蔵書狂
蔵書狂
「どうぞ、お入りになって」
「失礼します」
メアリーは期待と緊張の入り混じる心地のまま、ここまで自分を案内してくれたメイドに礼を言い、目の前に広がる豪勢な一室でソファーに腰かけているブロンドの女に笑顔を向ける。もしかするとこの笑顔もどこか引きつっているかも知れないが、今は自分の表情ですら微調整できないような心境だった。
メアリーがここまで気を張り詰めているのも、ここがアメリカ広しと言えども知らぬ者は居ないと言って良いような場所だからだ。ここはアメリカ東部のデラウェア州。この小さな州に、地図が無ければ迷ってしまう程の大邸宅がある。今メアリーが居る建物こそが、その大邸宅のほんの一角なのだ。
まるでヨーロッパの宮殿に来たかのような錯覚に陥る程の邸宅。この部屋に至るまでの道のりで既に圧倒されているメアリーだが、女が待ち構えている部屋の内装に、更に息を呑む。
「さあ、こちらへお掛けになって」
メアリーがあまりにも動き出さないので、女の方から再度の促しが届いた。
「す、すみません」
靴越しでも分かる柔らかな絨毯を踏みしめながら、メアリーは宮殿さながらの応接間に踏み込んだ。高い天井からは豪勢なシャンデリアがいくつも下がり、美しい庭園を覗かせる窓にはシルクと思われる緋色のカーテンが鮮やかに掛けられている。壁は落ち着いたモスグリーンで、何枚もの絵画が彩っていた。この絵画一枚でも、恐らくメアリーの住む下宿を丸ごと買えるだろう。
メアリーは木彫りのソファーテーブルを挟んで女の向かいに腰を下ろした。とても柔らかく座り心地の良いソファーだが、今はとにかく居心地が悪かった。
「ごめんなさいね、突然家までお呼びしてしまって」
「い、いいえ、奥様。寧ろ、その……とても感動しています」
メアリーが部屋を見回して言うと、向かいで小さく微笑むキャロル。キャロルは四十を過ぎているにもかかわらず、十は若く見えるほど若々しく美しかった。この大邸宅に相応しい華やかさと奥深さを兼ね備えている。
「主人は仕事以外では家から出たがらないの。今日は私の友人と言う事でお呼びしたのよ。是非主人と会ってみて頂けないかしら」
キャロルは宝石のような青い瞳に愁いの色を浮かべて言う。
「はい、是非。ですが、奥様……私はただ一時精神科病棟で看護師をしていたというだけですので、ご期待に添えるかは分かりません」
メイドが紅茶と菓子を運んで来て、しなやかな手つきでテーブルに置いた。
「良いのよ。正直なところ、私自身も何が最良なのか分からないの。主人にとって、どうしてあげる事が良いのか」
アールグレイの爽やかな香りがほのかに香る中、キャロルはメアリーの向こうをぼんやりと眺める。
「ただ……主人の気持ちを少しでも軽くしてあげたいのよ。彼は私には弱い姿を見せまいとして何も話してくれないの。でも、彼は間違いなく心に大きな傷を抱えているはずだわ」
「確か、大戦で出征されたとか」
「ええ、そうよ。彼はノルマンディーへ行ったわ。そして生きて帰って来てくれた。でも、彼の心はずっと何かに蝕まれ続けている。それが何なのかすら、私には解らないのよ……」
視線を落とすキャロルに、メアリーは紅茶のカップを置いてそっと声を掛ける。
「奥様、ご主人を苦しめているものは奥様ではないんです。どうか、お気を落とさないで。奥様の愛情はご主人もきっと解っていらっしゃいます。でもきっと、どうにもできない何かがあるんですわ」
「……ありがとう、メアリー。あなたに会えて本当に良かったわ」
「私こそ、奥様と出会えて嬉しいです」
キャロルは笑みを浮かべ、紅茶を口に運ぶ。メアリーも同じく紅茶を一口飲んで息を吐いた。そして改めてキャロルを見る。
「奥様、ご主人は普段どのようなご様子ですか」
キャロルはブルネットの田舎娘に愁いの元を吐露し始めた。
「マクシムは、昔からとても優しい人で、私と一緒に庭を散策するのが日課だったわ。どんなに忙しい日も朝には必ずそうしていたの。休日はゴルフや釣りに行っていたわ。でも今は、仕事以外では一日中あの部屋に籠りきり。子供達も全寮制の学校に行っているので、外へ誘い出すきっかけも無いのよ」
