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バスは、尼崎インターで降り、田淵が携帯のマップを見ながら道案内をした。
「尼崎インターを降りて、南のほう、右に曲がって下さい。そして、すぐまた右です。すると県道13号線に出ます。比較的大きな道路です。そこを左です」
バスの運転手は、うなずきながら慎重にハンドルを操作した。大型バスでも通れる道路だったが、90度の道を曲がるとき、後輪が舗道に引っ掛からないように大げさに曲がった。
試合は8回の裏のA高校の攻撃が終了していた。そして9回のB商業の攻撃になった。
「もうすぐJRの高架が見えます。それを潜ってそのまま直進です。高架を潜ってすぐに左に野球場や陸上競技場が見えますが、甲子園ではありません」
バスは、国道2号線を越えて、さらに直進し、西本町の交差点で右に曲がって国道43号線に出た。
試合は、B商業がふたりのランナーを出したが、A高校が踏ん張って無得点に抑えた。A高校の最後の攻撃が始まった。
ラジオから「コンバットマーチ」のトランペットが聞こえた。
「えっ? 誰かがトランペットを吹いている」
「きっと、さっき電話を掛けて来た卒業生だ。彼らは吹奏楽部だった」
アナウンサーがそれを取り上げた。
「一般のお客さんがトランペットで応援しています。A高校の応援団は遅れている模様です。情報では高速道路が大渋滞しているようです」
たった四人のトランペットだったが、甲子園の隅々まで響いた。
国道43号線を10分も走ると、甲子園が見えて来た。
田淵が、「甲子園だ」と指さした。
生徒たち全員がバスの右側の窓を見た。
美鈴は、初めて見る甲子園に感動した。野球場と言えば、無機質なコンクリートの塊しか見た事はなかったが、蔦に覆われた甲子園は何か神々しいように思われた。その蔦の絡まる入り口には、多くの人が出入りしていた。
「ここではバスは降りる事は出来ません。駐車場に行って、そこで降りてもらいます。みんな降りたら甲子園に急いでください。甲子園に着いたら三塁側の入り口から入って下さい」
担任がみんなに指示を与えた。
バスが駐車場に向かうとき、A高校が同点に追いついた。
「A高校が9回の裏で同点に追いつきました。ぎりぎりで試合を振り出しに戻しました」
「ミラクルA高校の本領を発揮しましたね」
「地区予選でも、ミラクルで逆転、逆転で勝ち上がって来ました」
「甲子園でもミラクルを見せてくれましたね」
ラジオの実況に、バスの中はお祭り騒ぎとなった。バスが駐車場に着くと、男子生徒たちは我先に走った。珠江も美鈴も走った。その彼女たちをものすごい速さで、田淵が追い越していき、みるみるうちに引き離された。
美鈴が甲子園の三塁側から入ると、その先に明るい芝生のグラウンドが見えた。そこを走り抜け、見上げるとアルプススタンドが迫って来ていた。美鈴と珠江は、急いでアルプス席を登り、田淵の隣に座った。
試合は延長のタイブレークとなっていた。ランナーが一塁二塁で試合が始まった。駐車場から甲子園に来るまでに、先攻のB商業が1点を入れていた。
「負けているの?」
美鈴は珠江に聞いた。
「負けている。でもきっと逆転するわ」
「そうよね。ミラクルA高校だもんね。きっと奇跡がおこるよね」
「きっと奇跡を起こすわ」
隣の田淵は、声を枯らして応援していた。
「かっ飛ばせ! かっ飛ばせ!」
13人の吹奏楽部に10人のOBが加わって、「コンバットマーチ」を演奏していた。
試合はワンナウトのあと、ファーボールで一塁に同点のランナーが出た。珠江は、必死になって応援していた。それに釣られるように美鈴も声の限り応援した。
しかし次のバッターがショートゴロを打って、ダブルプレイとなった。
「えっ? どうなったの? 終わったの?」
珠江に聞くと、彼女は美鈴の膝に蹲って泣き始めた。
「終わったの?」
田淵に聞くと、彼は軽くうなずいた。
「えっ? そんな事があるの? 終わったの?」
美鈴の目から涙が零れ落ちた。
空は青く、甲子園だけがそこにあった。
美鈴は泣くことしか出来なかった。




