「来年は」
夏になると、毎年決まって友人家族とキャンプに行った。
子どもたちのために食べ物を用意する私。
友人夫婦と、くだらない話をしながら、夜中まで楽しんだ。
「また来年ね。」
誰かがそう言うと、みんな笑って頷いた。
それが、ずっと続くものだと思っていた。
お正月もそうだった。
大晦日と元日は、お互いの実家へ挨拶に行く。
夫の実家では、義母が作った料理を食べ、子どもたちがお年玉をもらう。
私の実家では、父がいつものように「今年もよろしく」と言い、夫が少し照れながら頭を下げる。
毎年、除夜の鐘を聞きながら列に並び、家族みんなで初詣に行った。
寒いね、と言いながら歩いて、
眠そうな子どもを夫が抱き上げて、
帰りに温かいものを買って食べる。
そして、家族で福袋を買いに行く。
毎年、同じことをしていた。
同じ場所。
同じ季節。
同じ顔ぶれ。
それが、私にとっての「家族行事」だった。
だから、離婚が決まったときも、最初はそれほど実感がなかった。
離婚届に判を押して、
荷物をまとめて、
旧姓に戻って。
そういう手続きが終われば、あとは時間が過ぎていくだけだと思っていた。
でも、夏になって気づいた。
今年は、キャンプに行かない。
友人から届いたメッセージには、
『今年もいつもの場所だよ。元気?』
と書かれていた。
その一文を見て、スマホを伏せた。
「今年も」
その言葉が、胸に刺さった。
去年までは、私もそこにいた。
夫もいた。
子どもたちもいた。
けれど、今年は、私だけがいない。
いや。
私だけではない。
私の家族が、もう存在しないのだ。
年末になった。
以前なら、年末年始の予定を家族のグループLINEで相談していた。
何日にどちらの実家へ行くか。
初詣はどこへ行くか。
福袋は何を買うか。
そんな話をしていた。
今年、そのグループLINEは消えた。
大晦日。
私は一人で自分の実家へ行った。
母は何も聞かなかった。
「お父さん、待ってるよ」
そう言って、いつもと同じように笑った。
私は違った。
夫がいない。
子どもたちもいない。
誰かのために料理を取り分けることも、夫の実家へ向かう時間を気にすることもない。
夜中になっても、初詣に行く予定はなかった。
布団に入ったまま、窓の外を見た。
去年の今頃は、家族で歩いていた。
夫が少し前を歩き、子どもたちがその後ろを走り、私は「走らないの」と言いながら追いかけていた。
あの光景は、もう二度と戻ってこない。
翌朝、駅前のお店では、福袋を買う人たちが並んでいた。
私はその列を、ひとりで通り過ぎた。
欲しいものがないわけではなかった。
ただ、福袋を買う理由がなかった。
以前は、家族で買い物をして、
「これ、誰の?」
「それ、私の!」
と笑いながら袋を開けた。
あの時間が楽しかったのだ。
福袋そのものではなかった。
花火そのものでもなかった。
初詣も、
お互いの実家への挨拶も、
毎年の小さな行事も。
全部、家族でやっていた。
離婚して、夫を失った。
そう思っていた。
けれどそれだけじゃなかった。
私は、毎年少しずつ積み重ねてきた未来も失った。
「来年も、また一緒に」
そう言える相手がいなくなった。
そして、ある日ふと思った。
離婚とは、
一枚の紙に名前を書くことではない。
来年の予定から、
その人が消えていくことだと。
来年のキャンプ。
来年のお正月。
来年の初詣。
来年の福袋。
当たり前に続くと思っていた「来年」が、
もう、あの人とは来ない。
私は窓の外を見ながら、ひとりで呟いた。
「……来年は、どうしようかな」
答えてくれる人はいなかった。




