89 : Day -53 : Futako-tamagawa
「二子玉川、ふたこたまがわ。東急田園都市線、大井町線はお乗り換えです」
アナウンスを背に電車を降りて、脳内に路線図を描くチューヤ。
三軒茶屋を目指すなら、このまま田園都市線に乗り換えればよい……と、そこで、この乗り鉄はハッと足を止めた。
こ、これは、最短距離ではないか……!
石神井公園から三茶を目指すなら、まず川の手線を使わないルートから、検索すべきではないか? JRやメトロと接続すれば、そのさきの自由度は飛躍的に増す。
川の手線を使うにしても、千歳烏山で乗り換えなくてはいけなかった。そこから下高井戸まで出れば、あとは東急世田谷線の楽しい路面電車ライフで三茶に向かえたのだ!
最近、目的地に対して最短距離をとる、という頭のおかしい一般ピープルとばかり付き合ってきたおかげで、正しい電車の乗り方を忘れてしまった。
「お、俺は、鉄として、は、恥ずかしい……!」
壁に手をつき、がんがんと頭をぶつけるチューヤ。
「ママー、あのおにーちゃんな……」
「しっ! 見ちゃいけません!」
子どもの口を押さえ、母子が遠ざかっていく。
──そうだ、俺は正しく電車に乗らなければいけない。
チューヤは一転さわやかに笑うと、東急大井町線のホームへ向かって歩き出した。
彼の「鉄」人生は、物心ついたときから、すでにはじまっていた。
生まれたときに母親を亡くしているせいで、彼には「実家」と呼べるものが半分しかないかといえば、そうでもない。
父親は、妻の両親から娘を奪ってしまったことを激しく自責し、チューヤに対して複雑な感情をもちながらも、その息子を母親の実家に可能なかぎり連れて帰ろうという責務、決意を固めていた。
父親の実家は東京だったが、「帰省」と称して連れて行かれたのは、ほとんど亡き母親の実家だった。
──娘を奪った。
そう自覚している彼にとって、娘の代わりに孫を連れて帰るのは、ほとんど強迫観念に近かった。
こんどの休み、どこへ行く? など聞く必要さえなかった。
連休には必ず、彼らは秋田にいた。
小学生になると、記名式のICカードをもらった。チューヤが父親からもらったもののなかで、いちばんうれしかったものだ。
これが、現在チューヤの所持金「マッカイン」を記録するカードとなっている。
電子マネーの便利さは、使えばすぐにわかる。
これで自由に、どこにでも行ける。そうチューヤは喜んだし、これで連れて行かなくて済む、と父親も肩の荷を下ろした。
じっさいチューヤは乗った。乗って乗って乗りまくった。
右手に時刻表、左手に鉄道時計をもって、テツの道を突っ走った。
あまりにも乗るので、いいかげんにしろと怒られたことがある。使用履歴の通知を見せられて、小学生のチューヤにもその意味がわかった。
オートチャージ設定を解除されるかと思ったが、父親はそうしなかった。
ほんとうは、どうでもよかったのかもしれない。
一応、形だけ叱った。あとは勝手にすればいい。
考えれば悲しい事実だが、それでも、はじめて怒られたことは彼に「成長」をうながした。
運賃という重要な要素に気づき、なるべく安く乗ることを考えはじめた。
結果的に、テツとしては正しい成長の道を選んだことになる。
「休日パス」は、お宝の制度になった。
いろんなところへ、お安く行ける。彼は使える制度をみずから探し、もっぱらJR東日本の範囲を乗り倒した。
──そのころ、祖父が死んだ。
古い機械式の鉄道時計は、形見になった。
これが現在、チューヤ3点セットの一角をなしている。
死ぬということの意味はまだよくわからなかったが、おじいちゃんが死ぬ、というのは世間ではよくあることらしい。
いまは、おばあちゃんがひとりで暮らしている。ほとんどなにも言わない父親は、おばあちゃんに顔を見せてこい、とだけは言うようになった。
その言いつけは最大限、守っている。
この件が終わったら、秋田に帰ってばあちゃんに顔を見せよう。
いや、終わらなくても。
そう彼は、心に決めた。
さて、とりあえずどうするか。
二子玉川駅。チューヤは視線を上げ、周囲を見まわす。
大井町線の名のとおり、大井町まで行ってしまうか?
