第4話『名前をつけるということ』
気持ちにはもう、とっくに決まった形があって。
それを言葉にするのが、ちょっとだけ怖いだけ。
火曜日。彼は少し早めに帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
玄関で交わすたった二言のやりとり。それだけなのに、私は今日も無事でいられた気がした。
「ごはん、あと少しでできるよ」
「うん。手伝おうか?」
「大丈夫。今日は簡単だから」
彼はそのまま洗面所に向かい、手を洗い、リビングに戻ってきた。
私はエプロンを直しながら、ちらりと視線を送る。
スーツを脱ぎかけのまま、彼がソファに腰を下ろしているのが見えた。
「お風呂、先に入る?」
「いや、ごはん先がいいな」
いつも通りのやりとり。
でも、昨夜のあの時間が頭をよぎる。
あの触れ合いのあと、私はなにかを言うべきだったんじゃないか。そんな気持ちがずっと胸の奥にひっかかっていた。
彼は、あれをどう受け止めていたんだろう。
ただの延長線? それとも……
思い返せば、この暮らしが始まってからもう何ヶ月も経つ。
朝は彼のコーヒーで目覚め、夜は一緒に食卓を囲む。
生活は自然に馴染み、ベッドを共にすることも、日常の一部になっていた。
だけど、その一番大切なところ――“関係の名前”だけは、あいまいなままだった。
「……ねえ」
「ん?」
私の声に、彼は振り返る。鍋をかき混ぜる手を止めないまま、私は思い切って言葉を続けた。
「私たちって……なんなんだろうね」
少しの間があって、彼は目を細めた。
「どういう意味?」
「うまく言えないけど……恋人とか、そういうの、はっきりさせてないよねって」
彼が立ち上がり、私の隣に来て、エプロンの紐にそっと手をかけた。
「俺は、君のことを好きで、一緒にいたくてここにいるよ。それじゃ、足りない?」
「ううん、足りないわけじゃない。そうじゃなくて……」
言葉がうまく続かない。
でも、確かめたかった。ただ、名前がほしかった。今のこの関係に、言葉で輪郭を与えてほしかった。
彼は静かにうなずいた。
「わかった。じゃあ……今夜、ちゃんと話そう。食べてから、ゆっくり」
「……うん」
そのあとの食事は、なぜかいつもよりあっさりしていた。
スープの味も、悪くはなかったのに、あまり記憶に残らなかった。
食後、洗い物を終えたあと。
リビングのソファに並んで座る。
テレビの音はつけたままだったけれど、誰もそれに注意を向けていなかった。
私たちは、少し距離をあけて座っていた。
それが、なんだか今夜の空気を象徴しているようで、少し切なかった。
彼が、あらためて私に向き直る。
「改めて言うね。俺、君のことが好き。最初にそう思ったのは……ハンドミルで豆を挽いてた朝。君が“いい匂い”って言って、笑ったとき」
「……そんな前?」
「うん。たぶんその時から、もう決まってたんだと思う。俺、この人と一緒に暮らしたいなって」
胸の奥が、ぎゅっとあたたかくなる。
「じゃあ……私たち、恋人ってことでいいの?」
「うん。いまさらかもしれないけど、正式に。俺の恋人になってください」
私は小さく笑った。
「……はい。喜んで」
彼の手が、そっと私の髪にふれる。
そして、静かに唇が重なった。
名前を得た瞬間、世界がすこしだけ色づいた気がした。
そのまま、彼の肩に頭を預ける。
呼吸の音が静かに重なり、ソファのクッションが心地よく沈む。
「ちょっとだけ、こうしてていい?」
「うん。ずっとでもいいよ」
言葉があたたかく染み込んで、私の胸の奥をじんわりと満たしていく。
この人と暮らしていくって、こういうことなんだ。
不安も、すれ違いも、すべてこの会話で乗り越えていける気がした。
「……今度の日曜、またパンケーキ焼こうか?」
「うん、いいね。コーヒーは……天空ブレンド、まだ残ってたっけ?」
「あと一回分、あるよ」
小さなやりとりの中に、ふたりの明日があった。
恋人という言葉を得たふたりの日常は、少しだけ輪郭がくっきりして、でもそれはどこまでも優しく、あたたかい。
“おかえり”って言える人がいて、
“ただいま”って返してくれる人がいる。
それだけで、人はきっと、何度でも帰ってこられるんだと思った。
――続く
“恋人”って呼ぶだけで、空気が変わる気がした。
でもたぶん、それはとても自然なこと。