異世界初日
日誌とプリントを纏めて差し出す。
恐らくは次の授業で使う資料だろう。年号とカタカナの踊る紙面から顔を上げ、担任が日誌とプリントを受け取った。
「おお、ご苦労さ……ん?」
眼鏡のつるをクイと持ち上げ、日誌と菊とに視線を行き来させる。
「今日の日直はお前さんじゃないだろう」
「大会までもう日がありませんから、私が引き受けました」
今日の日直は二人ともが運動部に所属していた。練習の疲れが溜まっているのか、二人ともが休み時間を寝倒し、放課後に突入してから「部長に殺される!」と悲鳴を上げながらアンケートの集計作業。
代わりましょうか、と声をかけたら、高校2年にもなる男子が2人揃って泣きながら「委員長ありがとう!」と感謝した。
「委員長、甘やかすのはよくないぞ」
口をちょっと尖らせた担任の言葉に、
「恩を売ったんです、先生。大会が終わってから返して貰う予定です」
と、菊は笑って返した。
見た目の厳つい男教師が口を尖らせるのが可笑しかったこともあるし、教師までもが菊を「委員長」呼ばわりするのが可笑しかったせいでもある。
菊が何かの委員長を務めたのは小学校6年生と中学3年生時の2回で、高校2年の今現在は美化委員会所属の、ヒラの委員だった。
菊の「世話焼きですよ」というオーラは教師にまで影響しているらしい。手間の掛かる弟2人と病弱な妹を持った菊の世話焼きオーラは筋金入りだ。
「それなら良いが。もし踏み倒されたら報告に来るんだぞ」
「はい、よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げて教務室を出る。時計を見ると、5時になろうかというところだった。
書店に寄る予定だったが、真っ直ぐ帰るのが無難な時間だろう。冷蔵庫の中にある食材を思い浮かべ、今晩の献立を思案する。
賞味期限が危ないのは、トウフとあぶらげ、ひき肉。
「トウフとあぶらげのどちらを明日に回そうかな。どちらも危ないんだけど……。あぶらげを冷凍しなかったことが悔やまれるなぁ」
一日二日、賞味期限が過ぎたところで菊と弟2人はどうってことないが、桔梗の体は不安だった。
母の体質をそっくり受け継いでしまった桔梗は、何かあると直ぐに体調を崩してしまう。
思案の末、菊はトウフとあぶらげの両方を使うことにした。大豆食品を2つ使用したとて、文句を言うような人間は源家にはいない。菊の小さな美学に反すると言うだけ。
メニューはサラダと麻婆豆腐と袋煮。……となると、卵が必要なのでスーパーに寄らなければ。菊は帰路から外れ、卵の安いスーパーへ足を向け、
「え」
深紅の床を踏んだ。
■□■□
景色は、一瞬で変化した。
一瞬前まで菊の視界に映っていたのは夕焼けに照らされたアスファルト、民家の塀、電信柱、路肩に止められた車などであった。それが、どうだ。
地面はアスファルトから深紅の床に変わっている。ただ赤いだけではなく、黒い塗料で、何らかの意図、規則性を感じさせる模様を描いた床だった。
顔を上げると、男が2人。
1人は渋面だった。苦虫を噛み潰したよう、という表現がピッタリ当てはまる表情をしている。
もう1人は、男と言うより老人と言った方が良いような年頃に見えた。老人は菊と目が合うやいなや、皮が伸びて重たげな瞼をグワッと持ち上げ、
「ひ、姫様ァァアアアア、勘弁して下されぇえええ」
と、泣き崩れた。
渋面の男はくずおれた老人の隣に膝を突き、おざなりにその背を撫でる。
「師よ、落ちついて下さい」
「これが落ちついていられるか!」
「心が乱れても仕方のない事態ではありましょう。しかしそれは、乱心すべき事態と同一ではありません。心を落ち着けるべきです、師よ。師の本懐とは異なるのでしょうが」
「それが分かっておるなら黙って嘆かせんか!」
「……」
男は心底嫌そうに口を歪めて溜息を吐いた。
老人はフンと鼻を鳴らしてまた泣き出す。
(えぇと)
目に映っていたものが何もかも変化してしまった驚き、未知のものに対する恐怖。他人が同様の状況に陥った時に感じるだろうものを、菊もしっかり感じていた。が、驚愕に狼狽えたり、恐怖に悲鳴を上げる前に、老人が泣き出してしまった。
もうヤだ! とばかりにわんわん泣いている老人と渋面の男のやりとりを見ている内に、菊の心は凪いでしまったのである。
びっくり仰天の事態に心臓は忙しなく動き、顔だって火照っているけれど、頭は冷静だった。
周囲を見回し、2人へ視線を戻す。
薄暗い部屋だった。扉は一カ所で、内側から錠が落ちているのが見て取れる。窓は恐らく、1つ。えんじ色のカーテンの向こう側にあるのは窓だと思われるが、カーテンが隙間なく閉じられているので断定は出来ない。壁は書架になっており、びっしりと本が並んでいた。
夕焼けに照らされた道路からこの場所へ、一瞬で移動できる手段が日本にはあるだろうか?
否、である。
日本以外の国にだって、そんな技術はないだろう。もしかしたらどこかの国で開発されているのかもしれないが、菊とは無縁。
つまりここは菊の知らない世界。
なんて、順繰りに考えて見るまでもなく、菊は自分が普通じゃない事態に陥っていると分かっていた。実際に経験してしまったのだ。他者を説得しているわけでなし、他に理由は要らなかった。
渋面の男の髪が青い。菊の知り合いに一時髪を青く染めた者がいたが、男の青髪は、友人のそれとは比べものにならない鮮やかさである。
因みに、衣装は近世ヨーロッパ、ロココ調のものに近い。ただし色は黒で、ボタンは紐ボタン、履いているのは踝まで隠れるズボンだった。
(来てしまったものは仕方がない。それより今、考えなければいけないことは)
夕食の支度をする時間になっても戻ってこない姉を弟妹達はどれだけ心配するだろう。
連絡のないまま夕食まで帰らなかったら、弟妹達は父に連絡する。母の耳にも入る。
元気の有り余っている弟達だが、これは体に限った話で、メンタルは繊細だ。桔梗は心身共にか弱い。父は心配性で、母は。
背中を冷や汗が流れる。
問題は、帰れるか否かだ。
菊を連れてきたのは目の前の2人と考えて良いだろう。だのに、2人は菊を蚊帳の外に置いている。これは一体どういうことか?
判断材料が少なくて、現状を上手く整理出来ない。
菊は自分の置かれている状況を把握するために、注意深く2人の会話に耳を傾けた。その一方で、彼らの出方によっては――菊に害を及ぼそうとするなら逃げなければいけないから、逃走経路を探る。
(鍵の掛かった扉から逃げるのは無理。となると、窓から逃げるしかない……けども。ここが何階か分かれば良かったんだけど)
後先考えずに窓を突き破るわけにはいかなかった。
2階。2階くらいの高さまでならば、窓から逃げよう、と菊は思う。しかし、えんじ色のカーテンが邪魔で、この部屋が何階にあるのか判断できない。
(だめ、分からない)
渋々カーテンから視線を外す。
と、
「あ」
これはまずい。渋面の男と目があった。