08
「ああ、あれ? 高熱がもっと続いたら危なかったかもな。俺も慌てて薬を取り寄せたけど、冷静に考えると絶対取り返しが付かないのって一体どっちだろうって思ってさ」
「マスターが慎重な人で本っ当っに、助かりました」
「そうはいうけど、再起動で戻ると分かっていたって結構怖いぜ。病人の前は」
「それは……心から感謝しています。一番いい『明日』が来ましたから」
「何度も言うけど、『しあさって』の間違いだ」
「えへへっ」
屈託のない笑顔で元気に食事を取るイレーヌ。俺が一番見たかった顔。
ゼリー的な流動食から……なんて思っていたが、回復して食欲はあるらしく夕食は居間に出てきて一緒に食べることになった。自分用に大鍋で作ったミネストローネだが、煮込んだ分消化には良いかもしれない。三日遅れでテーブルを囲む。
ここは庭園側に一段張り出した展望室にしか見えないが、元ネタの宮殿では朝食でしか使わない専用の部屋らしい。どんな部屋割りだよと突っ込みたくなるけど、他のダイニングは大きすぎるし、キッチンで食べるのは味気ない。
全体が小さくまとまった離宮もあるんだが、チェックが済んでない上に引っ越しの手間もある。どうにか二人で落ち着くサイズに調整できるのは、ここくらいしかなかった。それでも喫茶店くらいの大きさって……宮殿の実際はかなり使いづらい。
「結局。寝不足ってこと? 不調の原因は」
「正確にはわかりませんけど、寝たら回復したので……」
「高熱が心配だけど、バイタルログ見てみたんだろ?」
「はい。さっき外部アクセスさせて頂いて、AIの簡易診断を受けましたけど、過労による発熱の可能性が高いので、意識がないならすぐ救急車を呼べって」
「その情報俺も見た。でも、過労だったら解熱剤なんか効かないらしいんだよね。あのシロップのお陰じゃなくて、単純に寝たから熱が下がったのかな」
「無意味に座薬を使われていたら、私。死んでも死にきれませんでしたよ」
イレーヌは笑って流してくれたが、今回の件で医者は凄いなと思い知らされた。
仮想世界の身体構成データ相手なら、素人の俺が注射や点滴をしても全然問題ないんだが、彼女の柔肌に注射針を刺し薬を投与するなんて、とてもじゃないが出来る気がしない。その対処が正しく必要だと確信できるからこそ、行動に移せる訳だ。
今回はイレギュラーな患者相手のお医者さんごっこだったが、危うく医療事故もどきを起こすところだったといえる。おっかなびっくり彼女を抱き上げて、窒息しない体勢に寝かせ、高熱にうろたえながら身体を冷やすのが精一杯。
効かなくても害にはならないシロップやスポーツドリンクを舐めさせるようなペースで口に注いだが、どれだけ意味があったか分からない。
薬を飲むのが難しい相手に対して、安全迅速に作用するのが解熱用座薬だとAIが教えてくれても、結局すべてを躊躇した。彼女にバックアップがない本当の危篤状態だったとして、根性を決めた対応が出来たかどうか怪しいもんだ。
俺は、自分がデザインしたこの世界ですら神様になれない――――ガキだ。
己の不甲斐なさに失望して項垂れただけなのに、イレーヌは自分の軽口のせいだと勘違いしたのか突然慌て出す。
「あ、あの、マスター。冗談でも言葉が良くありませんでした。ごめんなさい」
「違うよ。こんな世界を作っても、結局煮え切らない自分にガッカリしただけ。夕食の時間にイレーヌが来なかった時点で部屋に入れば良かったのに結構迷ったし。点滴の機材セットを裏サイトで見つけたのにやらないし。無断でも強制再起動をかけて君の身体を楽にしてから対処すればよかったかなって。今にして思えばね」
「それは違いますマスター」
それこそグチグチと後悔を口にした俺をはっきり見据えて、イレーヌが強い口調で言い返してきた。
「マスターは私との約束を全部守ってくれました。いきなり部屋に入らなかったのは私のプライバシーを大事にしてくれたからでしょ? アラームが鳴ってなくても、心配して早めに助けに入ってくれた。私は両方の気持ちがとっても嬉しいです。仮想世界で医療器具を無責任に使うなんて悪い人達のやることですし、強制再起動をかけてもう一度なんて勝手なことをしていたら、私を同じ人間だって言ってくれたあの言葉を疑いますよ?」
対面の席から静かに立ち上がったイレーヌはつかつかと俺に歩み寄り、テーブルの隅に片手をつく。怒っているというより、何か悲しんでいるような辛そうな顔で、すっと角を回り込み、俺のすぐ隣で膝立ちになった。
「難しい状態だった私を全力で助けて下さって、ありがとうございます。マスター。後悔のループになんて入らないで? それは必要のないことです」
「今がベストだって、言ってくれるのか?」
「はい。おかげさまで、何も失わずに明日を迎えられました。私から何かを奪って良いのはマスターだけです。全部、頂き物ですから」
中途半端に身体をひねり、宙に浮いた俺の右手をイレーヌが両手で引き寄せた。
「最初からずっとお世話になりっぱなしで、何一つお返しが出来ない状況なのに、まだ私。マスターにお願い事があります」
「何だろう。でも答えを先に言うとOKだ」
「…………もう。そんなこと言って。後悔しても知りませんよ?」
「好きな子が出来るとROOT権限を完全に持っていかれるみたいでさ。断るっていう選択肢が見えなくなくなるんだよね」
「私も。その気持ちとっても良く分かります」
手をゆっくりと彼女の胸元に引っ張られ、上半身が少し泳ぐ。近づいて来てよく見える、両方の小さな涙ぼくろ。
彼女の大きな瞳がそっと閉じられたら、もう止まる理由はどこにもなかった。
柔らかい唇を静かに塞いでからは、無我夢中であまりよく覚えていない。まだ熱が引いてないんじゃないかと思うくらい熱く、小刻みに震えるほど力の入った彼女の手が、とっても小さく柔らかく感じた。
唇が一瞬離れ、なんとなくまぶたを開けたら優しい視線が待っていて。
これ以上ない至近距離で彼女が囁く。
「これから私がマスターって言うときは、『大好き』って意味だと思って?」
そりゃ嬉しいなと単純に思っていたけど。
よく考えてみれば二人しかいない世界で言葉を読み替える意味はない。
素直に口にすればいいことだ。
だけど、一際長いキスの後。
彼女が告げた『お願い事』を聞いて、やっとその理由が分かった。
「私の大切な友達八人にも、明日を下さい。この場所で」
「OKって言ったろ?」