「あの部屋と言うのは……前に仰っていた、読書部屋ですか」
「ええ、そうよ」
小さな溜息がキャロルの口から漏れる。
「読書部屋と言うよりは、巨大な倉庫ね。毎日どこからか買い集めた本が次から次に増えて行くの」
「ご主人は今もそちらに?」
「ええ。行ってみましょうか」
ソファーから立ち上がるキャロルに続き、メアリーも席を立った。
キャロルに続いて豪邸の中を移動するメアリー。あの応接間からここまで来る間に、自分の下宿から行き着けのパン屋まで行けるのではないかなど、まだどこか遠足気分が残っていた。だがそんな陽気な気分を消し去る景色が、分厚いオーク材の扉の向こうに待ち構えている。
その部屋は頑丈な観音開きの扉で隔たれていた。キャロルはドアをノックするが、中からの返答は無い。いつもそうなのか、キャロルは迷わず扉を開けた。すると、開けた瞬間に大量の書物が発する紙のにおいが流れ出て来る。次いでメアリーの視界には大聖堂の柱程もあるのではないかと思われる巨大な本棚の群れが飛び込んだ。もはやそれは本で出来た巨大な壁だった。その壁が見渡す限り部屋の側面を囲い、壁際だけでなくあらゆる場所に乱立している。本棚で出来た摩天楼が広がっていたのだ。
「これは……」
キャロルからは本の収集癖があると聞いていたが、これは収集癖などという言葉では表現しきれない。明らかな疾患だ。
「マクシム」
キャロルは慣れた足取りで本の摩天楼へ踏み込んで行く。メアリーも慌ててその後を追った。
「マクシム、どこなの?」
すると奥の書架で梯子が動く音がした。そして本棚の陰から一人の男が顔を出す。白髪交じりのブロンドに、疲れた目をした男だ。
「どうしたんだ、キャロル」
その声は霧の中に浮かぶ照明のようにぼんやりとしていた。
「前にお話ししたメアリーが来てくれたのよ」
「ああ、インフルエンザに罹った時に世話になった看護師さんか」
マクシムは眼鏡を外してメアリーに右手を差し出す。
「初めまして。その節は妻がお世話になりました」
思いがけないまともな挨拶で、メアリーは逆に戸惑いながらもマクシムの手を握り返した。
「初めまして、メアリーです。お招き頂いて光栄です」
するとマクシムは自嘲しながら本の群れを示す。
「ここはこんなだが、屋敷自体は一見の価値があると思う。私もこの部屋を除いては祖父の代から受け継いだだけだがね。ゆっくりしていってくれ」
そう言って再び本の世界へ戻って行くマクシム。その背中に、メアリーはすかさず声を掛けた。
「ご主人、もしお邪魔でなかったら、このお部屋を最初に見させて頂いても宜しいですか」
マクシムは目を丸くして振り返る。
「ここを?」
「はい。私、子供の頃から読書が好きなんです。こんなにたくさんの本がある場所なんて、生まれて初めて見ましたわ!」
そこにキャロルも加わった。
「それは良いわね。マクシム、是非見せて差し上げて。私は昼食の準備を見て来るから」
マクシムは少し考えていたが、最終的には首を縦に振った。
「どうぞ。若い女性に楽しんでもらえる本があるかは分からないが、それでも良ければ」
「ありがとうございます」
メアリーは不思議の国のアリスになった気分で書庫の散策を始めた。マクシムはメアリーを案内するでもなく、書庫の奥にある窓辺で本を読んでいる。メアリーも無理に話しかけようとはせず、自分は自分で本を見て回る。これだけの本を読了するにはいったい何十年かかるのやらと、気が遠くなる。収集されている本は作者名ごとにアルファベット順で並べられているようだった。英語のものが多いが、中にはヨーロッパ諸語のものもある。巨大な本棚を流し見ているだけだが、それでも一つの棚を終えるのに数十分かかっていた。そうして三つほど棚を見ていて、メアリーはいくつかの点に気が付いた。
マクシムが集めている本はジャンルや言語は多岐にわたるが、出版年が古いものが多いようだ。古典と呼ばれるようなものも多数ある。間違いなく、資金力が無ければ収集できない。
暫く本を見て行くと、メアリーは奇跡的にマクシムが居る窓辺へ行き着いた。このままマクシムに会えないかも知れないと言う焦りがあったが、無事にその姿を確認できて安堵する。
