第2話『君のとなり、湯気の向こう』
日曜日の午後って、ちょっとだけ感情が揺れる。
距離が近いほど、言葉が足りなくなることもある。
コーヒーを飲み終えた私は、ゆっくりと立ち上がった。
彼はすでに洗濯槽クリーナーをセットしていて、洗濯機がウィーンと控えめな唸り声をあげていた。
「この時間の音、けっこう好きなんだ」
彼が言う。回転音のリズムに耳をすませるなんて、なかなかマニアックだと思いながらも、その“音のある静けさ”が、確かに心地よかった。
彼のこういう感性に、時々はっとさせられる。誰も気に留めないようなことに目を向ける彼のまなざしが、私には少しだけまぶしくて、少しだけ妬ましい。
「冷蔵庫見た? 野菜、使い切れそう?」
「キャベツと人参、玉ねぎ。いけるよ、コンソメで」
そんなふうに言って、彼はキッチンに立つ。私はテーブルを拭きながら、その背中をちらりと盗み見た。
彼の手際は、以前よりも格段に良くなっている。私が何も言わなくても、野菜の皮を薄くむき、芯を残さず取る。火加減も、ちょうどいい。
それが、うれしかった。
「お湯、沸かしておいてくれる?」
「うん。中火で?」
「うん、ありがとう」
ふたりで過ごす日常は、相手に合わせることの連続だ。
だけど、無理していないと気づけたとき、それは“疲れる”ではなく“馴染む”になる。
スープの湯気が、鼻をくすぐった。味見したスプーンを彼がこちらに差し出す。
「塩、足した方がいいかな」
「……ううん、そのままで美味しい」
何でもない会話。でも、だからこそ、ちゃんと届く。
「今夜さ」
彼がスープをよそいながら言った。
「外食する? 久しぶりに。たまには手を抜いて」
私は少しだけ考えてから、頷いた。
「……いいね。行こっか」
それだけのやりとりだったけれど、何となくそのあと少しだけ、胸がざらついた。
彼の提案は優しさだ。それはわかっている。
けれど、私は“手を抜こう”って言われると、ちょっとだけ、自分が雑に扱われたような気がしてしまう。そんなふうに思ってしまう自分が、面倒くさいとも思う。
私が毎日こだわっていた料理や、時間をかけた掃除や、そういう“ちいさな努力”は、彼にとってどう見えているんだろう。そう思うと、ふと不安になる。
(きっと、ちゃんと伝えたら、彼はわかってくれる)
でもその夜は、黙っていた。
外食先での食事は楽しかったし、帰り道の会話も心地よかった。
「おいしかったね」
「うん、また行こう」
それだけで満たされる関係も、ある。
それでも、帰り道のコンビニの前で、彼が缶コーヒーを二本買ってくれたとき、私はふいに小さく笑ってしまった。
「はい、ブラック。こっちはミルク入り」
「今日はブラックの気分」
その一言に、彼はうれしそうに笑った。ああ、やっぱりこの人は、私を“そのまま”見ていてくれてるんだ、と少しだけほっとした。
帰宅後、彼が洗面所から出てきた。
「あしたも早い?」
「うん。でも、ちゃんと起きるよ」
私は彼の手からバスタオルを受け取って、ふと指が触れた。
その瞬間、彼が優しく笑った。
「ありがと」
「……うん」
心の奥で、小さな泡がひとつ、ぱちんと弾けた。
お風呂上がり、髪を乾かしながら彼が言った。
「ねえ、君のスープもまた食べたいな」
私はドライヤーを止めて、振り向く。
「……どうして?」
「なんかね、ちゃんと気持ちがこもってるって感じがする。優しさがある。俺にはあれ、できないから」
胸の奥に残っていた小さな苦味が、すっと溶けた。
彼はちゃんとわかってくれていた。
何も言わなくても、私の中の迷いまで、そっとすくい上げてくれていた。
そう、私はただ、こういう時間がほしいだけだった。
誰かと暮らすというのは、そういうことなんだ。
スープの味はちゃんと覚えている。
それは、今日の私たちの味だった。
そして明日は、また違う味がするのだろう。
同じようで、少しずつ違う、生活の積み重ねの中で、少しずつ育っていく私たちの関係。
静かに、深く、じんわりと、愛が混ざっていく音が、そこにあった。
――続く
小さな違和感も、大切な時間のひとつ。
それを飲み込む勇気と、口にする優しさ。