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男が正気を失ったのは、わしが頭の中に、魔法によって、憎悪の感情を送り込んだからである。今彼の頭の中では、とてつもない量の怨嗟の声が渦巻き、自らの感情を塗りつぶされているはずだ。
そんな状態にあり、暴走する味方に混乱する男たちをよそに、わしは木によりかかり、ゆったりとその光景を見させてもらう。
この者達は、人間だ。人間が、何故魔王の魂を受け継ぐ、その手伝いをするのだ。世界は、人間と魔族との間で和平が結ばれ、平和になったはずである。見方を変えれば、人間と魔族が協力し合っている風に、見えなくもない。だが、この人間たちの行動は、支配による行動だ。そうしなければならぬ理由があるから、そうしているのに過ぎない。人間と魔族の手の取り合いとは、到底言えぬ。
そこでふと、思い出した事がある。確か昔、わしが魔王だった頃に、異世界から突如現れたと言う勇者が、魔王と戦ったという文献が残っていた。
その勇者は、結局当初の魔王に敗北し、拷問される事になり、全てを話した。それによると、確か異世界にて死んで気づいたら、この世界にいたと供述したとあった。
異世界などという存在を、わしは信じている訳ではないが、しかしわしがその勇者と同じ境遇にあるとして、この世界が異世界だとしたら、どうだ。
「っ……」
「ひぃ!?」
わしは、一旦頭の中に憎悪を埋め込んだ男を、闇の口に喰らわせて、黙らせた。
仲間に剣で刻まれ続け、それでも狂人のように仲間に襲い掛かり、血まみれで傷だらけになった男の首が、突然なくなったのだ。それをしたのは、連中もわしだと分かっている。残った連中は、訳が分からないと言った様子で、わしの方を見てきた。
その視線には、わしに対する恐怖が乗っている。静かになっても、すぐにわしに襲い掛かってこんのは、わしに対する恐怖心を抱き始めたからである。
「聞きたい事がある。この世界の名は、何という」
「せ、世界の、名前……?」
男の一人が、やや小さ目ながら、しっかりと受け答えをした。他の連中は、怯えて喋る事もできんようだから、答えた男に対して、質問を投げかけてみる事にする。
「では質問を変える。この森の地名は、なんという」
「ざ、ザザーク森林……」
聞いたことのない名だ。
「クラウソラス王国という名に、聞き覚えは?」
「……」
男は首を横に振る。
「ルアグ国王。クロヴィ平野。クリベン大陸。いずれかは、どうだ」
いずれも、男は首を横に振るだけであった。
ここが、元の世界と同じ世界であれば、知らぬはずがない。そういう人名や地名を連ねたが、誰も知っている様子はないようだ。
「──では、勇者セフィリア。魔王ヴァラクオメガという名に、聞き覚えは?」
「な、ない……」
満を持して出した名も、知らぬと答えられた。わしの名に関しては、仕方がない。知らぬとしても、それは存在を世界に除去されたまま、世界は変わらなかったという事で、納得ができる。
しかし、勇者セフィリアの名を知らぬのは、異常だ。わしが死んでから何年経とうとも、その名は永遠に引き継がれるはずである。人間が、救世主である勇者の名を、受け継がぬはずがなかろう。
となるとやはりここは、異世界。わしがいた世界とは、別の世界という事になるのではないか。まだまだ確定という訳ではないが、その可能性が高い。
「ん?」
わしが放っていた闇の口が、突然消え去った。
それをしたのは、我が妹だ。戦いに混ざらず、黙り込んでいると思ったら、わしの魔法を解析していたようである。他の大人の魔術師より、この幼き少女が、先にやってのけたのだ。
しかし、このような弱き魔法の解析に、いささか時間がかかり過ぎであるし、ただ魔力を少し籠めてぶつければ霧散する物を、わざわざレジストするのも、無駄がすぎる。
が、ここは素直に、褒めてやろう。どれだけ時間がかかっても、どれだけ無駄であったとしても、わしの魔法をレジストしてのけたその腕前は、確かな物である。
「貴女はやっぱり、姉様じゃない。姉様は、こんな魔法は使えない。そもそも、こんな魔法は見た事も、聞いたこともない」
レジストしてのけたものの、我が妹の表情は、強張っている。わしのこの身体の元の持ち主が、どんな者だったのか、わしは知らん。だが、我が妹の様子を見るに、このような事はしないようだな。
「最初に言ったし、そちも気づいていたではないか。わしは、そちの姉ではない」
「姉様の姿をして、姉様の声で喋っているのに、それじゃあ一体、誰だと言うの!?」
「わしが、誰か、か……。それを聞けば、そちは怒ると思うぞ?」
「……」
そう言ったが、我が妹はわしの目を見据え、言えと訴えかけてくる。そのように期待する目で見られたら、わしとて名乗らぬ訳にはいかぬだろう。
「……良いだろう。聞かせてやる。わしの名は、ヴァラクオメガ。魔王、ヴァラクオメガである」
ここは、拍手喝さいが巻き起こるべき場面である。しかし、辺りは静まり返った。まるで、全てが凍り付いて動かなくなったが如きの、静寂である。
「いくらなんでも、魔王様を名乗るだなんて、やり過ぎよ、姉様。このままだと私、姉様をこの手で殺さなくてはいけなくなるわ」
本性を、表した。先ほどまでは、間違いなく、小さく可憐な少女だった。
しかし、本性を表した我が妹は、可憐な少女とは言い難い。全身から黒いオーラを撒き散らし、その髪色は金髪から、真っ白に色を変えた。更には、目の色までもが変わっている。金色に輝くその瞳には、うっすらと紋章が浮かび上がり、それ自体が魔法の役割を果たしているようである。
わし個人としては、可愛いというより、キレイだと思う。しかし、世間一般的に見れば、今の我が妹は、化け物である。
周囲の男たちの、怯えて我が妹から離れる様子が、それを物語っている。
「やってみるが良い。だが……そちのような、自分の判断で崇拝する者も選べぬような者に、わしが殺せるのか?」
「黙って!私はね、魔王様の力の一部を授かっているの。だから、本気を出したら、全部滅茶苦茶になっちゃう。だって、あまりにも力が強すぎるんだもの。今なら、謝って私のお人形さんになってくれるなら……まだ、許してあげられる。だから、お願い姉様。ごめんなさいを、して?」
「すまんが、我が妹よ。そのようなか弱き力に、屈するわしではない」
「そう。なら、死んで?」
我が妹が、人差し指を天に掲げた。その先端に、小さな闇の球体が姿を現わす。それを、我が妹はわしに向かい、放って来た。球体が、ゆっくりとわしの方へと向かってくる。