「あの……ご主人」
マクシムは顔を上げて眼鏡を取った。その表情には何の感情も見て取れない。
「すみません、読書中に。話しかけても良いですか?」
「うん? ああ、構わないよ。この部屋に客人が来る事なんてまず無いから、すっかりほったらかしにしてしまって、悪かったね」
マクシムは出窓に腰かけていたが、この部屋に唯一置かれている本棚以外の家具である二脚の椅子を示した。
「どうぞ、座って」
「ありがとうございます」
二脚の椅子は正面で向き合う形ではなく、やや斜めに向き合って置かれている。その一つに腰を下ろし、メアリーは改めて本の群れを眺めた。
「圧巻ですわ」
「はは、そうだろうね。自分でも驚いているくらいだよ」
「今は何を読んでいらっしゃるんですか?」
マクシムの手には一冊の本があった。その表紙を見せながら、マクシムはぽつりと答える。
「ポーだよ」
「ポーがお好き?」
「いや、勿論好きだが、ここに在るものが全て好きな訳ではないんだ」
「お好きでない本も集めていらっしゃるのですか? 少し見させて頂きましたけど、古い本が多いのですね」
マクシムはポーの小説をテーブルに置き、背もたれに深く背を預けながら自分が築いてきた本の街を眺めた。
「僕も昔から本を読むのが好きでね。でも、まさか自分でもここまで集めるとは思わなかった。そうだな、言わば殆ど無意識なんだ」
「無意識……」
「驚くだろ? 全ての人間が眠り、食事を摂るのと同じように、僕は本を見かけると買わずに居られない。それがもはや本能でね」
「不思議ですね」
「そうだね」
「でも、本能になっていると言う事は、本を集めるのはご主人にとってとても大切な事なんですね」
マクシムは遠い目を本の街に泳がせる。その目は、満足感や充足と言った事から一番遠い場所に居るようだった。
「大切な事……どうだろうな。いつの間にかそうなっていたのかもしれないね」
その時、分厚いオーク材の扉をノックする音が聞こえた。
「私、出て来ます」
メアリーが扉へ向かうと、そこにはキャロルの姿があった。
「昼食の準備ができたわよ。マクシムは出て来そうかしら」
「呼んでみます」
メアリーが窓辺へ戻ると、マクシムは元通りの出窓に腰かけてポーを読んでいた。
「ご主人、奥様が昼食の準備ができましたと仰ってます」
「どうぞ、是非食べて行ってくれ」
メアリーは本に目を落としたままそう言うマクシムに歩み寄り、笑顔を見せる。
「ご主人も一緒にいかがですか? 私、是非お二人のお話をたくさんお聞きしたいです」
マクシムは漸く顔を上げ、本を閉じた。
「そうか。そうだな。せっかく客人がいらしてるんだ。僕も行くか」
「そうして頂けると嬉しいです」
昼食の場は思っていた以上に和やかだった。キャロルは久々に普通の会話が交わされ、それだけでも心の底から安堵していた。マクシムは本に魂を奪われてしまったと思っていたが、それでも彼は取り留めも無い話に控えめながらも笑顔を見せていた。
昼食が終わるとマクシムはすぐに書庫へ戻って行った。キャロルはメアリーを連れて屋敷の庭園を歩く事にした。
「メアリー、今日は本当にありがとう。マクシムがあんな風に会話に参加してくれるなんて、思ってもみなかったわ。あなたのお陰ね」
「そんな、とんでもございませんわ、奥様。ご主人も気を遣って下さったようで」
「良いのよ。たまには必要だわ」
庭園はよく手入れされており、どこを見ても素晴らしい景色だ。かつては毎朝ここを散歩していたマクシムだが、今はそれをしないのだと聞き、メアリーは心底勿体ないと思った。
「メアリー」
ふと隣を歩くキャロルが呼ぶ。メアリーは庭園を流れる小川を見ていたが、キャロルを振り返った。
「あの部屋はどうだったかしら。私も何度か入った事はあるのだけど、とても見て回る気になれなくて。あそこに居ると、息が詰まりそうなの」
「奥様から本でいっぱいのお部屋があるとお聞きしていましたが、正直、想像以上でした。でも、どの本も規則正しく並べられていて、埃も被っていませんでしたわ。ご主人はただ買い集めているのではなくて、とても大切になさっているようです」
「でも、病的じゃなくて?」
