90 : Day -53 : Todoroki
等々力渓谷は、美しい場所だ。
東急大井町線の等々力駅を降りたら、まずは南口から南西方向へと進路をとる。
それほどむずかしい道順ではない。
駅を出て3分もあればじゅうぶん、サアヤのような特殊な方向感覚の持ち主でもないかぎり、たどり着くことは容易である。
麻布や代官山でよくみる、高級スーパーマーケットの立地する道を右折、そろそろ見えてくる。
渓谷遊歩道入口──等々力渓谷だ。
「聞こえる……」
「なにが聞こえるのよ、お嬢」
まだチューヤは、渓谷に誘われるヒナノの心底を察しえない。
謎の「ゴルフ橋」という石碑を横目に、ヒナノの背を追う。
降り立てば、もう「東京」らしい景観は見えない。
渓谷の段差と樹木のカーテンに覆われ、ここが都内とはとても思えない、約1キロメートルの遊歩道がつづく。
12月上旬まで楽しめるという紅葉のなかを、南に向かって進む。
こういう閉鎖空間となれば、
「まあ、こうくるよね……」
チューヤはさして表情を変えるでもなく、変化する空気に適応した。
襲ってくる凶鳥の群れを、しかし先制して焼き払ったのは、ヒナノだった。
「……そう。あなたは、まだ」
つぶやきながら、ガーディアンをまとったヒナノは足を進める。
「戦闘開始っす」
ぽつりと言って、ご主人さまの背中を追う三太夫の役割を、黙って引き受けることにした。
チューヤは今回もまた徹して、みずからの分をわきまえる。
サアヤがどういう気持ちで戦闘参加しているのかを想像することが、このさい最適だと考えた。
「ハトホル、頼む」
エジプト神話を見るまでもなく回復魔法についてはエキスパートであり、サアヤにも多数の魔法を伝授してもらったハトホルの出番が多い。
「めずらしい戦術ですね」
ハトホルとの付き合いも長くなっている。彼女はチューヤの戦い方をよく知っていた。
地味にヌエなどを派遣して援護はするが、ヒナノの戦闘の邪魔にならない程度に控える。
きのう、代々木上原でなにがあったのかは知らないが、ヒナノの能力は火曜日と比較しても格段に上昇している。
「ここでは、彼女が主人公だから」
ふと、そんな気持ちでサアヤが自分を援護していた可能性に気づき、チューヤは複雑な気持ちになった。
「せつないですね」
ハトホルがどんな心理状態を忖度したのか、チューヤは考えないことにした。
「泣き言なんか言わないもん」
なにを言っても言わなくても、現実は冷淡に進行する。
戦場の中盤まで、ヒナノはみずから前線に立って突き進むことを成し遂げた。
──だが、なかばからは敵の力が強い。
後方から重爆撃をするスタイルのヒナノは、やはり後ろにいるべきだ。
獣たちを前線に展開しつつ、さきの戦闘でナカマにしたハーピーを舞わせ、高空から管制させるチューヤ。
戦場の景色を把握し、戦闘力を最適に配備する。これさえできれば、容易には負けない。
兵站と兵員の管理。悪魔使いとは、こういうものだ。
ヒナノは、自然に自分と入れ替わり、前線を維持するチューヤを複雑な表情で見つめる。
心情的にはともかく、事実としてこの男は優秀だ……それなりに。
優秀な人間には、ある程度、胸襟を開いてもよいだろう。
貴族にとって、平民を認めるハードルはかくのごとく高い。
「……ご苦労です」
戦闘を終え、周囲が落ち着いた段階で、ヒナノはようやく、そこにチューヤが存在する事実を認めることにした。
「あ、どうも」
「わたくしは、このさきに行かなければなりません」
「はあ、みたいっすね」
「あなたには聞こえませんか、この泣き声が……呪いの声が」
ヒナノの裏側が、ゆっくりとめくれていく。
等々力渓谷は世田谷区にある23区唯一の自然渓谷で、「不動の滝」周辺は最大のパワースポットとされている。
鉄道や高速道路が走る周囲の圧倒的な都会と比較して、あまりにも落差が大きいことから、かなり強い心理的印象を受ける。
その最奥部をまえにして、ボス戦直前に特有の情報整理と準備が行なわれた。
「わたくしは、この近所にある学校に、中学まで通っていました」
「デ、デンミツだね」
チューヤはドキドキしている。
ヒナノとこのような会話を交わせていることが、ひどくうれしい。
──田園調布參葉学園。
女子高等教育の伝統をもつミッション系の超お嬢様学校だ。
「ふつうの生徒は、一度入学したら大学まで──時には結婚まで──系列のレールを外れることはありません」
純粋培養のお嬢さまとして、一部の人々に人気を博する「ブランド」。
ヒナノは、そのドまんなかを占めて、輝かしい将来に突き進んでいた、が。
「それがなんで、石神井みたいな田舎の高校に……?」
一応、23区ではあるが、いかんせん練馬だ。
東京西方域において、世田谷がキングなら、杉並はクイーン、練馬はジャック、という位置づけが一般的だ。見方によってキングとクイーンのウエイトは置き換わるものの、ジャックはジャックでしかない。
なぜ生粋のキングのなかのクイーンが、そこにある超エリートコースからドロップアウトして、泥くさいジャックの共学に漂流しなければならなかったのか?
「小石川や白金という選択肢もありましたが──彼らとは一度、距離を置きたかったのです」
山手線の内側、文京区、港区という「他の王国」への移転より、北西の果て、庶民への降下を選んだ。
「堕天ですね」
思わず放ったひとことに、ヒナノは、キッと予想以上に鋭い視線で報いた。
堕天使ヒナノ。めっちゃ萌える気はするが、当人が怒っているからこのくらいにしておこう……。
「……いえ、罪を犯したという意味では、そのとおりかもしれない」
ふいに弱々しい口調で、彼女は言った。
彼女は事実、堕天したのだ。
神学機構のエリートコースから、不良の国つ神どもがたむろする底辺の高校へ。
それが、彼女の受けた「呪い」──。




