表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/5

第2話『君のとなり、湯気の向こう』

日曜日の午後って、ちょっとだけ感情が揺れる。

距離が近いほど、言葉が足りなくなることもある。

 コーヒーを飲み終えた私は、ゆっくりと立ち上がった。

 彼はすでに洗濯槽クリーナーをセットしていて、洗濯機がウィーンと控えめな唸り声をあげていた。


 「この時間の音、けっこう好きなんだ」

 彼が言う。回転音のリズムに耳をすませるなんて、なかなかマニアックだと思いながらも、その“音のある静けさ”が、確かに心地よかった。


 彼のこういう感性に、時々はっとさせられる。誰も気に留めないようなことに目を向ける彼のまなざしが、私には少しだけまぶしくて、少しだけ妬ましい。


 「冷蔵庫見た? 野菜、使い切れそう?」

 「キャベツと人参、玉ねぎ。いけるよ、コンソメで」


 そんなふうに言って、彼はキッチンに立つ。私はテーブルを拭きながら、その背中をちらりと盗み見た。

 彼の手際は、以前よりも格段に良くなっている。私が何も言わなくても、野菜の皮を薄くむき、芯を残さず取る。火加減も、ちょうどいい。


 それが、うれしかった。


 「お湯、沸かしておいてくれる?」

 「うん。中火で?」

 「うん、ありがとう」


 ふたりで過ごす日常は、相手に合わせることの連続だ。

 だけど、無理していないと気づけたとき、それは“疲れる”ではなく“馴染む”になる。


 スープの湯気が、鼻をくすぐった。味見したスプーンを彼がこちらに差し出す。


 「塩、足した方がいいかな」

 「……ううん、そのままで美味しい」


 何でもない会話。でも、だからこそ、ちゃんと届く。


 「今夜さ」

 彼がスープをよそいながら言った。

 「外食する? 久しぶりに。たまには手を抜いて」


 私は少しだけ考えてから、頷いた。

 「……いいね。行こっか」


 それだけのやりとりだったけれど、何となくそのあと少しだけ、胸がざらついた。


 彼の提案は優しさだ。それはわかっている。

 けれど、私は“手を抜こう”って言われると、ちょっとだけ、自分が雑に扱われたような気がしてしまう。そんなふうに思ってしまう自分が、面倒くさいとも思う。


 私が毎日こだわっていた料理や、時間をかけた掃除や、そういう“ちいさな努力”は、彼にとってどう見えているんだろう。そう思うと、ふと不安になる。


 (きっと、ちゃんと伝えたら、彼はわかってくれる)


 でもその夜は、黙っていた。


 外食先での食事は楽しかったし、帰り道の会話も心地よかった。


 「おいしかったね」

 「うん、また行こう」

 それだけで満たされる関係も、ある。


 それでも、帰り道のコンビニの前で、彼が缶コーヒーを二本買ってくれたとき、私はふいに小さく笑ってしまった。


 「はい、ブラック。こっちはミルク入り」

 「今日はブラックの気分」


 その一言に、彼はうれしそうに笑った。ああ、やっぱりこの人は、私を“そのまま”見ていてくれてるんだ、と少しだけほっとした。


 帰宅後、彼が洗面所から出てきた。

 「あしたも早い?」

 「うん。でも、ちゃんと起きるよ」


 私は彼の手からバスタオルを受け取って、ふと指が触れた。

 その瞬間、彼が優しく笑った。


 「ありがと」

 「……うん」


 心の奥で、小さな泡がひとつ、ぱちんと弾けた。


 お風呂上がり、髪を乾かしながら彼が言った。

 「ねえ、君のスープもまた食べたいな」


 私はドライヤーを止めて、振り向く。

 「……どうして?」

 「なんかね、ちゃんと気持ちがこもってるって感じがする。優しさがある。俺にはあれ、できないから」


 胸の奥に残っていた小さな苦味が、すっと溶けた。


 彼はちゃんとわかってくれていた。

 何も言わなくても、私の中の迷いまで、そっとすくい上げてくれていた。


 そう、私はただ、こういう時間がほしいだけだった。

 誰かと暮らすというのは、そういうことなんだ。


 スープの味はちゃんと覚えている。

 それは、今日の私たちの味だった。


 そして明日は、また違う味がするのだろう。

 同じようで、少しずつ違う、生活の積み重ねの中で、少しずつ育っていく私たちの関係。


 静かに、深く、じんわりと、愛が混ざっていく音が、そこにあった。


 ――続く



小さな違和感も、大切な時間のひとつ。

それを飲み込む勇気と、口にする優しさ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