うむ、なかなか魅力ある提案だが、三軒茶屋に用事があることを忘れてはならぬぞ。大井町から東海道線、いやさ、りんかい線に乗り換えて、都心を目指したのち、返す刀で東急田園都市線直通・東京メトロ半蔵門線から、がーっと一気に三茶を目指すか!
チューヤの脳裏には、路線図ばかりか歴史年表までが思い浮かんでいる。
とりあえず大井町線に乗り込み、車窓をガン見しつつ、その揺れに身を任せると同時に、路線の歴史にも思いを馳せる。
鉄は、いつでもどこでも「楽しみ方」を知っているものだ。
いまでこそ半蔵門線とつながっている田園都市線だが、なんと、かつては銀座線と直通予定だったんだぜ!
え、あの銀座線? 日本最古の地下鉄、標準軌の地下鉄と!? うっそだぁ。
いやいや、ほんとですから。
チューヤの脳内では、ひとりディスカッションがくりひろげられている。
1956年、東急は、渋谷・二子玉川園(当時)をつなぐ新玉川線(予定)を計画した。その申請した鉄道敷設免許の軌間は、1435ミリだったのだ!
東京の鉄道の大部分が、国鉄に寄せる形で1067ミリの狭軌を採用するなか、数少ない世界標準軌による申請。これの意味することは、すべて、銀座線への乗り入れが目的であった。
しかし1年後の1957年、方針は覆る。
「──まあ、話せば長くなるわけだが、諸般の事情からな、長津田以遠とか大井町線とか乗り換えとかの都合も考えてだよ」
大東急と呼ばれた大いなる時代のうねり──もちろん生まれてもいないが──を脳裏に描きながら、ひとり得心するチューヤ。
車窓に向かって、ひとりうんちくを吐き出しまくる高校生の背中を指さし、
「ママぁ、あのおにい……」
「しっ! 聞こえたらどうするの、目を合わせちゃいけません!」
子どもの目を覆う母親。
いつもの「自重するチューヤ」は、ここにはいない。
そうして、ひとしきり自問自答した結果、画期的な遠回り計画を規定事実として策定しようとした──そのとき。
計画を覆す現実に直面し、東急ならぬチューキューは、ただちに思考回路を切り替える。
「……お嬢?」
駅のホームに、見覚えのある金髪縦ロール。
現在の日本国に盛り盛りガールが増えているとはいえ、あそこまで目立つ派手な女は、そうそう見ない。
チューヤは本能的に、閉まりかけたドアからホームに駆け下りた。
──ヒナノは、見慣れぬ駅の仕様を理解できていないのか、ゆっくりとホームを逍遥して何事か考えこんでいる、ように見える。
チューヤはしばらくその姿を見守ってから、思いきって歩み寄り、
「こーんばんは、お嬢さん」
ふりかえったヒナノは、静かに言い放つ。
「ごきげんよう、さようなら」
これは、いつにも増してお嬢だな、と人定確認を済ませたチューヤは、
「なにしてんの? きょう、学校休んだって聞いたけど」
「…………」
ヒナノの注意は、ほとんどチューヤに向かない。
もちろん彼女は、明確な目的をもってここにいるのだ。
「むこうに、なにかあるの?」
ヒナノの視線を追って、チューヤも南を向く。
どうやら──あたりまえだが──駅を楽しんでいるわけではないようだ。
「泣き声が……」
ぽつりと言い、胸を押さえる。
ヒナノの謎がまたひとつ、解かれようとしている。




