
どうして今まで敬語なんて使っていたんだろう。なんでもっと早く気が付かなか、ったのだろう。そうしたらもっと早くこの笑顔を見ることが出来たのに。この笑顔をもう一度見る為にも。今は美南を助けに行こう。ようやく決心することが出来た。
「ありがとう栞。必ず戻ってくる。美南も暁彦ももう傷付けさせない。僕が動く事で誰も傷つかないのなら僕はもう、迷わない」
僕はそう言うと一目散に美南と暁彦の待っている体育館へ向かい走り出した。