過不足のある経験値
菊の時間稼ぎは成功した。
首を捻るバフィトを置いて部屋を出る。バフィトが付いてこないのを確認して、菊はイフに尋ねた。
「イフさん、私聞きたいことがあるんです」
気持ちがはやる。部屋を替える時間さえ待てない。どうしても知りたい、直ぐ知りたい。
この世界は、問答無用で体を癒す、反則じみた薬は存在しているのか。
もしもそんな薬があるのなら。
手に入れることが出来るなら。
■□■□
源家の女は体が弱い。
誰に教えられたわけでもないが、中学校に入ることには知っていた。気付いていた。
体の弱い母と妹。菊が生まれた時にはもう、祖母は亡くなっていた。そして菊も、幼い頃は体が弱かった。
双子の弟達が生まれるまでは大人しくしていることがちっとも苦ではなかったが、元気いっぱいの彼等を見ると、菊も外で遊びたくなった。
日向にずっといてはだめ。走り回ってはだめ。
母の言いつけを破って外で思うさま遊び、菊はその夜、高熱を出して寝込んでしまった。
看病をしたのは母だ。
菊の具合がよくなると、入れ替わりで母が寝込んだ。ごめんなさいね、と母が謝って、菊は泣いた。自分が悪いのだと言うことは分かったが、何故母が謝るのかは分からなかった。分からないけれど、泣きたくなるくらい悲しかった。
母の体調は戻らず、暫くすると入院した。
菊が、感情に任せて、後先考えずに遊び回ったせい。
母の入院は悲しかったが、菊はなるべく明るく振るまった。ここで自分が暗い顔をしていたら、弟達の顔がもっと暗くなってしまう。
家の手伝いを進んでするようになったのはこの頃だ。ただし、無理はしない。無理をして体調を崩したらどうなるか、骨身に染みていた。
病院から家に戻った母は、手伝いを覚えた菊を一番に褒めてくれた。
流石お姉ちゃんね、ありがとう。
無理はしない。でも菊は、出来ることは精一杯に頑張った。
これが良かったのか、体が徐々に丈夫になっていく、小学校の中学年に上がる頃になると、他の子達と同じように遊べるまでになった。
妹が出来たのは小学校3年の秋。
妹はぎょっとするくらい小さくて、母は、病院から帰って来られない。
「秋桐、今日友達とケンカしてたでしょ。駄目だよ、仲良くしないと」
「柊、廊下は歩かなきゃ。怪我してからじゃ遅いんだから」
元気すぎる弟達の面倒を見るのは、菊の仕事だった。
擦り傷や切り傷、軽い打撲なら菊が手当をした。宿題をきちんとしているか、忘れ物はないか、余所ではお母さんがするようなことを、菊が一手に引き受けた。
掃除洗濯はおてのもの。
大人びるのが早いのは当然で、機転が利くから何かと頼りにされる。小学校6年生で整備委員長になった。以降「委員長」が菊のあだ名だ。
中学に入る前に、母と妹……桔梗が家に戻ってきた。
桔梗は小さくて。
小さくて、小さくて。切ないくらい小さくて。
子供だから桔梗はよく泣く。泣くと疲れる。疲れると、熱を出す。菊は桔梗が泣かないよう、色々なことに先回りするようになった。
家に帰ると秋桐と柊が散らかしたオモチャが散乱していて、菊は2人を怒る前にまずオモチャを片付ける。2人が片付けるのを待っていたら、桔梗が転んで、泣いてしまうかもしれない。
桔梗を保育園に預けることについては、家族の中で意見が割れた。体が弱いから家で面倒を見るべきだ、という父派と、友達を作るために通うべきだ、という母派。
勝ったのは母だった。
桔梗は保育園に行くのが楽しみで、興奮して……寝込んだ。看病をする菊に、桔梗はか細い声で言う。
「お姉ちゃんや、お兄ちゃんは、良いなぁ」
菊も同じだ。
桔梗くらいの頃は、菊の体も弱かった。
そう言ってしまうのは簡単だった。
だから桔梗、桔梗の体も強くなるよ。
そう言ってやるのも簡単だった。
先回りすることに慣れた菊は、桔梗に、何も言うことが出来なかった。
その場しのぎの慰めで終わってしまった時に、桔梗は菊を――。
■□■□
「ある」
詰め寄る菊に、イフが言う。
「不老不死を叶えた人間はいないが、命の期限を延ばすことに成功した人間はいる。万病を癒すと言われる薬もある」
それがどうかしたのか、と問うイフに菊はゆるゆると首を振った。
あるということさえ分かれば、今は、良い。
どこにあるのか、手に入れるためには何が必要なのか、尋ねたいことは山ほどあったし、尋ねたい気持ちも強かったが、菊は心に蓋をした。
感情に任せて、後先を考えずに走るのは、よくない。
今だって、菊が無理にバフィトを納得させて部屋から連れ出したから、イフの表情が厳しい。
「聞きたいことはそれだけか」
「はい。次はイフさんの話を聞かせて下さい」
「では言おう」
主導権を譲ると、イフは大きく息を吐き出し、
「何て無茶をする!」
菊を叱り付けた。
「あの男が魔族だと私は言った。それなのに取引を持ち出すなど! 見た目は子供に見えるかもしれないが、バフィトと名乗る魔族がグレナに現れたのは132年前だ。3つの眼を持った鴉の大群を引き連れたバフィト、ワルカの街を呑む――神殿の記すところによれば、あの魔族はグレナへ頻繁に干渉している。ただの魔族であれば、魔界から出てくることさえ出来ないというのに。バフィトは間違いなく、力ある魔族だ。もしかしたら伯爵級の!」
剣幕に圧されて、菊は一歩退いた。
謝れ。謝らなければ。そう思うが、怒鳴り声に体が萎縮している。
委員長なんてあだ名が、教師にまで浸透している菊だ。面と向かって怒鳴られた経験は――ない。
どうしよう。