序
大事な用がある、と言われて手を引かれた。
見栄を何より大事にしていて、表情を曇らせることさえ嫌う男が、必死な表情で「頼む」。
断ることなんて出来ずに、菊は手を引かれるまま、彼の後に付いていった。付いて行ってしまったのである。
(せめて用件を聞くべきだった……)
後悔しても遅い。
男が菊を連れてきたのは、国の、最高権力者の前だった。グレナ皇国においては正皇と呼ばれる。正皇の横には宰相。宰相の向かい側には魔術大師、その隣には青鬼、もとい大師補佐……。
黒幕揃い踏みの状態だ。
この面々を前にして、男は言った。
「この娘を国に連れ帰りたい」
空気が凍り付いたような気がした。
実際、凍っていたとしてもおかしくはない。魔方陣も呪文も必要とせず、感情一つで精霊を動かせる男が、絶対零度の視線を菊に向けている。
私の意思ではありませんよ、と菊は首を振ってみせる。が、南極の氷にぬるま湯をかけるようなものだった。青鬼の凍てついた視線は僅かなりとも解けてくれない。
彼の気持ちも分からないではない。
何から何まで悪すぎるのだ。
ひとつ、菊が訳あって喚ばれた異世界人であること。
ひとつ、男がこの国の皇女の嫁ぐべき相手であること。
ひとつ、菊の喚ばれた訳というのが、結婚を嫌がって逃亡した皇女の影武者を務めるためであるということ。
ひとつ、男が「連れ帰りたい」と言うのは、皇女の影武者ではなく、すっかり変装を解いた素の菊であるということ……。
(一体どうして、こうなってしまったのか)
菊はそっと目を瞑る。
男の用件を聞かなかったことを始め、理由はいくらでも思いつく。後で深く反省するべきだろう。しかし今は、とりあえず。
「キク!」
自然に見えるよう精一杯に心掛けて、菊は床に倒れ込んだ。