44 : Day -58 : Chikatetsu-akatsuka
日付が変わった。
結局、研究棟にはいることはできなかった。
行き方に暮れて疲れ果てているふたりを、ようやく導くことに同意したのが、ケルベロスだった。
途中、どこかではぐれたまま、その安否を心配していたサアヤだったが、平然と姿を現すケルベロスの英姿を目にすると、見当はずれの心配ではないかという気がした。
ここで生き抜く能力は、むしろ自分たちよりも高いのではないか。野生のケダモノ、ケルベロスを心配することじたいが、むしろおこがましいのではないか、と。
結局、スタート地点に近い壁に背をもたせ、ため息を漏らすふたりに向けて、
「ワヒャヘイフィンバウ」
鳴くケルベロス。
「あいかわらず変な鳴き方をするやつだな。なんだよケル、俺は疲れてるんだ」
チューヤは相手にもしない雰囲気だが、サアヤはケルベロスを撫でながら、
「どこへ行きたいんだ? って訊いてるのよ、ケルは」
適当な感じで通訳する。
チューヤは突っ込むのも疲れたとばかり、
「このさきだよ。むこうにある研究棟、はいれないようになってるだろ。近づくと警備員が現れるし、切り抜けてもなぜかさきへ進めないし」
「ワヒュバウアバッカ、ワンヒャイバウッチュロウ」
「なんだそんなことか、案内してやろうか? だって」
チューヤはケルベロスからサアヤに視線を転じ、
「……おい、冗談にもほどがあるぞ」
「いや、私もそうは思うけど、集中して聞くと、なんかそんなふうに聞こえない?」
するとケルベロスは、ふん、と鼻先で笑いながら、てくてくとどこかへ歩いていく。
そのまま裏門の隙間をするっと抜けると、さっさとついてこい、とばかりふりかえって、わう、と鳴いた。
溺れる者のように、そのあとにしたがうサアヤ。つづけて立ち上がるチューヤ。
もう、こうなったらしかたない……。
ケルベロスは、勝手知ったる自分の庭のように、光が丘の街を堂々と闊歩した。
地下鉄の駅にはいったところで、チューヤはため息を漏らす。
そうではないかと思っていたが、自分で気づけなかったことが悔しい。
この程度のことを、まさか犬コロに教えられるハメになろうとは。
「チューヤ、これって」
「うるさいな。とっくに気づいていたよ。……行くぞ」
ケルベロスを追い越し、まずは高速エレベーターで大深度にある川の手線のホームへ。
──1番線の突端に立ち、先週もらった機械で指を刺す。
痛みはない。じわりと絞り出した血で、空中に五芒星を描く。
魔法陣がホームの一隅に定着し、起動プログラムが開始される。
あとは、要求されているソースコードを書き連ねていくだけだ。
黄色い線をさきに立って進む、チューヤの背中を追いかけるサアヤ──いつものふたりの姿。
「ホームを歩くの楽しそうだね、チューヤ」
「鉄ちゃんをバカにする視線やめい」
そのまま上り線と下り線の黄色い線を踏破する。
つづいてエスカレーターを昇り、都営大江戸線のホームへ。
すでに日付は変わっていて、つぎの電車がおそらく終電になる。
ホームに人影はほとんどない。
周囲の景色が変わっていく。
そう、このやり方を使えば、こちらから人為的に境界化させることができるのだ。
本来、これは駅に住む悪魔と交渉なり戦闘なりするための方法だと思っていたが、別の使い方もできるというわけか──。
「いや、これが正しいのかはわからん。が、やってみるしか、ないよな」
光が丘は地下駅、1面2線の島式ホーム。
「人生何事も塞翁が馬耳東風、探検冒険オブジェクションだね」
ぐるりと往復している間に、周囲の景色がじんわりとぼやけ、空間がゆがめられていく。
傲然と先を歩くケルベロスに、チューヤはすこし心配そうに、
「あぶないぞ、ケル。おまえは来ないほうがいいんじゃないか?」
「ケルベロスは自由なケダモノだよ。行きたいところに行くし、帰りたいときに帰るよ」
わけのわからないことも言うが、もっともなことも言う。
サアヤの言葉にうなずきながら、チューヤは再び親指を押さえ、血の球を絞り出す。
それにしてもこのケルベロスという犬、必要以上に多くのことを知っているような気がして、少しく不気味に思った。
最後の場所、ホームの突端で逆順に五芒星を描いた瞬間、かちり、と世界の軸がずれて、別の歯車と噛み合う。
人影は消え去り、空気が最終的に変質する。
──境界化。