メアリーは苦笑して小さく頷く。
「ええ、まあ。ご主人がこれまでなさっていた日課や趣味を楽しめなくなっているのは良くない事だと思います。表情も、どこか悲しそうな様子でしたし」
「そうなのよ。私も、マクシムが楽しんでコレクションしているのなら何も言う気は無いの。でも、彼は本が増えれば増えるほど、どんどん苦しそうに見えるのよ」
ふと、メアリーはマクシムの蔵書のほんの一部を見た段階で抱いていた感想をこぼした。
「ご主人は古典がお好きなのですか?」
「古典……私はそうは思わないけれど。確かに、元々読書はしていた方だと思うわ。でも、私がよく見かけたのは、コナン・ドイルやポー、それこそチャンドラーも読んでいたわよ」
「チャンドラー……」
レイモンド・チャンドラー。ハードボイルド小説で知られる作家だ。メアリーはその名前に違和感を持った。
「ご主人は、作家の名前順に本を整理なさってました。ですが、Rで始まるブロックも、Cで始まるブロックも見ましたが、チャンドラーの作品は一つもありませんでした」
キャロルは不思議そうに首を傾げる。
「おかしいわね……。彼は探偵小説が好きで、チャンドラーもよく読んでいたのに。コナン・ドイルやポーは?」
「ポーは実際に読んでいらっしゃいました」
「どうしたのかしら。書斎や寝室でも小説は見かけないわ」
メアリーはふと、ある仮説を思い立った。
「奥様、もしかすると、あの書庫には既に亡くなった作家の本が置かれているのではないでしょうか」
「……そうね。そうかもしれないわ。チャンドラーはまだ生きているもの。でも、いったいどうして……」
「奥様、ご主人が本を集め始めた頃、何かいつもと違いう事はありませんでしたか?」
二人は池の近くに置かれているベンチに腰を下ろした。キャロルは美しい紅葉に染まる庭を眺めるどころではなく、慎重に記憶を掘り起こす。
「戦争から帰って……とても憔悴していたわ。当初はまだ本を買い集めていなかったわね。それどころかよく出かけていたわ」
「どちらへ?」
「買い物に行くとだけ。でも何も買わずに戻る事の方が多かったわ。何かを探し回っているようだった。何を探しているのか訊いた事もあったのだけど、教えてくれなかったわ」
「もしかして……」
メアリーは池の隅で小鳥が水浴びする姿を眺めながら言った。
「その探し物が、最初の本……その、ご主人が今のような本の収集を始めた最初の本なのではないでしょうか」
キャロルはどうにか記憶を掘り起こすが、マクシムが何か特定の本を持って帰ったと言う記憶が無い。自分が覚えている最初の収集は、たくさんの本を数箱買い込んで来た時だった。
「そうかもしれないけれど……ごめんなさい、私はその本を見ていないと思うわ」
「大丈夫です。それとなく、ご主人に訊いてみます。それだけ熱心に探していらしたのなら、きっと特別な本ですもの。それがきっかけかも知れませんわ」
「ありがとう、メアリー。ねえ、もしもあなたさえ良ければ、今夜は泊まっていってちょうだい」
「ですが、あまりお邪魔してしまっても……」
「いいえ、あなたが来てくれて私もマクシムもとても嬉しいのよ。マクシムがあの部屋から少しでも出て来てくれるのだもの。それに、皆で話をすると、彼も楽しそうで。ご迷惑でないなら、お願いできないかしら」
「迷惑だなんて。私も嬉しいです。有り難く、お世話になります」
「良かった。部屋はメイドに用意させるわ」
二人は色づいた葉が鮮やかに染め上げる小道を並んで歩いた。
屋敷へ戻り、メアリーはまたあの書庫に来ていた。扉をノックしたが、やはり中からの返答は無い。静かに扉を開いて隙間から一声かけたものの、それに対する返答も無かった。
「失礼します」
独り言と化した声が、周囲を埋め尽くす本に吸収されていく。メアリーは迷わずあの窓辺へ向かった。すると、やはりマクシムは出窓に腰かけて本を読んでいた。ポーの続きだった。
「失礼します。またここへ来てしまいました」
マクシムは顔を上げ、僅かに微笑んだ。
「どうぞ、ご自由に」
メアリーも笑みを浮かべる。
「奥様が今夜は泊まっていくように勧めて下さって、ご迷惑でなければお世話になろうかと」
