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美鈴は、野球など興味はなかった。ルールさえ知らない。それに弱小チームだったから、A高校の野球部になんの期待もしていなかった。その美鈴さえ「甲子園」は、球児たちにとって、血と汗と夢と涙が結晶された特別な物、というのは知っていた。
クジ引きで、美鈴は地区予選の一回戦の応援を強制され、渋々野球場に行った。地方球場の観客席は固いコンクリートで、応援よりもお尻の痛みに耐えるのが苦痛だった。いい加減に声を出して応援したが、A高校が試合に勝ってしまった。毎年、一回戦で敗退するA高校が勝利したのだ。
クジで二回戦の応援を当てて、「今年は野球の応援に行かなくて済んだ」と喜んでいた生徒たちの姿が目に浮かんだ。美鈴は、「応援に行く羽目になって残念ね」と、彼らを憐れんだ。
甲子園に向かう日、午前八時に全校生徒がそれぞれの教室に集合した。
教室は、騒がしかった。
美鈴が教室に入ると、
「おはよう、渡会」
と担任の教師が挨拶して来た。
「おはようございます」
美鈴は、挨拶を返すと、教師は名簿にチェックを入れた。
応援用のグリーンのTシャツを着た数人の男子生徒が、「かっとばせ」と叫んでいた。
「おはよう、美鈴」
美鈴が席に座ると、隣のクラスメイトの鷲見珠江が挨拶して来た。
「おはよう、珠江」
「Tシャツは着ないの?」
「みんな、もう着てるんだ」
「だって、真夏の甲子園だよ。熱中症になってしまう」
美鈴は、トイレに行って、制服のシャツを脱ぎ、Tシャツを着た。教室に戻って来たとき、男子生徒の田淵君と鉢合わせになった。
「田淵君! お前はいつも遅刻だなぁ」
担任が田淵君の頭をコツンと叩いた。
田淵君は、首をすくめて、「すみません」と謝って、自分の席に座った。彼は制服の白いシャツだった。
彼の後ろが美鈴の席だった。彼が座るとき、「田淵君! お前はいつも遅刻だなぁ」と珠江は担任の口調を真似して言った。
「うるさい! なんだって集合はこんなに早いんだ。試合開始は14時30分の予定だろ?」
「田淵! お前みたいなのがいるから、集合時間が早いんだ。応援に間に合わなかったら、どうするんだ」
田淵君の不満を耳にした担任が言った。
「俺が応援に行ったって役に立たないのに。戦うのは選手たちだぞ」
ひそひそ声で、田淵君は愚痴を言った。
「またパソコンで夜更かしをしたんでしょ。もういい加減にしなさい!」
珠江は、母親のような口調できつく窘めた。
「それが、プログラムがうまくいっていたので、やめられなかったんだ」
「勉強もそれくらい熱心にやればいいのに」
「どうせ今日は応援だから、バスの中で寝るんだ」
確かに集合時間は早いと美鈴は感じていた。しかし早いに越したことはないのかもしれない。担任の不安も無理もないと感じた。
スピーカーが「ピンポンパン」とチャイムを流した。
「全校生徒にお伝えします。全校生徒にお伝えします。只今バスが到着しました。各クラスの担任は生徒の出席をチェックしてください。チェックが終了したクラスから順に校庭に出てください」
担任が生徒の名前を呼んで、出席を確認したあと、美鈴たちは校庭に出てバスに乗った。担任は、バスの中でも人数を確認していた。