目のまえに魔法陣が回転しながら現れ、開かれた魔法の扉の向こう側から現れるはずの悪魔は──いない。
「ワンヒャクガウワォン!」
と、ケルベロスが再び奇声を上げながら、開かれた扉の向こう側に突入していく。
「あ、おい、ケル」
「ついてこいザコども、だって」
「飼い主に似て口のわるいやつだ……」
「飼ってないよ。自由なケダモノにお願いして、お友達づきあいをしてもらってるだけ」
ケルベロスのあとにつづくサアヤ、そのあとにしたがうチューヤ。
サアヤの探検冒険オブジェクションは、つぎの段階へ。
光が丘駅はターミナル駅であり、そのさきには進めないようになっている。
大江戸線の延伸計画はすでに決定しており、土支田、大泉町、大泉学園町の各駅が工事中だが、まだ開業はしていない。
工事関係者しか立ち入れないはずの地下道。
そこはいま、境界化した別世界の地下道へとつづいていた。
「これが整備着手適用路線ってもん、なわけねえよなあ」
かつて見学したことのある地下鉄工事の現場を思い出しながら、つぶやくチューヤ。
延伸工事用の通路が実在することは知っているが、ここがそうだとはとうてい思えない。
いずれこの道を、都営地下鉄がJR東所沢駅まで接続する……いやいや、ないわ。
手掘り感のある側道、新しくはない擁壁、使い古された接続通路は、あきらかに境界仕様だ。
もちろん地下道は、だれかがだれかの目的のために掘ったものだ。地下鉄路線の調査のために掘られた先進坑くらい、あってもおかしくはないわけだが……。
「こんな道、あったんだね」
サアヤは朴訥に、新ルートが発見されたことを喜び、目的地への道を急かしている。
もちろんチューヤにも、ここが正解の道なのかはまったくわからない。
しかしケルベロスは、勝手知ったる我が家のように、ずんずんとさきへと進んでいく。
ダンジョンのようになった通路を曲がり、目立たない扉を抜け、着実にチューヤたちをどこかへ導いていく──野生のケダモノ。
これはほんとうに、調査掘削された地下道だろうか……いや、なんらかの坑道のようにも思える。こんなところに炭鉱が見つかったという話は聞かないが……。
地下で、いまいち方向感覚はつかめないものの、チューヤのナノマシンは自分たちが北に向かっていることを教えてくれている。
「そういや、リョージが言ってたな。川の手線の本線工事は終わったけど、じっさいはまだまだ終わってないって」
この手の道があるとしたら、その職掌はリョージの父、スーパーゼネコン(実働は孫請け)のお膝元ということになる。
川の手線はすでに開通している。が、それに付随するさまざまな道や施設は、依然として鋭意継続工事中だ。
おかげでリョージの父もワーカホリック気味で、ほとんど家に帰ってこないんだ、とぼやいていたことを思い出す。
だれの親も、変質する東京という都市にかかわって、たいへんいそがしい。
そうして東京の地下は、さらに複雑さを増しながら、毛細血管のように網羅、拡大をつづけている。
「ワヒャログルックガウェ」
ケルベロスが吠えながら、ひとつの扉のまえで止まる。
「なんだって?」
「うるせえぞ、てめえら、あとは勝手にしろ、だって」
「……すごくそっくりだね、ケルくんとサアヤさん」
背後からサアヤにこめかみをグリグリされながら、ドアに手をかけるチューヤ。
鍵はかかっていない。
ゆっくりと引き開けようとして、抵抗を感じる。
むこう側で押さえているひとがいるのではないかと一瞬恐れたが、どうやら気圧の関係のようだと理解する。
むこう側が陰圧になっていて、自然に閉じられるようになっている構造は、室外に化学物質や病原菌などを曝露したくない薬品製造現場や研究室などに多い。
すこし力を入れると、ドアはゆっくりと開いた。
「ワヒェンバウア!」
そのわずかな隙間から、ケルベロスがすばやく内部へと飛び込んでいく。
「バカめ、おさきに! だって」
「なんなんだよ、そんな喜ばしいものが、このさきにあるのか?」
「わかんないけど、私たちも行こう」
どちらが従者かわからないな、と思いながら、ここまで来たら行くしかない。
「しかしケルが、まさか、こんな形で役に立つとはな」
「ケルベロスは地獄の番犬だよ! 地獄の入口くらい、知ってて当然当然」
「地獄かよ!」
さらにもうすこしだけ開けた隙間から、なかへ。
同様に圧力の関係で自然に閉じる扉。
冒険はつづく。