「ああ、歓迎するよ。僕らも客人が居ると楽しいからね」
「ありがとうございます」
ふと、メアリーはマクシムが持つポーを指さして言った。
「推理小説がお好きなんですか?」
「ああ、昔からこう言う本が好きでね。そうでないものもたくさん持っているが」
マクシムは本棚の摩天楼を示して小さく苦笑する。
「推理ものや探偵ものと言えば、今はレイモンド・チャンドラーが流行っていますわね」
「ああ、チャンドラーは僕もよく読んだよ」
「今はお読みにならないんですか?」
「そうだな。今は専ら、もっと古い作品ばかりさ」
マクシムは出窓から降り、あの椅子に座った。そしてメアリーにもう一つの椅子を勧める。
「メアリー、僕は決して自分の事を語るまいと思って生きて来た訳ではないんだ。ただ、語ったところで何も変わらないだろうし、身内に話すにはあまりに……残酷な話でね」
眼鏡を外し、本の群れを眺めながら言うマクシム。メアリーは、この男は自分の事を診せるためにキャロルがメアリーを呼んだ事に、最初から気付いていたのだと思った。
「あの、ご主人、ごめんなさい。私はただ、あなたとお話がしたかったんです」
「良いんだ。キャロルにはずっと心配をかけてしまっていて、悪いとは思っていた。それでも自分ではどうにもできなくてね。だから正直、身内以外の人にこうして話ができる事は、僕にとっては良い事だと思う」
「そう言って頂けると、私も安心します」
「君は、どうしてこの部屋にチャンドラーが無いのか気になるようだね」
「はい」
「話すと長くなるが、聞いてくれるかい」
メアリーは深く頷いた。
「ええ、勿論です。聞かせて下さい」
窓から差し込む日差しは、いつの間にか暖色の夕日に変わりつつあった。
「君のお父さんは戦争へ行った世代じゃないかな」
「はい。父は沖縄へ」
「……そうか。お父さんは帰って来たのかい」
「……いいえ」
その返答に、マクシムは天井を見上げて息を吐いた。
「そうか。それは悲しい事だ。とても」
「ええ、そう思います」
「僕はノルマンディーへ行った。幸福にも、こうして生きて帰って来たがね。ノルマンディーではあまりにも多くの死を見て来たよ。とても言葉にできるような光景ではなかった。敵も味方もたくさん死んだ」
「…………」
「君はこの屋敷を見てどう思ったかな」
メアリーは改めて屋敷の景観を思い起こす。
「こんなに美しい場所には生まれて初めて来ました。お庭も奥様に見せて頂きましたが、心が安らぎました」
マクシムは頷きながらメアリーの言葉を聞いていたが、少しして口を開いた。
「僕もずっとそう思っていたんだ。だが、我が家は化学繊維で成功したにもかかわらず、兵器に使う火薬で莫大な富を築いたんだよ。人の命を奪って、この屋敷ができたんだ。僕は戦争に行ってそれを痛感した。たくさんの人が銃弾や砲弾に殺されたが、その火薬は僕らが作ったものだった」
メアリーはこの美しい家屋敷を持つマクシムの一族が、巷では「死の商人」と呼ばれている事を知っていた。
「僕はね、ノルマンディーの作戦でとても大切な戦友ができたんだ。彼は駆け出しの作家でね。出征する前に短編集を自費出版したと言っていた。その彼がね、死んでしまったんだよ」
「それは……とても、つらいですね」
「ああ、つらかったよ。生き残ってアメリカへ戻った僕は、彼が自費出版した本を探して回った。せめてもの弔いのつもりだった」
「それが、最初の本ですね」
「そうだ。それからだ、僕が自分を制御できなくなったのは」
メアリーは隣に座るマクシムを見た。やはり、彼の目には悲しみが横たわっていた。
「ご主人、あなたは……悲しくて、不安で、罪悪感があるのでは?」
「……そう、まさにその通りさ。本に残された言葉は作者そのものなんだ。逆に、作者そのものでない言葉なんて、読んでも何も感じない。僕はその戦友の本を読み、それから死んだ人間の本を集め始めた。意識してそうした訳ではないが、そうせずに居られなかった」
「背負っているのですね……」
「そんな大そうなものではないさ。ただの自己満足だよ。我が家の兵器が、たくさんの人間を殺してしまった。こんな本を集めたところでなんの償いにも、弔いにもならないと言う事は、解っているんだが」
