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二回の裏のA高校の攻撃が終ると、甲子園にB商業の校歌が流れ、それに合わせて一塁側のアルプススタンドの生徒たちも歌っていた。その校歌が終ると、A高校の校歌が流れた。
ラジオの実況のアナウンサーが、
「只今新しい情報が入りました。A高校の応援団がまだ到着していないようです。三塁側のアルプススタンドには誰もいません。一般のお客がちらほらと見えます」
バスの中では、一部の生徒たちがラジオに合わせて、校歌を歌った。するとみんなが校歌を歌い始めた。校長や教頭も口ずさむように歌った。手拍子も加わった。
その歌声で、田淵は目を覚まし、大きなあくびをした。
「こら! 田淵、寝ていたのか!」
珠江が担任の声色で怒鳴った。
「なんだよ。昨日、あまり寝てないんだ」
「A高校野球部の危機だっていうのに、よく寝てられるね」
「俺は野球部じゃない」
「それでもA高校の生徒か!」
「俺ひとりが応援しても、しなくても変わらないだろ」
「そんな問題じゃない! この非国民!」
「今の日本は民主国家だぞ。応援をしない自由があるんだ」
「田淵の裏切り者!」
「わかった、わかった。応援するよ」
「そうこなくちゃ。はい、ご褒美」
珠江は、KitKat を田淵に差し出した。田淵はそれを頬張りながら、「ところで、今どこを走っているんだ」とモゴモゴと言った。
「豊中を過ぎたんじゃない?」
「なんだって? まだそんなところを走っているのか?」
田淵は時計を見た。午後3時12分だった。
「えっ、もう試合始まっている? さっきの校歌は2回が終了したって事?」
「そうだよ。非国民。惰眠を貪っているから世間に置いて行かれただろ」
「いいんだ、俺は世間とは関係ないところで生きていくんだ」
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
美鈴があいだに分け入った。
「落ち着いてられないよ。応援のパワーを念力で送らなくちゃ」
「おまえ、そんな能力を持っているのか?」
「青年よ。この念力はみんなの協力が必要なんだ。バスの中で寝ている人間がいるとパワーがゼロになる」
「アニメの見過ぎなんだよ。それよりもっとKitKat をくれ」
「いいとも、但しバスの中でも応援するのが条件だ」
「へい、わかりました。女王様」
田淵は、5、6個のKitKatをせしめた。
美鈴は、彼らのやり取りを耳にしながら、遠くの山際を見た。
「甲子園って、どの方角?」
「この辺だと西の方角だから、あっちかな」
田淵は、バスの右側を指さした。
「あっちか」
美鈴はその方角を見ながら、まだ見ぬ甲子園を想像した。
「甲子園って、何なんだろうね」
珠江もその方角を見ながら言った。
その方角には、さっきから並走しているトラックの運転手が手を振っていた。窓際の生徒たちと手を振り合っていた。