第5話『今夜のブレンドは、君と未来を』
いつもの朝。けれど今日は、少しだけ特別な気がした。
最後の一杯に、ふたりの時間を重ねながら。
日曜日の朝。
彼のハンドミルを回す音で目が覚めた。
小さく、規則的で、穏やかな“ガリガリ”という音。
もう何度も聴いてきたはずなのに、今日は少しだけ違って聞こえる。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、床に細く伸びている。
ベッドから起き上がり、キッチンに向かうと、彼がすでにマグカップを並べていた。
「おはよう。今朝の天空ブレンド、最後のやつだよね?」
「うん、ついにラスト……なんだかちょっとさみしいね」
そう言って、彼は丁寧に湯を注ぐ。コポコポと小さな音が立ち上がる。
それはやっぱり、ふたりの会話みたいな音だった。
「パンケーキいいね、コーヒーと合うし」
私たちは並んで朝食をとった。
パンケーキは少し焦げてたけど、メープルシロップの甘さで十分補える。
ふたりして、コーヒーを啜りながら「やっぱり天空、香りが違うね」と口を揃えて言った。
「今日、出かけよう」
「どこへ?」
「秘密。でも、歩きやすい靴でね」
彼の笑顔に、思わずつられて笑った。
身支度を整え、電車に揺られること数駅。降り立ったのは、以前ふたりで通りかかったことのある、緑の多い街角だった。
「覚えてる? 前に“ここのカフェ、気になるね”って話したとこ」
「あ、あのとき入れなかったところ……」
「うん。予約しておいたんだ」
季節限定のブレンドを注文し、テラス席に腰かける。店先の鉢植えには小さな赤い実がついていて、ゆるやかな時間が流れていた。
「やっぱり、プロのドリップは香りが深いね」
「でも、あなたが淹れてくれるコーヒーも負けてないよ?」
そんな他愛ない会話を交わしながら、私たちは穏やかな午後を過ごした。
そのあと立ち寄った雑貨店で、私が指を止めたのは、小さな陶器のペアマグだった。
「これ、かわいい」
「……じゃあ、次のブレンドは、このカップで飲もうか」
彼がそう言って手に取った瞬間、なんとなく胸が熱くなった。
日が傾きはじめた頃、公園のベンチに腰を下ろす。秋風がふたりの髪を撫でていく。
「ねえ」
彼が不意に口を開く。
「ずっと、考えてたんだ」
声は、風に溶けそうなほど静かだった。
「毎朝、君とコーヒーを飲むのが、どれだけ幸せかってこと」
私は、黙って彼を見つめた。
「一緒に暮らして、たくさんのことが変わった。でも、変わらなかったこともある。それは……君の隣にいたいって気持ち」
彼の手が、ポケットから小さな箱を取り出す。
白い小箱が開かれ、中にあったのは、シンプルな銀の指輪。
「これからも、毎朝一緒に、コーヒーを飲んでいきたい。ちょっとずつ歳を重ねながら、ずっとずっと一緒に人生を味わっていきたい。……結婚してください」
涙が、ふいにこぼれた。
「……はい。よろしくお願いします」
指輪が、指に滑り込む。
しっくりと馴染んで、私たちの未来を、静かに肯定してくれた。
彼の指が私の指を包み込み、そのまま軽く握る。
「今日のブレンド、どんな味だった?」
彼が聞く。
「ちょっとビター。でも、すごく、あったかい」
ふたりで笑って、手をつないだ。
その温もりが、朝の光と同じくらい優しかった。
「ねえ、帰ったら新しい豆、探してみない?」
「ふふふ、…ぇーと、し、新婚ブレンド?」
何だか照れくさくなって、二人してお腹がよじれるくらい笑ってしまった。
これから先も、何度でも、あのコポコポという音で目覚めたい。
あなたと一緒に、未来をドリップしていきたい。
この日、私たちは、ひとつの豆を飲み終えた。
でも、それは終わりではなくて、
ふたりの暮らしの、始まりだった。
――完
香りが満ちる朝のように、これからも歩いていけたら。
ふたりだけのブレンドが、きっと未来をあたためてくれる。