⑵
夏休みだというのに、渡会美鈴は朝八時に登校した。
校舎には「県岐阜商工 甲子園出場おめでとう」という手書きで不格好な垂幕が垂れ下がっていた。甲子園出場が決まってから、美術部員が急遽、拵えたものだった。
グランドでは、すでに野球部員たちが練習をしていた。その様子を、ネット裏の地元の人たちが見学していた。こんな光景は今までにない事だった。
教室で、生徒たち全員が登校すると、担任が口を開いた。
「これから募金活動と、卒業生への寄付金の手紙を書く者とに別れて活動してもらう」
担任は、教卓に分厚い卒業生名簿をドサッと置いた。
渡会美鈴は、ちまちました宛名書きよりも、募金活動に手をあげた。そのほうがアクティブで楽しそうに思えたからだった。
だがそれは甘い考えだった。炎天下の中、一軒ずつ寄付金を募る作業だった。
美鈴は、クラスメイトの鷲見珠江と、任された地区を一軒ずつ訪問した。強烈な陽射しと、灼けたアスファルトからの照り返しで、歩くたびに汗が噴き出した。
青々とした田んぼの県道を歩くと、熱い風が渡って来た。空にはトンビが輪を描いて飛んでいる。
美鈴と鷲見珠江に宛がわれた区域は三十軒くらいのものだったが、田舎の事なので一軒ごとの距離が長かった。三、四軒、訪問するたびに、涼を求めて木陰に入った。少しは涼しくなったが、木々のあちこちから鬱陶しいほどの蝉いきれが降り注いだ。
「暑い! これだったら教室で宛名書きしていたほうが良かった」
「選択を失敗したね」
「留守も多いね」
「みんな農作業に出てるのかなぁ」
やっと在宅の農家に出会ったと思ったら、
「校長先生がJAに来て寄付してくれ、と言ったからそっちで寄付したよ」
と、その老人は答えた。
その農家を出ると、珠美はため息をついた。
「こんなんやっていても、誰も寄付なんかしてくれないよ。まわった事にしてどこかで時間を過ごさない?」
確かにJAで校長の手がまわっているとなると、農家からの寄付は期待できない。美鈴たちの努力は虚しいものになる。
「でも、まわるだけまわってみようよ」
美鈴は、朝から練習をしていた野球部員たちの事を思った。
やっとノルマの半分をまわって、美鈴は父親の本家筋の家の近くに来た。彼女の祖父母や兄にあたる伯父の家族たちが住んでいた。美鈴は、尻尾を激しく振って歓迎する柴犬に挨拶したあと、ためらう事なく築二百年になろうとする屋敷に入った。古民家の中はひんやりとして、二人は太陽の直射から逃れられたし、汗がひいてゆくのが感じ取れた。
「こんにちは!」
美鈴は玄関の土間から叫んだ。
何回か叫んだとき、土間の奥のほうから、祖母があるいてきた。
「おやおや、誰かと思ったら美鈴ちゃんじゃないか。どうしたんだい」
「高校の野球部が甲子園に出る事になって、寄付を集めに訪問してるの。お祖母ちゃん、寄付してくれない?」
「甲子園に行くんだってね。この町で初めてだって?」
「そうなんよ。甲子園なんて誰も予想してなかった。A町の奇跡だって言ってる。お祖母ちゃん、寄付してよ。まだ一軒も出来てないんだ」
「まあまあ、とにかくキッチンに来て、冷たいものでも、お上がり」
キッチンは、エアコンが効いて涼しかった。美鈴と珠江は、祖母が入れてくれた麦茶を一気に飲み干した。
「ああ、生き返ったわ」
「もう一杯飲むかい?」
「いただきます」
珠江は空のグラスを祖母に差し出した。祖母は、そのグラスに麦茶を注ぐと、奥の部屋に消えた。しばらくして戻って来ると、一万円を美鈴に渡した。
「これはお祖母さんのヘソクリだ。じいさんには内緒だぞ」
「こんなにもらっていいの? 大金だよ」
「孫が甲子園に行くんだ。これくらいは寄付しないと、ね。それにあの世にお金を持って行けん」
「お祖母ちゃん、ありがとう。お土産買って来るね」