「ご主人は優しい方です。あの戦争に関係の無い人であっても、その言葉を、その心を、忘れまいとしていらっしゃる。本当の悪人に、そんな事はできません」
マクシムはメアリーを振り返って小さく首を横に振った。
「いいや、これは……僕の強迫観念さ」
「でも、もしもそうだったとしても、私の父が本を書いていたとして、ここにそれが一冊でも置かれていたら、私は本当に嬉しかったと思います。たった一人でも、父の苦しみや恐怖を思って忘れまいとしてくれる人が居るんだって」
メアリーの瞳には、いつの間にか涙がいっぱい滲んでいた。それを見たマクシムは、殆ど気付かない程度に微笑んだ。
「そう言ってもらえると、この墓場にも意味があるのだと思えるよ」
「墓場……?」
「そう、ここは墓場だ」
その日の夜、夕飯を済ませた後にメアリーとキャロルは居間の暖炉の前でハーブティーを飲んでいた。マクシムはやる事があると言って書庫へ向かった。
メアリーはマクシムから聞いた話をそのままキャロルへ伝える。キャロルは聞きながら涙を流し、ハンカチで何度も拭った。
「……そんな事が……気付いてあげられなかったわ……」
「奥様、ご自分を責めてはいけません。ご主人は家業でもあるので身内の方には隠していたんですから、奥様のせいではありません」
「そうだけど……可哀そうな事をしてしまったと……」
「いいえ、奥様。ご主人はとても愛されている方ですわ。こうして同じように悩んでくれる奥様がいらっしゃるんですから」
「メアリー……あなたには何てお礼を言って良いか」
メアリーは首を振って笑った。
「お礼だなんて。私も父の事を話せて良かったんです。実は、父の戦死を聞いてから、誰とも父の話をしていなかったんです」
キャロルのほっそりとした手が、メアリーの肩を優しく撫でる。
「戦争は悲しいわね」
「はい、本当に」
ハーブティーを飲み終え、二人はそれぞれの部屋へ分かれて行った。
キャロルはシャワーを済ませ、寝室へ行く。寝室のベッドはまだ空だった。マクシムは書庫から戻っていないようだ。こう言う事はよくあるので、いつも通り先にベッドへ入る事にした。
それから暫くベッドサイドのランプが照らす中で起きていたキャロルだったが、未だにマクシムが来ないので遂に起き上がった。部屋着のワンピースに着替えてカーディガンを羽織り、寝室を出て行こうとした時、窓の外から何やら見慣れぬ色が入り込んで来るのに気が付いた。慌てて外を見ると、書庫の方で火が赤々と燃え上がっている。
「マクシム!」
キャロルはスリッパを履くのも忘れて裸足で駆け出した。書庫へ駆けて行くと、どうやら火元は書庫の中ではないのだと気が付いた。急いで外へ飛び出し、書庫の横に回る。この書庫はマクシムが増築したものなので、屋敷の本体から出っ張る形になっているのだ。寝室から見えた灯りは書庫の陰から漏れ出たものだった。
「マクシム! どこなの!?」
素足が痛むのも気にならないほど、キャロルは焦燥に駆られていた。まさか、マクシムが自ら命を絶っているのではあるまいかと。
「キャロル」
「マクシム!」
頼りない声がしたかと思うと、マクシムは燃え盛る本の山の前に座り込んでいた。どうやら本をあの出窓から外へ放り投げ、火を点けたようだ。
「良かった、マクシム、無事なのね!」
キャロルは咄嗟にマクシムを抱き締める。
「ああ、僕は無事さ」
「ああ、マクシム。メアリーから聞いたわ。あなたはずっと苦しんでいたのね」
マクシムは何も言わずにキャロルの腕を抱き込んだ。
「もう、止めましょう。一人で苦しむのは。私もこの家の人間よ。あなたと結婚すると誓ったんだもの。あなたが背負わなければならないものは、私も一緒に背負うわ。だからもう、一人で苦しまないで」
「キャロル……」
燃え盛る炎の前に二人の影を見て、メアリーは安堵と共に必死に駆け出した。キャロルがマクシムを呼ぶ声が聞こえ、飛び出して来たのだ。キャロルとマクシムは、悲しみや痛みを分け合うかのように身を寄せ合っていた。その姿に、メアリーは足を止めて涙を流す。
マクシムの手には、一冊の本があった。聞いた事も無い作家の本だった。